B級グループサウンズ ⑮ アウトキャスト | 芝ちゃんのブログ

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青少年時代の歌番組等の思い出、時に現在の私事エトセトラ

  私が少年時代に夢中になったグループサウンズ。同級生にはそのことを言ったことは一度もなかったように思う。奇人変人扱いされ馬鹿にされるような気がしてならなかったからである。

 授業が終わるや帰宅組で部屋に引きこもり、雑誌やテレビに夢中になっていたな~んてことは全くないですよ。ニヤリニヤリ

 放課後はごく普通に皆んなと薄暗くなるまでグランドなどで遊んでいたし、休日も日中の大半は外出して友達と会って遊んでいた。夕方、帰宅後は、勉強は短時間でさっさと済ませ、自分の好きなことをして過ごしていたのであります。高校生になったら5人編成のアマチュアバンドを組みたいと思っていました。(ベンチャーズのドンウィルソンやゴールデンカップスのケネス伊東が弾いていたサイドギターを担当したいなどと当時は漠然と思っていた)

 その後、GSブームは衰退してしまったショボーンショボーン。かといってギンギンなハードロックやアイドル色が強い歌謡バンドも個人的にはあまり興味を持てなかった。結局1970年代フォーク(井上陽水とか)の方に興味がシフトしていったのでした。ニヤリ

 

 今回は、久しぶりにB級グルーサウンズ。意外に実力があったバンド。(当時はそれに気がつかなかった。歌番組の出演回数はそれほど多くはなかった、雑誌には時々掲載されていたが・・)

 渡辺プロダクション所属で、少し先輩にザ・ワイルドワンズ、ちょっとだけ後輩(ほぼ同期)のザ・タイガーズと事務所が一緒でした。 バンド名はアウト・キャストです!

 

 知らない人の方が多いと思います。地味なフォークのような曲で1967年1月にレコードデビューをしました。

 関西からスカウトされて上京してきたタイガースは1ヶ月後にバラード調の大人しめの曲でデビューしましたが、当初はまだ手探りと言う感じでした。

 サベージとワイルドワンズは大ヒットしたが、ヴィレッジシンガーズも含め大半のバンドはフォークっぽい曲でデビューしました。まだGSというワードは存在していない時期でフォークロックと紹介されておりました。日本人にはポップス調はまだ受け入れられにくかったのではなかろうか。

シャープホークスはポップス調のハイテンポのカッコいいデビュー曲が売れず、2枚目に出したフォーク調の「遠い渚」が売れたりしましたね。

そんな中でも先駆者のブルーコメッツとスパイダースだけは別格でポップス調の曲でずっと先を走っておりましたね。 

同じ1967年でも春以降になるとGSブームが到来、ハイテンポの曲が若者中心に流行していきました。

 アウト・キャスト!

  

   渡辺プロ所属のブルーエースにいた水谷淳が大野良二やジャニーズジュニア(ジャニーズのバックバンド)にいた穂口雄右を誘ったのが始まりで、他のアマチュアバンドにいた藤田や中沢らにも声を掛け1966年6月に結成されたバンドのようです。

 左から轟健二(V、フルート)、藤田浩一(ギター)、穂口雄右(オルガン)、水谷淳(リードギター)、中沢啓光(ドラムス)、大野良二(ベースギター)の6名でスタートした。

 

         

    こちらの写真の方が鮮明だが、藤田さんが欠けてしまった(たぶん私のミスです)

 

         

   デビュー曲は「友達になろう」でメンバーの藤田浩一作詞作曲で1967年1月発売。フォーク調の作品でした。私自身は兄から貰ったのでよく聴いていたけど地味な曲でしたね。 レコード会社がテイチクで・・・石原裕次郎や田端義雄、三波春夫らと一緒というのはどうよ・・カンパニースリーブ(レコード収納袋)もバンドの曲にしては個人的に違和感が非常にありました。

         

 

   近田春夫さんはこの曲は嫌いと言っていたっけ。同じ藤田浩一作品のB面「気ままなシェリー」の方が良かったかもしれない・・。

   2作目の「愛することは誰でもできる」はメンバーの水谷淳作詞作曲で同年の4月発売だったけど前作以上にじみ~な曲だったので覚えている方はごく少数でしょう。童謡「花嫁人形」に出だしが似ていました。

   

       

   

 

 

