今でこそ、怖い話とかYouTubeとかを平気で見たり聞いたりできますが、子供の頃はとにかく臆病で怖い話はしみじみ苦手でした。


大体今くらいの暑くなる時期になると、近所の愛川商店(民家に毛も生えてないような小さな小さな店)の雨戸の戸袋のところに、隣町の映画館で上映される「東海道四谷怪談」やら「吸血鬼ドラキュラ」とかのポスターが貼り出されるのが大変こわくて嫌でした。


なにしろ、街灯なんてほぼない田舎町(あっても60ワットくらいの裸電球が白い傘の下でぼんやり照らすくらい)。

夜はホントに暗いんです。

たから夜には外に出なかったのですが、稀におじさんちでお呼ばれして夕飯を食べたりした帰り道、鼻をつままれても分からないくらいの漆黒の闇の中をうちに帰るのは

大変怖かったんです。

懐中電灯は一本持ってましたが、当時の懐中電灯は単一電池2本で豆電球を光らせて、今みたいに明るくない。


うちの周りの竹藪には、ドラキュラだのフランケンシュタインだの宇宙人だのお岩さんだのが潜んでいて、んが〜っとか叫びながら飛び出してくるんではないかと気が気ではありませんでした。


その怖がり小学生が、少年少女世界文学全集で「雨月物語」に出くわし、そのなかの「吉備津の釜」を読んだら涙が出るほど怖かった。


大人になって調べてみたら、岡山県にちゃんと実在する神社なんですね。


吉備津神社というらしい。


そこに、物事の吉凶を占う「吉備津の釜」という釜があり、お湯を沸かす時に出る音の大きさや鳴り方で占えるらしい。


昔、遊び人の男(たしか庄太郎)に身を固めさせようとした親が磯良という娘との結婚を図り、吉備津の釜で占いをした。

なんだか、音が出なくて不吉の結果だったか、まあいいんじゃないかと結婚させてしまった。

最初のうちは仲良くしていたが、やがて庄太郎には別の女ができ、磯良は庄太郎を信じてその女に対して援助までしていた。


やがて磯良は夫の不倫ストレスから死んでしまうが(この辺記憶が曖昧)、庄太郎の相手の女を取り殺してしまう。


それを怖がった庄太郎は偉い占い師に頼んで御札をもらい、40日間だか家に引きこもるが、最後の夜に、満月の光を朝が来たと勘違いして戸を開けたところ、待ち構えていた磯良の怨霊に捕まって取り殺されてしまいました。あぁ、怖い、という話です。


この話は子ども心には、「恨みを持って死んでいった人が幽霊になって取り殺しに来る」というのが、一番怖い。しかもその取り殺し方が残虐だからなお怖い


幽霊は浮遊霊だから人についてどこにでも現れる。だからいつ出会って取り殺されるかわからない。

幽霊は怖い、と、激しく信じさせる話でありました。


大人になって考えてみると、要は自分の欲望のままに行動すると、それで傷つく人が出て、その恨みは大変恐ろしいから、欲望のままに行動したりするのはやめな、と読めるのですが、子供にはひたすら怖い話でした。


だって、夜はとにかく真っ暗で、車なんても走ってないから暗くて静か。不気味というのを地で行ってるような寒村です。


たまに、聞こえるのは犬が吠える声くらいの田舎町の夜はひたすら闇に覆われて、その闇の中からなんだか理由のわからない「怖い」存在がやってきても全然違和感がありません。


そうなんです。「怖い存在」は既に闇の中に潜んでいて、なんかのきっかけがあると向こうからこちらに向かってやってくるわけです。

それが怖い。

頼んでないのに、向こうから「怖い存在」が私をめがけてやって来るというのが怖い。


考えてみたら、昭和20年代の終わりから30年代の始め頃は、その闇のなかにお化けだの妖怪だの幽霊がたくさん潜んでいたわけです。


今は世界が明るすぎて、妖怪やお化けは居場所を失い、潜んでいることすらできなくなった。

恐ろしい怨霊でさえも、ストーカーとしてしか行動できなくなった感があります。


辛い思いをした人が幽霊になって恨みつらみを訴えようとすると、相手にあなたの行為は「ハラスメントだから訴えます」とか言われ、弁護士を雇う金も無い幽霊は泣き寝入りするしかなくなったのが現代。


幽霊だってやってられません。


社会的に力のあるやつ、強欲なやつの人権だけ過剰に守られて、力がない人は幽霊になる権利さえ奪われてしまったのが現代社会だと思えば、そっちの方がずっと怖いんだよなと気づく蒸し暑い月曜日の朝でした。






一番下は月曜日の夕焼けです。少し怖いくらいの夕焼けでした。