なんとなく梅雨の到来を予感させる曇り空の金曜日です。

明日くらいまでは天気はもつらしいのですが、日曜からは雨が続くようで東北も来週は梅雨入りなのかもしれません。


今朝はジムに行く前に奥さんに依頼された写真印刷とかをしていたので、大体は朝に呆然と見ていることが多いモーニングショーは見ないでいました。

しかしコメンテーターに廣津留すみれさんがいるのはチラ見レベルで理解してました。


ジムから帰ってきてから、さてととヤフーニュースを見ていたら、その廣津留すみれさんが「日本はハイコンテクストな国だったはずなのに」と言っていた、という話を見つけて思わず喜んでしまいました。



この記事を読んで、あら、モーニングショーちゃんと見るんだったと後悔したのですが、彼女は都知事選のポスター掲示盤とかについて、下記の発言をしたようです。


そうなんです。
私等の世代くらいまでかもう少し下の世代までは「以心伝心」とか「言わずもがな」とかがごく当たり前のこととして通じてました。
つまり、日本の文化は日本全国津々浦々まで基本的には均一なものとして存在し、人々はその文化にそって社会化を果たしていたので、暗黙の理解のもとに「他者のこころ」を先取りすることができたからこそ「言葉を発することのない」意思疎通も可能だったわけです。

しかし、それは日本特有の「甘えの構造」であり、そこに甘んじている限り欧米人のような「自我の成熟」は起こらないという知識人たちの指摘をきっかけにして、「自立」やら「個の確立」が声高に叫ばれるようになったのが70年代から80年代くらいです。 

その一つの表現型として「日本的な家族制度の否定」も現れました。日本の家族の背後には家父長制が色濃く残存し、子供は親に従わざるを得ない、ないしはその父親が弱力である際には母親が過剰に支配的になり、結果的には子供が自立できない、などの指摘も相次ぎました。人々はみな「イエ」からの自立を試みました。

同じように日本の雇用形態も90年代のバブル崩壊とその後のリーマンショックをきっかけにして、「終身雇用年功序列」というある意味、社員を家族のように位置づけ保護するシステムをやめ、「自立した・責任ある労働者」を求めるようになりました。
その結果、非正規雇用の割合が急増し、同時に低所得者層が増え、経済格差は広がりました。

このようにしてあたかも、国家施策のようにして推進されてきた「個人の自立」は、必然的に「社会規範の相対的地位の低下」をもたらしました。
「社会規範」は「自立した個人」に対して抑制的な機能を持つために嫌われ、かくして、かつては暗黙裡に家族や社会に共有されていたハイコンテクスト性は失われ、「自立した個人」がそれぞれバラバラの基準を前面にうちだし、跋扈するようになったわけです。デュルケムが言った「アノミー」ですよね。

その結果の一つが、今回の都知事選に如実に表れているように見えます。
目立ちたい、自分の存在を際立たせたいと考える泡沫候補としか呼びようがない、しかし金だけは持ってる人たちが300万円の供託金を投げ捨てて、立候補しているように見えます。
なかには自分のポスターだけ大量に貼る人や、ヌード写真まで貼る人もいたとか。

70年代からこの国が進めてきた「個人の自立」はこんなふうな結果しかもたらしていないのなら、2024年にしてもはや21世紀は世紀末ですよね。

これからは暗黙の了解とかはまるで通じない社会が展開されるんだと思うと、以心伝心に慣れてきた高齢者である私は本気で恐ろしくなります。
なにをするにも言葉や文字での「契約」を結び、契約に記されていること以外を期待することはルール違反とされるから、そこには人情とかおもいやりとかが入る余地はなくなります。
万が一善意でしたことに何らかの瑕疵が起きれば当然訴訟の対象になるだろうから、善意で手を差し伸べる人はいなくなります。つまり、全ての行為は契約に基づくものとなり、同時にそれに応じた「対価」を前提とするようになる。
「無償の愛」とか言おうものなら化石老人扱いされるんだろうな。
全ての思考や行為は「経済原則」によってしか駆動されなくなる。

ここまで書いてきたら、夕方、三井住友銀行が年功序列制をやめるというニュースが入ってきました。そしてそれを見習う企業は増えるだろうとの解説もありました。

さすがに文句を言う気力もなくなりました。
要は、この国の国力が低下したし、昔の景気の良い時代の残り滓を引きずる余裕はもうありませんということで片付けられるんでしょうが、しかし昭和以来通底してきたアメリカ依存・アメリカのモノマネをしてきた、そのアメリカが今どうなっているかまでは誰もみないのかしらね?

戦後、ずーっとアメリカのポチばかりしてきたこの国はずいぶんひどいことになってんだなと、実感するきっかけになった今回の都知事選の話でした。