人でなし | しちにんブログのブログ

人でなし

父親が、某施設に入所となりました。

その準備に追われ、いろいろと出来なかったこと。
悔やまれますが、そういう星回りにしてしまった自分に、全ての非があると
肝に銘じ、残りの下らない生を全うする所存ではあります。

さて。

二郎、富士丸熱も、通販という武器を繰り出す様になってからは、どうにか
暴発も抑えられている昨今。
ラーメン、という食べ物の指向、嗜好について、なぜか気持ちが揺らいできた。

実に、勝手な話ながら……。

この、三年というもの。僕にとって二郎、富士丸ラーメンは、
「東京まで足を運ばなければ口に出来ない」
ものであったのだ。

広島や岡山、兵庫、大阪にある、いわゆる「インスパイア」と呼ばれる代物。
これらはやはり、「偽二郎」に過ぎず、僕の空腹を、精神レベルで満たしては
くれなかった。

が。

東京の本店とほぼ同じ味が、ご家庭で気軽に食べられる、としたら。

「食えない」という飢餓感は喪失し、僕は交通費を払ってまで、「二郎」を探さねば
ならぬのだという必然性、それ自体を感じなくなり。
冒険を、止めてしまったのだ。

ラクをする精神。
代替で満足する精神。

とても、褒められたものではない。
が。

「二郎」という盲を、宅配麺が開いてくれた、とすれば。
これはむしろ、「前進」なのではないか?

……好意的に、解釈することにした。

さぁ。そうしたところで。
今、自分の目の前には、圧倒的に拡がる「ラーメン」の荒野がある。
どのラーメンも、個性を突出させる形で進化し、万人受けをする「標準」から、
いかに逸脱するか、マニア性をくすぐってガイキチを獲得するか、で、
しのぎを削っている。

不健康な僕は、ラーメンに一体、何を求めていたのか……――そう。

「濃さ」――濃さ、だ。

濃厚さをこそ、求めていたのだ、と、改めて気づく。

ちなみに。

「薄さ」――余分な雑味を「そぎ落とした」、洗練の方向にラーメンが向かう、とすれば。
その味は、

醤油→→→塩、となり。

塩+ダシ味。何のダシによって、麺を喰わせるか、という発展の方向に向かう。

が。この方向には、今のところ、ではあるが、僕は異を唱えたい。

そもそも。
中華麺の最大の雑味、「カンスイ臭」を放置したまま、スープの洗練をしたところで、
カンスイ臭にスープが負ける未来しか見えない。

じゃぁカンスイ臭をなくせばよいか……というと。
それはただのうどんとなり、スパゲティとなり、素麺となる。
中華麺の個性とは、まんま、カンスイの臭いであり、カンスイ臭こそ、中華の
アイデンティティであるからだ。

つまり。

ラーメンとは、洗練させる食べ物ではない、ということである。

これは、断言しておく。

洗練させたいなら、うどんやそばを打つべきであり、その方向の洗練は、すでに
「ざるそば」「かけうどん」という形で、明確な着地点が見えてしまっているのである。

中華麺が発展する方向性はだから、「濃さ」「混沌さ」に向かう未来しか、ない。

では。
その「濃さ」への変遷は、どのようなものであったのだろうか?



ラーメンの、スープの根幹。基本。
それは、醤油、であった。
醤油ラーメンこそが、ラーメンの大元である。

ここから、日本人が「味噌ラーメン」を思いつくのは、そう遠い話ではない。
醤油よりややコク味のある、味噌。
これは、「濃さ」の正当進化といえる。

その先。今度は、調味料そのものから、「ダシ」の素。スープベースに
何を使うか、が着眼された。

そう。「鶏ガラ」から、「豚骨」へのイノベーションである。

元は九州の一地域にてひっそりと嗜まれていた豚骨スープが、都心に輸入され、
全国に一度散らばり、時を経て、和歌山の醤油豚骨や、喜多方の豚骨鶏ガラ魚介だし醤油、
二郎のブタ肉豚骨醤油等の「ご当地ラーメン」「ハイブリッドラーメン」を生んだ。
あるいは「天下一品」も、鶏ガラ+野菜の「ハイブリッド」と言えるか(ちと、苦しい)

