月曜日の昨日の朝は3日ぶりにジムに行く朝なのでなかなか気が重いのです。

土日は行けない週日会員だと2日間のお休みは身体も気持ちもダラケてしまうからです。


そんなわけでなんか元気の出るものはないかなと考えていたら、昔の教え子さんから「時代遅れのロックンロール」はなかなか良いよ、というラインが来ていたのを思い出しました。

YouTubeで探してみたら、あらあら、桑田、世良、野口、charに混じって佐野元春くんもいるではありませんか。


おやおや、みんな老けたけど元気だね〜と懐かしく聞きました。


ついでに昔良く聞いていた佐野元春くんを探して何年かぶりに、somedayやガラスのジェネレーション、アンジェリーナ、約束の橋とかを聞いてみました、

これらは30代の頃、勤め先に行く車の中でカセットテープを回して聞いていた歌です。

たしかに元気が出る歌でした。


おかげで、なんだかジムに行く気にもなりちゃんとノルマもこなせました。


ところで、今の時代、ロックンロールって受け入れられるのかしら?と帰ってきてから考えてました。


人によってロックンロールの意味は違うような気もするので一概には言えないとは思いますが、少なくとも佐野元春的な視点からは「今夜も愛を探して」さまよえるだけのエネルギーを秘めてないとロックンロールにはならないのかな、と思います。

更に言えば、その「愛」は単に「受け容れられたい」という単純なものではなく、「あなたに出会うことによって、私が私になれるあなた」を求めるエネルギーなんだろうな、とも思うのです。

つまり「わたし」が「わたし」になりきれていない空虚感を持つ若者が、いつの間にかそれを埋めてくれている「あなた」に出会い、そこで自我と自己が一致することでエネルギー満タンになった「わたし」はそこから更に前進できるというわけです。


80年代、90年代にはこんなふうに「あなた」を求めるエネルギーがたくさんあったような気がします。

簡単に言えば、世界には個々人の望みを叶えてくれる社会や制度やモノや人がおり(いると信じることができ)、だからこそみんな明日への希望を持って生きていたような気がします。

だからその気持ちを後押しするようなロックンロールは支持されたんでしょうね。


今の時代、「今夜も愛を探して」とかで思い浮かぶのは「東横キッズ」とかくらいで、居場所がないからとりあえず今夜の居場所をください的な様相を示す思春期くらいしか思い当たりません。

とはいえ、たぶん、そこで探されている「愛」と、80、90年代に「朝が来るまで」探されていた「愛」や「君」とは違うと思うんですよね。


そこで思いついたのは、今回の長野での事件の犯人のことです。

彼は「自分が孤独なことをバカにされている」と考え、たまたま自分のことを噂していると着想した二人の女性を刺し殺し、しかも駆けつけた二人の警察官をも散弾銃で撃ち殺してしまった。


要は自分を受け容れてくれない近隣社会に対する復讐を遂げたかったのでしょうが、そこにはあの秋葉原無差別殺人事件の犯人と同じ「受け容れてほしい」気持ちが叶えられなかったから復讐する、という理屈があります。


これは子供のダダと同じで、40になる男がしてはならないことだし、散弾銃をぶっ放すことも車で群衆に突っ込んだあとダガーナイフを振り回すのもロックとは無関係な暴力でしかない。 


ロックンロールが時代遅れになったのが現代だとしたら、現代は「めぐり逢いたいあなた」がいない、あるいは見つけ難い時代だということになりませんかね?

「理想像」が機能しえない時代が現代。


社会の枠組みがまだ残っていた時代なら、反体制でもなんでも「理想像」にはなりえて、そこに近づこうとするエネルギーもまた備給された。

社会の枠組みがバラバラになり、個々人の占める位置が大きくなると逆に少なくとも共有される理想形はなくなり、小さなグループ内での理想像の維持がせいぜいになり、そのグループにも入れない若者はただ自分の不甲斐なさに向き合うしかなくなってしまった。

その不甲斐なさを虚偽的に打ち破る象徴に見えたのが散弾銃であり、ダガーナイフだったのではないかな、と思います。


ロックンロールが自分を支える道具や文化として機能しにくくなってしまった現在、若者は背中を押してくれるものなしに自己不全感に向かいあわざるを得なくなってしまった。

ハラスメントと言われるのを恐れて対人距離を取らざるを得ないで育った若者たちは「あなた」に出会う機会も減らしてるかもしれない。 

しかも、コロナ禍だったし。


「あなた」なしには成立しない「わたし」を抱えたまま生きていかざるを得ない若者にもう一度、ロックンロールが戻ってくるといいなーとか夢想してます。