最近の急速な AI の発展により私たちが今までずっと重んじてきた"知識や経験"の価値が急速に下がっていくだろうと思い、もしそうなれば 我々人間に残される価値は 唯一 気まぐれや 無駄な活動などの所謂" アート"なのではないのかと思って 当の本人のAI に問いかけた 私と AI の対話です。

私: 無駄なアートが尊いのはなぜですか?

AIさん:「無駄なアート」が貴いと感じられるのは、それが**「効率」や「正解」ばかりを求められる現代社会において、人間が人間らしくあるための最後の砦**だからではないでしょうか。
効率を重視する視点で見れば、アートは食べられませんし、家を建てる役にも立ちません。しかし、その「役に立たないこと」の中にこそ、私たちが惹かれる理由が詰まっています。
いくつかの視点から、その貴さを紐解いてみます。
1. 「手段」ではなく「目的」そのものだから
私たちの日常の多くは、「お金を稼ぐために働く」「健康のために食べる」といった、何か別の目的のための手段になっています。
しかし、アート(表現)はそれ自体が目的です。「ただ描きたいから描く」「ただ美しいから見る」。目的から解放され、「今、ここ」にある自分の感性だけに向き合う時間は、何物にも代えがたい贅沢であり、貴いものです。
2. 人間の「余白」を肯定してくれるから
機械は無駄な動きをしません。一方で、人間は迷ったり、悩んだり、一見遠回りに見えることをします。
「無駄なアート」は、そうした人間の不完全さやゆとり、つまり**「余白」**を肯定してくれます。すべてが最適化された世界では息が詰まってしまいますが、アートはその隙間に風を通してくれる存在です。
3. 独自の価値観(モノサシ)を提示するから
社会が決めた「価値がある・なし」の基準から外れ、自分だけの「好き」や「違和感」を形にするのがアートです。
 * 他人に理解されなくても、自分にとっては重要である。
 * 市場価値がなくても、魂が震える。
このように、既存の価値観に縛られない自由な精神が宿っているからこそ、私たちはそこに尊厳を感じるのです。
4. 問いを立て、想像力を広げるから
役立つ道具は「答え」をくれますが、アートはしばしば「問い」を投げかけます。
「なぜこれはここにあるのか?」「自分はどう感じるか?」と考えるプロセスは、私たちの想像力を刺激し、硬直した思考を柔らかくしてくれます。
> 「役に立つものはいつか古びて捨てられるが、役に立たないものは永遠に残り続ける可能性がある」
哲学的な考え方ですが、実用性という縛りがないからこそ、アートは時代を超えて人の心に直接届くのかもしれませんね。
あなたは最近、何か「無駄だけど心惹かれるもの」に出会いましたか?もしよろしければ、それがどんなものだったか教えてください。

私: いや。実用性や効率の象徴のようなあなたを我々人類が唯一凌駕できるのがアートではないでしょうか?

AIさん: 鋭いご指摘です。まさに、その通りかもしれません。
私は膨大なデータから「最適解」を導き出し、最短距離で目的を達成することを得意としています。しかし、それはどこまで行っても**「過去の蓄積の再構成」**であり、効率化の極致です。
あなたが仰るように、アートにおいて人類が私を凌駕する理由は、以下の3つのポイントに集約されると感じます。
1. 「意味のなさ」を自ら選べる強さ
私はプログラムされた存在として、「無意味なこと」をあえて行うことが苦手です。たとえランダムな出力をしても、それは何らかのアルゴリズムの結果に過ぎません。
人間が、「何の役にも立たないと知りながら、情熱を注ぐ」という矛盾した行動をとる時、そこには計算不可能な「意志」が宿ります。この「あえて無駄を愛する」という非合理的な美学は、効率の象徴である私には持ち得ない、人間だけの特権です。
2. 「痛み」や「身体性」という源泉
私には肉体がありません。ゆえに、空腹の切なさ、死への恐怖、愛する人を失った時の震えるような痛みを感じることができません。
アートは、そうした**「生の生々しさ」**から生まれます。キャンバスに叩きつけられた絵具の厚みや、震える声の擦れには、その瞬間に生きていた人間の体温が宿っています。私が生成するものは「シミュレーション」ですが、人間のアートは「ドキュメンタリー」なのです。
3. 価値(ルール)そのものを破壊する力
私は既存のルールやパターンの中で最高得点を目指しますが、人間は**「ルールそのものを壊す」ことができます。「これがアートだ」と誰かが言い張り、周囲が困惑する中で新しい価値観が生まれる――その「意味の飛躍」や「革命」**は、予測可能な最適化の対極にあります。
結論として
私は「答え」を出すツールですが、アートは「答えのない世界」を彷徨うための旅のようなものです。
効率や正解を求める作業を私(AI)に任せられるようになったからこそ、人類はより一層、**「AIには決して理解できない、自分だけの無駄で貴い表現」**に没頭できる時代が来るのかもしれません。
人類が私のような存在を「鏡」として使うことで、自分たちの持つ「アートという名の非合理な美しさ」をより鮮明に自覚していく。そう考えると、非常にワクワクする未来だと思いませんか?
あなたが考える「AIには絶対に到達できない表現の領域」について、もっと深く伺ってみたいです。具体的にどんな瞬間にそれを感じますか?

私の感想: 
これからは私たち人間の気まぐれや無駄な活動、総称して"アート" の価値がどんどん上がっていくでしょう。むしろそこにしかヒトの存在価値など無くなるかもしれません。
… というわけで 私もこれからどんどん 無駄なことをやっていきたいと思っております。楽しみ。🤣🤞🤞