「豚骨」は、ラーメンに「獣臭」という、「濃さ」の新しい源泉を見いだしたことで
評価出来る。
獣臭がスープに入ることで、カンスイ臭を打ち消し、より暴力的な味を追求する
下地が出来た、と言えるからだ。

あと、忘れてはならないのが、「具」の追加である。
一時期「背脂チャッチャ系ラーメン」なるものが流行したことがある。
東京は環七沿いに、ラーメン屋が次々におっ立ち、客を奪い合ったころの流行である。
この「背脂」は、ラーメンに純粋な「重量感」をもたらした。
脂肪分。ヘット方面への「濃さ」の探求である。

そして、にんにく。
この過激な香りの食べ物は、すりおろす、またはみじんに刻むことで、その過激な香りを
少量で丼内に爆発四散させ、いかんなくその暴力性を発揮するに至った、恐るべき
「核弾頭」である。


さぁ。
ここに、濃さを求めるための五段活用系、その四段までが、出そろった。

・調味料
・ダシ具材
・背脂
・にんにく

これで、頭打ちか……と、思いきや。
最後の「五段目」があったのである。(まぁ、五段活用て言ってるしね)

その五段目――を語る、前に。

上記四段の増減にて、どのようにラーメンが「濃さ」を追求、上昇
させてきたか、そのランキングを見てみよう。

●調味料

・醤油の増量: 醤油ラーメン→竹岡式ラーメン→富山ブラック
・味噌の増量: 味噌ラーメン→新潟西蒲区ラーメン

●ダシ

・鶏ガラの増量: 塩ラーメン→天下一品
・豚骨の増量: 塩ラーメン→豚骨ラーメン→無鉄砲、大岩亭等。
・魚介ダシの増量: 醤油ラーメン→喜多方ラーメン、他→荻窪系→麺屋武蔵

●背脂

・背脂の増量: 豚骨(醤油)ラーメン→背脂チャッチャ→家系、二郎系等→平大周→下頭橋ラーメン

●にんにく

・にんにくの増量: 豚骨(醤油)ラーメン→家系、二郎系、ほか多数

大まかに、右に行くほどそれぞれの量が多く、すなわち「濃い」ラーメンとなる。
そして、当たり前のことだが、どの要素も、無限に多く入れられるわけではなく、
自ずとその「限界」がある。

醤油、塩、味噌などの調味料は、入れれば入れる程、「塩味」が立ち、
入れすぎると、その塩味が舌を「刺して」くる。
強すぎる塩気はいがらっぽさを増し、ある地点を境として、「食えない」程の
拒否感を湧き上がらせる。

鶏ガラ、豚骨等の「ダシ材」は、多く入れれば入れる程今度は「雑味」も増す。
それは「クセ」となり、ある程度までは許容出来る(むしろ、味のアクセント
にすらなりえる)が、これもあるポイントを超えると、吐き気しか伴わない
くっさい代物となる。

背脂は、この間東京の下頭橋ラーメンが、背脂100%なるラーメンを出して話題と
なったが、100%より上はない。それに、そもそも「油そば」なる変種があり、
こっちの方が現実的、かつ、うまいであろうことを思えば、これもやり過ぎと
言うべきであろう。

にんにくは、劇薬である。取り過ぎれば腹痛、吐き気を伴い、体内の善玉菌をも
殺し尽くす。ゆえに、取り過ぎは禁物。あほでも分かる話である。二郎で、
「にんにくマシマシ」をするたび、お前の善玉菌は死んでいくのである。この大量殺戮者が。

――と。
このように、ラーメンの「濃さ」は、追求し続ければいつかはその「限界」が訪れる。
いとも、簡単に。

ラーメンの濃さ探求はだから、どこかで成長線の「終わり」を覚悟しなければならない。
そんな、当たり前の結論を。
求めてもいなかった、そんな現実を。

突きつけられた、我々に。

そう。
「第五」の選択が突如、わき起こり。
そのブームを、確かなものとしたのだった……。

あ、この先は、次でやります。
(あてになるのか? その宣言……)