『世紀の大発見』というニュースは人々を興奮させますが、『世紀の大嘘』は静かに粛々と進行するようです。

 

 

1960年代、運輸省(現・国土交通省)が「高度経済成長による航空需要の増大で、羽田空港が1970年頃にはパンクする」という予測を発表しました。


「首都圏に羽田空港を補佐する新空港が不可欠」として1978年、地元や過激派の反対を押し切る形で千葉県成田市三里塚地区に新空港を開港することが決定しました。

その名は『新東京国際空港』、通称『成田空港』です。

 


当時、羽田沖の埋め立てが漁業権との絡みで困難であったことや、羽田を拡張すると空路が米軍横田基地の空域にかかる可能性があったことから、羽田以外の場所に新空港を建設することになったのです。

 


そして『国際線は成田、国内線は羽田』という棲み分けで、羽田を発着する国際線のほとんどが成田へ移管されるという約束が「反対派切り崩しの切り札」として使われました。


しかし、一部反対派の根強い抵抗により、当初のABCの3本滑走路の建設予定が、A滑走路1本のみ、旅客ターミナルビルも1棟のみに縮小変更され、見切り発車でのスタートとなりました。


成田空港開港から2010年までの32年間は『国際線は成田、国内線は羽田』という約束は守られていましたが、その間、国外では1981年にはチャンギ国際空港(シンガポール)、2001年には仁川国際空港(韓国)など、24時間乗り継ぎに便利ないわゆるハブ空港が相次いで開港しました。

 

観光立国を目指す日本の航空需要の増大は止まるところを知りませんが、玄関口となった成田空港は、周辺住民の反対で24時間営業は難しく、また、拡張用地の買収にも依然として強い抵抗がありました。

 


そこで国土交通省は、正式に方向転換をアピールしないままに、羽田空港を再度国際化させ、羽田・成田の両空港体制で、遅ればせながらアジア各国を凌ぐ国際線ネットワークを構築しようとしました。


埋め立て技術の向上などで沖合への拡張ができるようになり、2010年には4本目の「D滑走路」が、更に24時間利用できる国際線ターミナル(第3ターミナル)も建設されて大幅に増便が可能になり、国際線の定期便も開設されました。

 


その結果、『国際線は成田、国内線は羽田』という鉄の約束(?)は、事実上消滅しました。

 

※ 関連ブログがあります。

 【167】 成田と羽田