”荒れる八幡”だからこそ今!官営八幡製鉄所があった北九州だからこそ! | 齋藤シーサイドレディースクリニックの40代でもあきらめない妊活ブログ

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私もちょいちょい

ブログやユーチューブをみている

神道家の羽賀ヒカルさん

 

今こそ八幡が大事ということをおっしゃられてますが

同感です

 

だから私も今八幡押しで

色々やってます

9月は本当に忙しく八幡めぐりに般若寺さんでの特別なお祭りも

やる予定です

八幡神は軍神として律令国家の西方の境界を守り、放生と云う仏教的手段によって。殺生によって引き起こされる病から国を護った。その意味で、八幡は日本初の鎮護国家の神であった

なのに・・なんだか八幡様が元気がないのは

廃仏毀釈で仏と神が離されたでしではと思い

八幡大菩薩様復活のために

色々動いているところです

 

そしてもうひとつの試みとして。・・

実は八幡様には鉄の神という御神徳もあるのですが

 

北九州を工業地帯として牽引してきた

1901年に創業した

官営八幡製鉄所・・・

 

八幡製鉄所は実は八幡の神の力をかりるために

そこに建てられた!!!?というお話をします

 

現在北九州には八幡東区と西区があります。

八幡のあゆみという北九州のホームページに

「八幡」の由来

 明治22年(1889年)4月に市町村制が施行され、尾倉(おぐら)村・大蔵(おおくら)村・枝光(えだみつ)村が合併して、八幡(やはた)村が誕生しました。「やはた」と名付けられた由来は、この三つの村とも産土神様(うぶすなかみさま)八幡神社を祭っていたので、新村の名を「八幡」にしたといわれています。

「村」から「町」へ

 明治33年(1900年)、八幡村は八幡町となり、翌明治34年(1901年)、官営八幡製鉄所の創業とともに全国から人が流れ込むようになり、めざましい発展を遂げました。

上矢印

旧八幡村に製鉄所ができることになったのは・・・実は私のふるさとの行橋市出身の

 

末松謙澄 - Wikipedia 末松謙澄さんが大きくかかわっているのです。・・と私は確信してます

最初の官営製鉄所は釜石につくられたのですが・・・

 

製鉄所建設の歴史的背景

伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した1885年(明治18年)頃の鋼材の民間需要は少なく、

我国の銑鉄の需要の60%はイギリス銑やインド銑に依存しており、鋼材に至っては民間需要の
全量を欧米から輸入していた。

しかし、鉄鋼の国内の需給率の向上は重工業の発展や軍機製造面必要不可欠であり、
一貫製鉄所建設が求められるようになった。

一方で、既に清国漢陽製鉄所が、自国の鉄鉱石を使い、ベルギー人の指導の基で稼働を始め、
日本へ軌条の売込及び九州の石炭の買い付けに訪れた。

これが、日本の製鉄所建設に拍車がかかり、1891年(明治24年)に製鉄所建設構想が始まった。

 

なぜ釜石製鉄所では駄目だったのか

1880年(明治13年)に操業を開始した官営釜石製鉄所は、イギリス式高炉2基を始め、

全ての設備をイギリスから輸入、外国人技師の指導の基で建設された。

高炉で銑鉄をつくり、バトル炉(反射炉)で錬鉄を製造して、錬鉄圧延製品をつくる

製鉄所だった。
錬鉄は鋼に比べて、強度が低く、品質の均質性にも欠き、生産効率も低かった。

いわば、時代遅れのプロセスの設備をイギリスが持ち込んだともいえる。

そこで、高強度、高品質の製品づくりが求められ、鋼を大量生産できる、製鋼設備を備えた
新しい一貫製鉄所の建設が必要であった。

 

1880年には官営釜石製鉄所が操業を開始するが、造船用の鉄(鋼)が製造できる
製鉄所ではなかった。
そのため、造船用の鋼材は全て外国からの輸入に頼らなければならなかった。

1896年に日清戦争で勝利したものの、その後の富国強兵のためには、独自の鉄(鋼)づくりが
必要で、新たな製鉄所建設が急務となった。

上矢印上矢印

そうなんです。。。急務な事業を伊藤博文はやらなかればならなかったのですが

ここで絶対的に活躍したのが末松謙澄なんです

 

末松謙澄(1855-1920) 1 伊藤博文の「四天王の最古 参にして娘婿である) は、法律家というよりは、文筆家 としての傑出した才能によって世 に出た人である。

伊藤博文の娘婿で参謀なんです。地元行橋に近い九州に製鉄所をつくろうと

動いたと思います。。。急務な事業を伊藤博文はやらなかればならなかったのですが

ここで絶対的に活躍したのが末松謙澄だったはずです・・・伊藤博文の参謀なんですから

 

