柔軟心(にゅうなんしん)

 

 人はとかく自分の都合や立場で物事を考え判断してしまう。その場合いつも自分が中心となる。これが自我である。「柔軟心」は、この執着や偏見などで凝り固まった自我を捨てて、真に自由になった心のことを言う。道元禅師は、これを「身心脱落」といった。禅師の記した『宝慶記』に「仏々祖々、身心脱落を弁肯す。すなわち柔軟心なり」とある。何物にもとらわれぬ柔軟心を得るには、坐禅が一番である。これは捨てるという端的な行為なのだ。

 

 「ねばならない」という考えに取りつかれてはいませんか。「朝には20分のウォーキングをしなければならない」「朝食はこれを食べなければならない」「夜は12時前には眠らなくてはならない」。一日中、自分が決めた「ねばならないこと」に従って生きている。もちろん規則正しい生活をすることは大事ですし、自分を律することも必要なことです。しかし、あまりにも執着すると、それが却ってストレスを生むことにもなりかねません。もう少し、柔軟な心を持って生きることも大切なことです。

 

 ウォーキングにしても、体調が悪いのに無理をしてやる必要もないでしょう。いつもの朝食を頑なに守ろうとすれば、旅行に行っても落ち着きません。健康のためにいいと思って始めたことが、いつの間にか義務のようになってしまう。それは本末転倒です。

 「ねばならない」というものは、言い換えれば強烈な自我でもあります。この自我が自分の中だけでとどまっているうちはいいのですが、やがてそれは他人に向けても出てきます。

「朝のウォーキングは健康にいいから、あなたもやりなさい」という押しつけが生まれてくる。良かれと思って言っているのでしょうが、相手にとってみれば余計なお世話です。もっと心を柔軟に持つことです。いいとか悪いとかを決めつけないで、どちらも受け入れる心の『糊しろ』をつくっておくことです。