「渋谷」とひとくちにいっても、土地に「格」があります。
たとえば、駅周辺は「道玄坂」といい、江戸時代に作られた地誌類によると、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、大永4年渋谷氏滅亡後にこの坂に出没して、山賊野党の振る舞いをしたと伝えられています。
渋谷駅に隣接する「マークシティ」、東急本社跡にできた「セルリアンタワー」はITベンチャーのステイタスになっていますが、住宅地としてのステイタスは「松涛」がベスト・オブ・ベストでしょう。
「松濤」とは、茶の湯の釜のたぎる音を、松風と潮騒にたとえた雅号で、この銘の茶が生産されていました。松濤の名が地名になったのは、昭和3年のこと。鍋島松濤公園は、松濤園にあった湧水地の一画で、鍋島家から、当時の東京市に寄付されたもので、江戸時代、紀州徳川家の下屋敷でした。明治初期、下屋敷の払い下げを受けた鍋島家では、ここに狭山茶を栽培し、「松濤園」という茶園を開いたそうです。
「松涛」といえばいまでもお屋敷町のある、閑静な住宅街です。
隣接する「神泉」も住宅街で、渋谷とは思えない静けさです。
でも、「神泉」と「道玄坂」の間にある「円山町」は、その昔花街であり、現在でもラブホテル街となっており、(失礼ながら)格が低い土地です。
また、閑静なハイソサエティといえば、かつての「代官山」や「猿楽町」もそうでした。
代官山は戦後まで山林だったそうで、猿楽町も風光明媚な場所で、鎌倉時代に、源頼朝がこの地で猿楽を催し、その道具を埋めたことから「猿楽塚」と命名された、と言われています。
NHKや、渋谷公会堂のあるあたりは「神南」 第二次大戦前には、大部分が、旧代々木錬兵場に含まれ、戦後からは、「じんなん」と発音されています。昭和3年に、前耕地、豊沢、宇田川、深町の一部などが合併して「神南町」となりました。この名は、明治神宮の南にあることから、元は「神南(かんなみ)」とつけられました。
そのほか、恵比寿、代々木、千駄ヶ谷、初台、笹塚、広尾、なども渋谷区に含まれます。
「渋谷のオフィス」といっても、立地(住所)によって雰囲気やイメージがたいへん異なります。
よほど有名な大企業ならともかくとして、ベンチャーが場所を選ぶときには住所のイメージを選ぶということも多いにポイントになると思います。
たとえば、駅周辺は「道玄坂」といい、江戸時代に作られた地誌類によると、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、大永4年渋谷氏滅亡後にこの坂に出没して、山賊野党の振る舞いをしたと伝えられています。
渋谷駅に隣接する「マークシティ」、東急本社跡にできた「セルリアンタワー」はITベンチャーのステイタスになっていますが、住宅地としてのステイタスは「松涛」がベスト・オブ・ベストでしょう。
「松濤」とは、茶の湯の釜のたぎる音を、松風と潮騒にたとえた雅号で、この銘の茶が生産されていました。松濤の名が地名になったのは、昭和3年のこと。鍋島松濤公園は、松濤園にあった湧水地の一画で、鍋島家から、当時の東京市に寄付されたもので、江戸時代、紀州徳川家の下屋敷でした。明治初期、下屋敷の払い下げを受けた鍋島家では、ここに狭山茶を栽培し、「松濤園」という茶園を開いたそうです。
「松涛」といえばいまでもお屋敷町のある、閑静な住宅街です。
隣接する「神泉」も住宅街で、渋谷とは思えない静けさです。
でも、「神泉」と「道玄坂」の間にある「円山町」は、その昔花街であり、現在でもラブホテル街となっており、(失礼ながら)格が低い土地です。
また、閑静なハイソサエティといえば、かつての「代官山」や「猿楽町」もそうでした。
代官山は戦後まで山林だったそうで、猿楽町も風光明媚な場所で、鎌倉時代に、源頼朝がこの地で猿楽を催し、その道具を埋めたことから「猿楽塚」と命名された、と言われています。
NHKや、渋谷公会堂のあるあたりは「神南」 第二次大戦前には、大部分が、旧代々木錬兵場に含まれ、戦後からは、「じんなん」と発音されています。昭和3年に、前耕地、豊沢、宇田川、深町の一部などが合併して「神南町」となりました。この名は、明治神宮の南にあることから、元は「神南(かんなみ)」とつけられました。
そのほか、恵比寿、代々木、千駄ヶ谷、初台、笹塚、広尾、なども渋谷区に含まれます。
「渋谷のオフィス」といっても、立地(住所)によって雰囲気やイメージがたいへん異なります。
よほど有名な大企業ならともかくとして、ベンチャーが場所を選ぶときには住所のイメージを選ぶということも多いにポイントになると思います。