―既に耽著無し

 

偉い人の前で態度を変えていませんか

 

 立派な食材を調理するときには、腕も心もいっぱいに込めるが、粗末な食材となると、ついそれを怠ってしまう。道元禅師はそれが「執着である」として戒めます。

 考えてみると、私たちは人間関係で同じことをしがちです。

 得意先の大企業の人間には最高の礼をもって接するのに、相手が下請け業者になったら、手のひらを返したように横柄な態度をとる…ということがないでしょうか。

 それは人との付き合い方ではありません。相手の身分や地位という空疎なものとかかわりを持っているにすぎないのです。

 そんなものに引きずられて、自分の心や言葉遣いを変えたりするのは、修行に励んでいるもののおこないとは言えない、と禅師は教えています。

 私たちも人生という、長く続く修行の道を歩いているのです。そして、出会う人(ご縁をいただける人)がいてこそ、その修行を続けていくことができるのだと、胸に刻んでおきましょう。

 誰であっても大切な人として接する。それがシンプルで、一番いいのです。

 

 

―無功徳

 

勝算は「努力のおまけ」に過ぎない

 

 何か行動を起こすとき、「これをやったら、きっと自分は褒められるはずだ」と考えることはありませんか。でも、周囲からの評判を期待した時ほど、不思議と評価されない、努力が認められないこともあります。

 禅宗の開祖・達磨大師と梁の武帝とのあいだに、こんな逸話があります。

 武帝が大師にこう尋ねます。「私はこれまで寺を建て、写経をし、仏典を翻訳するなど、仏教興隆のために尽力してきた。さて、どんな功徳があるものか」。大師の答えはただ一言、「無功徳(功徳などない)」というものでした。

 どんなに努力しても、どれほど善行を積んでも、それが果報(結果)を期待したものであってはいけない。禅の行為は無心無作であってこそ本物だ、というのが達磨大師のいわんとしたところです。

 評価や結果は他人が決めることです。自分ができるのは、ただ一生懸命になることのみ。結果がついてきたらそれでいいし、ついてこなくてもいい。そんな気持ちでいたら、間違うことも、迷うこともありません。

 

 

―不安

 

「縛られた自分」を解放する方法

 

 現代は、不安が蔓延している時代だといってもいいでしょう。

 なかでも一番大きいのは”縛られた自分”を失うことの不安です。「○○会社の誰々」という肩書を持つ自分。みな会社や肩書に縛られていて、しかし存外、それが安心感にもつながっている。縛られなくなるのが不安なんですね。

 禅の祖である達磨大師と二祖・慧可とのあいだに、こんな逸話があります。

 慧可が「不安でたまらない、不安をとり除いてほしい」と大師に訴える。すると大師は、「ならば、その不安にさせている心をここにもっておいで」という。

 慧可は、不安にさせている心が何なのかを探しますが、見つかりません。そのことを告げると、大師はこういいます。「もう、安心しているではないか」

 不安をつくり出しているのは、他ならぬ自分の心だったのです。不安そのものがあるわけではない。だったら、心持ちしだいで不安を追い出すこともできる。

 肩書に固執して得られる安心感は、本物の安心感ではありません。ならば、それを失うことで生まれる不安もまた、私たちの心が生み出している“偽物”なのです。