禅では「無」という考え方がとても重要です。ふつう無というと、たとえば、ものが「有る」に対して「無い」というように、存在しないことを意味します。しかし、禅でいう無はそういうことではありません。

 無は心の在り様、状態をいう言葉です。人には固定概念があります。「~でなければならない」「~であるべきだ」という思い、心の作用がそれです。それは自分を縛るものでもあります。

 縛るものは、ほかにもあります。我欲、我執などがそれです。そうした自分を縛るものいっさいから解き放たれ、一点の曇りもない清浄無垢な心の状態をつかむこと。それが禅の無です。「無我」「無念」「無心」「無双」などさまざまないい方がありますが、すべて同じことをいったものです。

 心が縛られるというのは、そこで心が停滞してしまっているということです。いささか古い例で恐縮ですが、かつて「男子厨房に入らず」ということがいわれた時代があります。男子たるものキッチンに入るのはもってのほか、料理などというものは女子に任せておけばよい、ということです。

 そんな固定概念をもっていれば、心はそこから動きませんから、けっして料理に取り組むことはないでしょう。つまり、料理の楽しさを感じることも、自分の作った料理を振る舞う喜びとも無縁のままです。

 一方、その固定概念から離れたら、心は縛りから解放され、どこにでも動いていけます。すなわち、つくりたければ料理をつくるでしょうし、その楽しさやふるまう喜びとも出会えるわけです。

 このように、ひとつ縛りから離れただけでも、心は新たな楽しさや喜びを感じることができます。もし、すべての縛りから解放された無になることができれば、心は融通無碍そのものとなります。あるがままを、あるがままに受け容れ、しかも、どんなときも、どのような状況にあっても、充足していられるのです。

「萬法帰一」(ばんぽういちにきす)

 これは、この世のあらゆるもの、森羅万象は「一」に帰っていく、ということをいった禅語です。一とは根源的な心理です。人でいえば、先ほどお話しした一点の曇りもない清浄無垢な心がそれでしょう。

 人はその心理を携えて生まれてきます。生まれ落ちたばかりの赤ちゃんの心には我欲も、我執もありません。しかし、成長するにつれ、それらがまとわりついて、真理を覆ってしまうのです。心に曇りが生じる。

 損得を考えたり、美醜の判別をしたり、ものごとを善悪でとらえたりするのは、心に曇りがあるということ、真理が露わになていないということです。

 しかし、人は結局真理に帰っていきます。死を思ってみてください。死ぬときはなに一つもっていけません。心がまとっている損得、美醜、善悪といった分別(判断基準)はもちろん、富も、名誉も、地位も…何もかも手放してあちらの世界に行くのです。それは、清浄無垢な心、一に帰っていくということです。

 そのことに気づき、この世にあっても一に変えるための努力をし、精進を重ねるのが、無を求めていくということであり、禅そのものといっていいでしょう。弘法大師空海さんにこんな歌があります。「阿字の子が 阿字のふるさと 立ちてでて また立ち還る 阿字のふるさと」

 ここでいう“阿字のふるさと”が「一」であり、「心理」です。人生は一から始まり、一に帰る道程です。