なんだか花曇りみたいな木曜日の朝です。

朝からモーニングショーを見ているのですが、なんだか名古屋でのバレンタインチョコの売れ方はものすごいものがありますね。


なんでも有名パティシエの人がチョコに名前を入れたり、一緒に写真に収まってくれたりして、そのパティシエ推し女子がたくさんの高価なチョコを買ってるようですが、これはチョコを買うというよりは昔のAKBの握手会でCD売る作戦と被りますね。

付加価値のついたチョコに群がる景気の良い女子たちの話だと見てました。


同じ番組で、岸田首相が韓国で行われる首脳会談に出るついでに、大谷選手の出る野球の試合を見るかもとか言ってました。


その話を聞いて、岸田さんという人は自分がどういう行動を取れば一般国民からどう評価されるかということはほぼ問題にしない人なのだろうなと思いました。


この人の判断力に疑問を持ったのは、ご長男を政策秘書にした時でした。

普通は見習いから始めるところを、なんだかいきなり政策秘書にしたことには「自分が総理になったからには世襲の基礎を作ろう」という魂胆が見え見えで、そんな素人にも分かるような「自分が一番」路線をためらいもなくやることにあっけに取られました。

次は、その長男が官邸で親戚などを招いて「ひな壇写真」とかを撮っていたことにしばらくなんも言わないでいたことでした。

息子がゲーム感覚で総理の椅子に座ってみたりしたがる気持ちは分からないわけではありませんが、「公を私物化」してるように見えたその行為を咎めない総理には、この人はどんな教育を受けて来たのだろうと呆れました。身内庇い第1号です。


あとはなんだっけな。

官房副長官をしていた人の奥さんが、その元のダンナの不審死に関わっているのでは?と指摘されても、しばらく知らんぷりを決め込んでいたことですかね。

やがて更迭しましたが、また復帰させてますよね。

身内庇い第2号です。


他にもいろいろありますが、最近では裏金問題に対する対処です。

国会でのこの人の答弁を聞いていると、自分が総理でいられる可能性を左右する力のありそうな人に関してはなにも調べないし、明らかにするように要求すらしないでいます。

それをみていると、この人は自分が一番可愛くて、ニ番目は身内がかわいい人なのね、と素人にも分かります。


つまり、彼の判断基準は「自分の地位保全に直接利害関係のある人たちに悪く思われないよう」に振る舞うことに置かれており、「直接に彼に影響を与える力がない」一般国民は基準の圏外にあると言うことができると思います。


この視点で見てみれば、彼の吐く言葉の一つ一つが空虚さと無意味さに満ちているように聞こえるのは、彼の言葉は彼の周りの政治家たちにだけ通用する特殊な言語であるからだと分かります。

ふつうに使われている言語(日本語)とはかけ離れているから、違和感に満ちているのではないですかね?

例えば今朝の朝日新聞一面に載っている首相の言葉です。


「全体としてどれだけ説明責任を果たしたかは大変重要なポイントになる。説明責任のありようも踏まえて、政治責任について対応を考える。」


私的に翻訳すると、

政倫審への出席を拒んだ議員を処分するか否かの問いに対し、

「その議員が出席することも含めて、どれだけ説明責任を果たしたかは大変重要なポイントになる。その議員の果たした、ないしは果たさなかった説明責任のありよう・度合いも踏まえて、その議員の政治責任をどこまで問うか、私は対応を考える」。


翻訳が正しいかどうかは知りませんが、この人の話には主語がないことに気づきます。普通、ある人の行動なりを問題視するなら当事者の存在を際立たせなければなりません。問題視している方の主体も明らかにしなければなりません。

しかしこの新聞記事には、双方の主語が欠落していて、そもそもの対立構造が分かりにくくなっています。

つまり、岸田さんは主語を明確にしないことで、①対立関係があるかどうかがそもそも不分明である、②非難されるべき人がいるのかどうかも不分明である、③非難する主体がいるかどうかすら不分明である、というわけのわからない、いわば煙に巻くような発言を繰り返しているわけで、このあたりが一般国民にはやる気もなんにも伝わってこない、そもそもやる気があるようには見えないことの原因になってるような気がします。


そういう意味では、岸田さんに代表される自民党には「互いに名指し合う」ような関係性は成立していないとすら言えてしまうのかもしれません。いわば仲間内の関係しかないわけです。国民は蚊帳の外なわけです。


あげくのはてに、今度は韓国大統領との会談に行く先の韓国で開幕される大谷選手が出るかもしれないMLB開幕戦を観覧するかも、とか言われています。

そんなに簡単にチケット取れるのかしらと思いますが、総理だから忖度で取れるんでしょうね。

とはいえ、「取れるからじゃあ見るか」となるのは安易すぎませんかね?


もし、自民党内で誰も見るのやめたら、とか言う人がいないから「見るか」となるなら、観戦ツアーの50万も出せないような暮らしが当たり前の「一部の富裕層以外の一般国民」がかなり腹を立てることを想像できてないからだといえそうです。

逆に、会場で「50万も出してわざわざMLBの大谷選手を見に韓国に来た上級国民たち」と意気投合して、「年齢にはそぐわないようなハグ」とかしてるのがテレビに映ったら、この人なんも分かっていないのねと国民は白けるでしょうね。


そんなわけで、「国民」は権力者たちから「無視しても良い存在」と認識されてそうなことが見えてきたような気がします。

彼らは昔、土居健郎先生が指摘された「甘えの構造」の悪い部分を今でも引きずっており、仲間内でやりたい放題をするのに夢中のように見えます。


しかもそれを誰もなんともしようとしないのが、ある意味すごいです。

国力が低下するのも宜なるかなですね。




夕暮れの風景は美しいのですが、国家の夕暮れは惨めです。