    1967年7月発売の藤田浩一作品「レッツゴー・オン・ザ・ビーチ」は今までとは違い、とてもノリの良い曲で良かったんだけど 同時期の タイガース「シーサイドバウンド」にはセールス的には大差で負けてしまった。ファズを取り入れたり、レコーディングにはファンも参加したり、   唯一、 Wジャケット仕様だったということは「エンピツが一本」にも力を入れていたのかな?? 「エンピツが一本」は山田太郎や坂本九の方が、圧倒的に売れた・・。ご存じ浜口庫之助作品。

 

        

    

    4作目の「一日だけの恋」も「僕のそばから」も水谷淳作品で1967年9月に発売されました。     夏に藤田浩一が脱退(後にザ・ラヴ結成)して5人になったけど、前作とセットという感じの作品でしたね。ヴォーカルの轟健二が独特の歌声で悩ましく歌唱していました。良い曲だと思うけど何故売れなかったのでしょう。まぁまぁ人気はあったはずです。

  5作目の「愛なき夜明け」はプロの作家、ヒットメーカー作詞橋本淳、作曲筒美京平による作品(1968年1月)でGSブーム真っ只中に発売されましたが小ヒットに終わりました。B面の「ふたりの秘密」は大野良二さんの作品でなかなか良い曲だと思う。

  1967年の秋頃にオルガンの穂口雄右さんが抜け、4人体制になり、なんかバンドとしての勢いが弱くなってきたように感じたのは私だけかな・・。「愛なき夜明け」はリアルタイムで買いました。

    夜の歌番組「ザ・ヒットパレード」では上位にランクインしていたモンキーズの曲などの歌と演奏をしていました。彼らのオリジナルはベスト20以内には入っていなかった。 1968年3月に解散となったようでした。その後、轟健二と水谷淳はアダムスを結成することになります。ドラムスの中沢啓光は親の稼業を継ぐとのことでした。

 

   アウト・キャスト Out Cast/愛なき夜明け Ainaki Yoake (1968年) - YouTube

 

 

 

        

   彼らの唯一発売されたアルバム「君も僕も友達になろう」は1967年11月に発売されました。

   もう1枚は、だいぶ後になってから購入したコンパクト盤です。「友達になろう」はやはり入っていなかった・・・。

 

       

     この写真は、朝の「ヤング720」に出演した時のものですね。このミリタリールック調のユニフォームの色は赤だったと思う。曲名はよく考えたら「一日だけの恋」で間違いないと思います。記憶に残っております。

    元アウトキャストのメンバーって後に、スタジオミュージシャンや音楽プロデューサー、作曲家、音楽事務所社長、レコードディレクター・・と音楽業界に残った人が大半です。

   今、思い出したけどキャンディーズの大ヒット曲を作ったのは穂口さんだったような気がします。

   ヒットには恵まれず、マイナーバンドで終わったけど、GSの中では間違いなく音楽的才能に優れたバンドだったのでしょうね。

   藤田さんや大野さんはお亡くなりになっております。

   1967年のアウトキャストのバンドボーイは「なぜか埼玉」が売れて有名になった”さいたまんぞう”だったそうですよニヤニヤ

      

 

       

      この写真は第2期アウトキャストのメンバー写真です。右端の大野良二さんが中心になって新メンバーを募り結成しました。左から3人目はトニー谷の次男坊、谷かつみ(リードギター)ですが、トニー谷も写っていますね。トレードマーク?のソロバンは持っていないけど・・ニコニコ

       

            

  

 

 

   一番手前の彼はメインボーカルとタンバリン担当の岡本修さんです。一番後方が谷かつみさん(トニー谷に似ているからわかりますね)

  第2期アウト・キャストのよる第1弾は1968年6月に発売された「空に書いたラブレター」。

  個人的には歌番組では観た記憶はないです。このレコードはなかなか入手困難で発売から40年も経ってやっと入手。(まぁまぁ高かったです)B面の大野良二さん作詞の「君を慕いて」の方が好みです。A、B面とも外国曲のようです。第2弾も予定していたようですが(作詞トニー谷、作曲平尾昌晃)、実現はしなかったようです・・。 GS文化放送の人気投票最終結果では110位の334票。111位が札幌のザ・ビーズ331票ですからね。ウ~ン。1968年10月から1969年4月までの集計なので第2期アウトキャスト時代ということになる。正直売れてはいないからね。

 

                      

     谷かつみさんは当時、満16才だったことが確認できますね。(本名は大谷克己)ゴールデンカップス、そしてゴダイゴのミッキー吉野と同学年ですね。GSでは26、27年生まれはほぼ最後です。

  この後、ジャニーズ事務所に入り、途中からハイソサエティー(永田英二などのバックバ

ンド)のメンバーに加わりました。新庄一(元ザ・スピリッツ、後にブルージーンズ)も同じパターンでした。