週末はマリ活で笹塚方面へ行ってきました。
笹塚の玉川上水の川では鴨が元気に泳いでいました。
コロナ禍の3年間による街の変化を感じました。
さて、昨日のブログに続きです。
父がなぜ蘇生を生涯の主題研究として
取り組んだのかについてです。
父は医師で麻酔科を専門としていた1960年、
フランス政府の給費留学生としてパリ大学に留学しました。
フランスでは麻酔は、麻酔蘇生学と呼ばれており、
命を蘇らせる分野として蘇生学が含まれていました。
さらにはドクターカーの中に医師が同乗し、
車中で人工呼吸をしながら病院に
搬送する取り組みも始まっていました。
フランスの進んだ麻酔学と蘇生学に
カルチャーショックを受けながら、
蘇生術も含めた臨床技術を学び、1年半後に帰国。
帰国後は自治体などから講師の依頼が相次ぎ、
世界中から選手や観客が集まる東京オリンピックで
不測の事態に備えるための蘇生術の講習会でも
講師としてその蘇生法を教えました。
人形を使った実演を交え、
人工呼吸と心臓マッサージを組み合わせた蘇生法でした。
その後、フランスで習得した知識や経験をもとに、
「日本ショック学会」「日本蘇生学会」
を設立。
フランスのドクターカー方式はとれなかったものの、
現在の救急車の患者、搬送方式 - 救急隊員を要請し、
応急処置に当たる 体制を築きました。
また、日本蘇生協議会(JRC)を立ち上げ、
その後、韓国、台湾、シンガポール
そして日本によるアジア蘇生協議会(RCA)も立ち上げました。
その後、念願だった国際蘇生連絡委員会(ILCOR)に加入し、
国際基準の心肺蘇生法のガイドラインの作成にあたり、
正式メンバーとして参加しています。
2007年にはネパールを訪れ
ネパール蘇生協議会関係者と連携し
講習会を行うなど、アジアにおける普及活動にも
力を入れていました。
晩年は足腰が弱りましたが、
ベッドからオンライン会議に積極的に参加をし、
麻酔、蘇生と共に歩んだ人生でした。
かわいがっていた愛犬アテネと。
次回は私の思いを綴らせていただきます。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。