表向きの八幡製鉄所の決定は以下のようになってます

製鉄所建設地の検討 
 
 1)17の地域が候補地

1896年に政府によって17の地域が候補地として選ばれた。その中の3地域が北九州。

青森 釜石 塩釜 千葉 品川 鶴見 静岡 和歌山 梅田 尾道

呉 大竹 大牟田 長崎 大里(門司) ⑯板櫃(小倉) 八幡(八幡)

各候補地とも郷土に近代的な製鉄所をと意気込み誘致活動を展開し、

お互いに一歩もゆずらなかった。


 2)現地調査の実施

大島道太郎が候補地決定の責任者となり、調査団を率いて候補地を調査した。

その立地の条件は、①広大な建設用地が安価で得られる ②海上・陸上の交通の便がよい

② 原料と燃料が得やすいことが考慮された。

調査の結果、4ヶ所に絞られる。

(広島県)②大里(門司)③板櫃(小倉)④八幡(八幡)

 

     
        呉         板櫃 & 大里       八幡

 

原料と燃料入手の点で呉は落ちて、北九州の三村が残る。

 
 3)大里が第一候補

その中で、大島は、石炭に入手には洞海湾(八幡)だが、若松港の水深が浅く到底大型船を
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。

大里は、筑豊炭田を背後に持ち、アシが生い茂る湿地帯が多い土地、海陸の交通条件に優れ、
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。

更に、江戸時代に村の一角から鉄鉱石と銅鉱石が採掘されていたことも影響している。


 4)八幡の立地に向けての取組

これに対して、若松築港会社会長の安川敬一郎は、水深を深くすれば大里に勝ると確信し、
起死回生の政治工作を行う。

旧黒田藩主・金子堅太郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一の同意を得、渋沢栄一と後の長官和田維四郎
を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。

こうした安川敬一郎の運動が紅を奏し、用地買収担当の製鉄所事務次官に八幡出張の
辞令が出された。

 

  
  安川敬一郎      芳賀種義

 

当時の八幡村は、人口2,000人足らずの農業と漁業を営む寒村であった。

製鉄所建設用地確保のため、八幡村の芳賀種義村長「八幡村に製鉄所を、日本の
鉄づくりは八幡から」
と熱心に村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の
半値で売り払うことに協力してもらった。

 

官営製鐵所が八幡に決定

こうした後、1897年2月6日「官営製鉄所は福岡県 下筑前国遠賀郡 八幡村に置く」

と公布された。

             製鉄所建設前の八幡村

 

そして、1901年の創業に向けての建設工事が開始される。

 

実は私が思うには・・末松謙澄は行橋出身だったので

つながりからみても・・・

門司の大里をおしていたと思うのです

が・・・最後にこの八幡作戦に賛同した最後の最後のところは

 

釜石が失敗して

もう後がない事業で・・・国の繁栄を願ったとき

この鎮護国家の神から名前をいただいた・・この八幡

鉄の神である八幡の名前にかけたんだと思います。この人が納得しないと

事業は動かないほどの力をもってたはずですから

末松謙澄さんなら・・利権よりも八幡の力を信じたはずです!

行橋の人からは反発もうけたと・・・・思いますが・・・笑い泣き笑い泣き

 

 

昔の人はちゃんと神様のことも理解していたので

そりゃ・・八幡様のご加護でこの事業を成功にといわれれば

心も動きます

 

八幡村というこの名前の威力がどれほどだったか

八幡村でなければ

門司できまりだったと思います。

名前もその時に九州にできたんだから 九州製鉄所とか北九州製鉄所とかに

してもよかったのではと思います。

だって無名の村の名前ですから・・・

でも官営なのに八幡製鉄所としたのは

あえて!!!!だったのです!!炎と確信してます。

 

みごと・・・たった数年で1901に官営八幡製鉄所はスタートし

あの日露戦争の勝利にむすびつくわけですが;・・

 

八幡さまの力でこの国は守られ

工業の発展にもつながったと言ってもよい話なのに!!!!

 

ついに・・・八幡という文字が

製鉄所からきえて九州製鉄所 八幡地区という名前にかわりました笑い泣き笑い泣き笑い泣き

 

「八幡製鉄所」の名前消え… 住民、OB惜しむ声 地域の活気減退心配も|【西日本新聞me】 (nishinippon.co.jp)

これでは・・・北九州の未来も日本の未来も…心配なので

 

私は先日市会議員さんのところにいって

1901の高炉に!せめて看板で

キラキラ官営八幡製鉄所キラキラといれてほしい

これも八幡様の力になると信じて

陳情しました・・・

 

とにかく‥今八幡様の力大事と

そして八幡大菩薩様復活を願ってやみません。

 

さいとうせいは