「全日本歌謡選手権」の思い出 | 芝ちゃんのブログ

芝ちゃんのブログ

青少年時代の歌番組等の思い出、時に現在の私事エトセトラ

  NTV「全日本歌謡選手権」は1970年1月5日から1976年12月25日まで放送された番組で、スタート時は毎週月曜日の19:30~20:00でした。(途中で曜日や時間帯が何度か変更になった)

 私自身は、ほぼ中高生の時期で、家族が好きな番組だった影響で毎週観ておりましたが、最後の方はあまり記憶に残っておりません。

 アマ、セミプロ、プロを問わず、10週勝ち抜きのグランドチャンピオンを目指した歌手登竜門の本格的な番組でした。司会は長沢純(元アイドルグループ、スリーファンキーズのメンバー)で後半の約一年は浜村淳が担当されていました。

 毎回、5人の審査員により審査、一人20点満点で採点して合計70点以上なら無条件に合格というシステムなので平均14点以上獲得すれば合格となるわけです。(80点以上は高得点であり、合格でも70点台が大半だった)

 合格発表の方法だが、最初の頃は回転する台に乗って正面で停止すれば合格、途中からは出場者の席の上部に点数が表示される形へと変更になりました。

 審査には、鈴木淳、船村徹、淡谷のり子、竹中労、山口洋子という5名の先生があたり、その後、辞任などで入れ替えが何度かあり、平尾昌晃、福田一郎、土持城夫、西沢爽らも審査している時期もありました。

 この番組は、基本的に一定の歌唱力がないと予選で落とされ本選に進むことはほぼ不可能、何とか本選に出場できても厳しい審査の結果、あっさり不合格(淡谷のり子さんの”あなた発声が全然なってないのね、もう一度出直してらっしゃい!”は忘れられない。

 中には、名前は忘れたが8週目まで進んだのにまさかの不合格となってしまった、ちょっと古風な感じの女性もいました・・・。まぁ辛辣な批評が多く、特に淡谷のり子、竹中労、船村徹さんらは非常に辛口な採点だった気がします。約一年後に「スター誕生」というオーディション番組もありましたが、そちらはほとんどが10代であり、どちらかというとタレント性、アイドル性を重視している傾向にあった。アイドル歌手を中心にたくさん誕生した。思い出してみると、森昌子、桜田淳子、山口百恵、三橋ひろ子、マッハ文朱、松下恵子、神保美喜、おがた愛、菅原昭子、岩崎宏美、ピンクレディー、伊藤咲子、中森明菜、北村優子、柏原よしえ、黒木真由美、石江理世、目黒ひとみ、神田広美、柴葉子、岩城徳栄、甲斐智恵美、石野真子、片平なぎさ、コスモス、清水由貴子、井上望、小林美樹、金井夕子、小泉今日子、しのずかまゆみ、杉田愛子、ポップコーン、シルビアリー、谷ちえ子、南陽子、最上由紀子、浦部雅美、松本明子、北野玲子、岡田有希子、矢野良子・・・など、男では城みちる、渋谷哲平、朝田のぼる、豊田清、長田たいじ、藤正樹、すみあきくん、宮本謙治、池田正臣、鷲と鷹、川崎公明、緑川真・・・まだまだいたけど、圧倒的に女性の方がスターになりましたね。男で一番活躍してきたのは新沼謙治じゃないだろうかね・・。長田たいじや朝田のぼる、しのずかまゆみあたりは全日本歌謡選手権に出てもいい勝負ができたのではなかろうか・・10週はわからないけど。

 

                                             

 大橋恵子さん、五木ひろしさん、南こうせつさんら・・・・  下は16才の天童よしみさん(吉田芳美)

 

 ※ 主な合格者や印象的な出場者は以下の通りです。(実際にはまだまだいました・・が私の記憶に残っている方のみです)

 

 〇胡浜三郎  

  元流しをしており、胡浜勲の本名で当番組に挑戦、1970年4月 「女のまごころ」でデビュー。第2の森進一と言われ、この曲は公称40万枚の大ヒットしたが、その後が続かず、2作目の「女のいのち」は売れなかった・・・その後、森進伍と改名、森進一のモノマネで知られるようになる。初代グランドチャンピオン(10週目の曲は「哀愁の波止場」)

  〇五木ひろし

   松山まさる、一条英一、三谷謙と3度改名しながら長く歌手活動をしてきたが、ヒットに恵まれず再起をかけて当番組に挑戦、時には厳しい批評もあったが、見事10週勝ち抜きグランドチャンピオンとなった。1971年3月、審査員の一人だった山口洋子作詞による「よこはまたそがれ」で再デビュー(8週勝ち抜いたところでこの曲は出来上がっていたという)。約70万枚の大ヒットとなる。その後も数々の大ヒット曲を飛ばし、超有名演歌歌手となった。ちなみに3週目に一条英一時代の「俺を泣かせる夜の雨」、10週目には三谷謙時代の隠れた名曲「雨のヨコハマ」を歌唱しました。

〇大橋恵子

  1971年2月「愛の教室」でデビュー、「幸せのおもかげ」や「思い出は鳥のように」など発売したがあまり売れなかったように思う。1970年に出場、第11代グランドチャンピオン 

