初めて、吉幾三さんの「俺ら東京さ行ぐだ」を聞いたのはもう20年以上前になります。

たまたま吉幾三さんのCDを買ったらおまけみたいな感じでついて来たのですが、それまで吉幾三さんは「酒よ」「雪国」とかのしみじみした歌を歌う人だと思っていたので、この曲を聞いた時には正直ぶっ飛びました。


東北弁丸出しで、しかも「電話もねえガスもねえ、車もそれほど走ってねぇ」とか「全く若者ァ俺一人、婆さんと爺さんと数珠を握って空拝む」とかの歌詞で、おそらく彼の故郷である青森を歌っているから、大感動大爆笑でした。


だって、私が子供の頃の福島県浜通りだってほぼ同じ状況だったわけです。

電話なんてありませんでした。町に電話があったのは新しもの好きの叔父の家と郵便局くらいで、その手回し式の電話は交換手のなかちゃんによって、僅かなところに繋がれていました。

我が家に初めて電話が来たのは私が中学生くらいの時で「農業用集団電話(農集)」と呼ばれる、一本の回線を5、6軒の家で共有するため、人んちの電話の会話が聞こうと思えば聞けちゃうものでした。

ガスもありませんでしたから、台所も風呂もみんな薪でした。小学生の私は風呂炊き当番でした。

車もありませんでした。未舗装の6号線を走るのはバスガールを乗せた一日数本の常磐バスばかり。たまに自衛隊のジープがホコリを巻き上げ走り抜けて行きました。


さすがに、老人が「数珠を握って空拝む」のは見たことはありませんが、駐在さんは自転車に乗って町のなかをウロウロ巡回してました。もちろん、その腰には米軍払下げのでっかいコルト(S&Wが多かったという説あり)がぶら下がっていたので、今の親しみやすいお巡りさんよりはかなり怖かったです。「おい、こら」の時代でしたからね。


さて、この歌の歌詞をしみじみ読んでみると、「俺ら東京さ行ぐだ」という台詞は出てきていないことに、実は最近気づきました。


「東京さ行ぐだ」の代わりに「東京へ出るだ」が何度も繰り返されています。


福島県浜通りの方言だと「東京さ行ぐだ」はそのまま通じます。

私も小2の時に、父親に連れられ、平からの「準急ひたち」でかなりの時間をかけて世田谷の親戚のうちに泊まりに行きましたが、それがまさに「東京さ行ぐ」状況でした。

〜へ、の代わりに〜さ、と「さ」を使うのが福島弁です。


似たような使い方に山形とか秋田でのこんな使い方があります。

「どさ?」「ゆさ。」


「どごさいぐだ?」「共同浴場に風呂入りさいぐだ。」


という意味です。「どさいぐだい?」「どごさいぐだい?」だと少し気を遣う関係になります。


話を戻します。


「東京さ行ぐだ」の代わりに「東京へ出るだ」になっているのをみてしばらく考えて、どこが違うんだろと思ったら、「東京さ行ぐ」のはなんか用事とかがあってちょっと(ちょっと感覚ではいけないですが)行ってくっから、つまり2日くらいいたらすぐ帰ってくっから、くらいの意味なのですが、「東京へ出るだ」となると、故郷の田舎を捨てて新たなる天地をもとめて大都会東京に出立する、という極めて未来志向性が強い意味になるのだと理解しました。


その強い未来志向性(わたしはやがて、本物のわたしになる!)はしかし、「東京で馬車引く」「銀座に山買う」「東京で牛飼う」という極めて田舎臭い発想で薄められてしまっていますが、とはいえこの歌には、「なんにもない田舎を捨てて東京で一旗揚げる」という、当時の若者の気持ちが歌いこまれてるのではないかな〜と思ってしまうわけです。


この歌がリリースされたのが1984年11月だといいますから、  60年代あたりの集団就職世代が大人になってから出た曲です。

彼らがそろそろ団地生活から、郊外の一軒家生活を目指して馬車馬のように働いている年代になった頃に出た曲で、そんな昔のホントに何もなかった田舎での子供時代を体験して都会に出た中年のおじさんたちにぴったりマッチしたのではないですかね?


もしこの曲の題名がそのまま「俺ら東京へ出るだ」だったら、真面目な歌になってしまい、引っ込みがつかなくなってしまったかもしれません。


二三日で帰ってくるような「俺ら東京さ行ぐだ」くらいな題名で、失敗しても帰れます、ちょっこらやってみます、くらいの軽さを秘めていたから受け入れられたのではないですかね?  


いずれにせよ、昭和20〜30年代の戦中戦後の貧しい東北地方の生活を体験してるからこそ、この歌の面白さが分かるのだろうと思います。


吉幾三さんの歌には、雪とか酒とか父とか母とか、東北で育った人にダイレクトに通じるものがいっぱい含まれています。

その歌を聞いているとつい涙ぐんでしまいますが、それを吹き飛ばす勢いがあるのがこの「俺ら東京さ行ぐだ」ですよね。