昭和のプロ野球の裏話

<鈴木孝政>

 

覚えている事もあるし

面白い手グラサン

 

 もっとも、鈴木氏にとって忘れられないのは、開幕投手であることを報道陣に信用してもらえなかったことだ。「あの時は1週間前に言われた。開幕行くぞってね。俺、しゃべったんだよ、新聞記者とかマスコミの人に。それなのに小松(辰雄投手)とか郭(源治投手)しか、写真を撮ってないわけよ。『俺だぞ開幕』って言っても『いやいや、それはいいですから、名古屋に帰ってからの試合で頑張ってください』って」。  

 

何とも言えない状況だったが、途中からは逆に面白がったという。「開幕前日、広島で練習したけど、またカメラマンは小松とかを撮っているわけ。『俺だって』『俺を撮れ』って、ずっと言っていた。それで遊んでいた。ホント、誰ひとり、信用しない。教えていたのにね、本人が」。当時は予告先発ではない。開幕投手となれば、マスコミも神経をとがらせて取材していたが、まさか本人がしゃべるわけないと思われていたのだろう。結果的には巧みな先発隠しにもなった。

 

 

 

 抑え投手でありながら、規定投球回に達して、防御率タイトルを獲得。令和の現在なら、まずあり得ないことだろう。でも昭和はあり得た。抑え投手は1イニング限定どころか、3イニング、4イニング投げても不思議ではなかった。それどころか、鈴木氏の場合、この4年目もストッパーながら3試合に先発。9月14日の大洋戦(ナゴヤ球場)では9回1失点で完投勝利までマークした。  

 

イニング数も当たり前のように増えていき、規定投球回に到達した。鈴木氏の場合はその年だけではない。1975年から1977年まで3年連続でそれをクリアしたのだから恐れ入る。それだけでもすごいことだが、1976年は148回1/3を投げて、防御率1位になった。 

 

 しかしながら、2.98はセ・リーグで最も悪い数字での受賞で「抑えならもっと数字が良くなければいけなかったと思う」。一方、小林氏は先発ローテーション投手で、43試合に登板して18勝8敗2セーブ。防御率は鈴木氏に続く2位で2.99をマークし、優勝にも貢献していた。

 

 

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