〇天童よしみ

  「日清ちびっこのど自慢」優勝を機会に番組プロデューサー経由で「いなかっぺ大将/大ちゃん数え唄」を録音、正式デビューする前に本名の吉田よしみの名前で、アニメ「いなかっぺ大将」TV主題歌として1970年の10月には流れていました。当番組では順当に10週を勝ち抜きグランドチャンピオンとなりました。天童よしみの名付け親は竹中労でデビュー曲の「風が吹く」の作詞もされた。レコード発売は1970年11月で辛口の竹中労さんの評価が非常に高かった。しかし、思うほどのヒットにはならなかった。その後も低迷の時代が約15年も続いたが、「道頓堀人情」のヒットによって全国的に知られるようになり現在に至る。上沼恵美子とは少女時代に、のど自慢大会で優勝を争った関係だったようです。

〇八代亜紀

 1971年9月に「愛は死んでも」でクラウンからデビュー経験を持つクラブ歌手だったが、再起をかけて当番組に出場、1972年に10週勝ち抜いてグランドチャンピオンとなった。再デビュー曲はすぐには売れなかったが、1973年2月に発売した「なみだ恋」が大ヒットし、全国的なスターとなっていった。演歌が嫌いな淡谷のり子さんからの辛口批評が評判になった。巻き舌を指摘されたこともあった。とはいえ、歌唱力は優れているため、いくら嫌いでも最低合格点の14点はつけないわけにはいかなかったと思う。

〇南高節とかぐや姫

 1970年9月出場、一言でいうと異色だったが、南こうせつの歌唱力は淡谷のり子さんでさえ認めた。一週目はPPMらの「花はどこへ行った」、2週目「海」(かぐや姫LIVEにも収録されている)、3週目もオリジナルの「あわれジャンクソン」と順調に進み、4週目はオリジナル「酔いどれかぐや姫」を十二単みたいな衣装で歌唱し合格した後、”当初の目的は達成した(知名度をあげる)ので辞退します”と番組内で発言、審査員から反対があったが辞退、その後クラウンから1970年10月に発表した「酔いどれかぐや姫/あわれジャンクソン」は話題になったがあまりヒットはしなかった。メンバーを一新してから出した「神田川」や「赤ちょうちん」、「妹」は大ヒットをしました。

〇ウイリー沖山

 昭和8年生まれで、昭和30年代からプロとして活動、カントリーでもヨーデルでもなんでもこなすベテラン歌手で、低音の声の張り、超高音ファルセットまでこなす抜群の歌唱力の持ち主。どういうきっかけで当番組に応募したのか不明(実力だめしか?)だが、出場時、既に30歳代で本人のデビュー曲「スイスの娘」や「山の人気者」といったヨーデル曲を見事に歌い上げ不合格とする理由もなく、とんとん拍子に勝ち進みグランドチャンピオンとなった。そういえば、電気ポットのCMで♪よう出る、湯でる、よう出る日~♪って流れていたっけなぁ。城卓矢もヨーデルがとても上手だったが、当時同じバンドでウエスタン歌手仲間であったウィリー沖山を師事していたといわれています。

〇有田美春

 田之頭美春、1974年出場、当時高校生でギターを弾きながら歌っていたように思う。毎回ギリギリラインの70点~72点あたりと、歌唱力は特に優れていたわけではなかったが、不思議な魅力と好感度を評価され10週を見事勝ち進みグランドチャンピオンとなった。1974年4月に「いとこ同士」でデビュー、9月に「小さなブランコ」、1975年2月に「ふたりの自転車旅行」を発売しているが、当初はよく歌番組(1974年に開始したNHKの夜6時からの”レッツゴーヤング”にフォーリーブスらと一緒に出演していた)に出て小ヒットしたが、その後、ブラウン管からは消えていった感じでした。

〇有砂しのぶ

 宝塚音楽学校卒という経歴をもち、1975年に出場し、とんとん拍子に勝ち進みグランドチャンピオンとなった。1975年4月に鈴木淳作曲の「港のホテル」でキャニオンからレコードデビューし小ヒット、その後、9月には「あなた許して」他4曲ほど発売したが、残念ながらあまり売れなかったように思う。

〇中 真理子

 1972年に「スター誕生」の決戦大会まで進み、最優秀歌唱賞まで獲得したが、芸能プロダクションからのプラカードがあがらずに終わった。その後、当番組にチャレンジ、一週目は僅か1点足りず不合格となるも審査員の裁量で再挑戦し次の週からはとんとん拍子に合格しグランドチャンピオンとなった。16才だった。

 1975年5月に、中麻里子の名前でポリドールから「だから雨が好き」でデビュー、11月に舞台事故により長期休養に入り歌を断念したという。

〇ロマンタム

 俳優で香港歌手、1975年当番組に出場し見事10週勝ち進みグランドチャンピオンとなった。

 「さすらいの恋」でレコードデビューをしました。イケメンでしたがあまり売れなかった。

〇青山ミチ

 1962年にデビューしており、「涙の太陽」、「ミッチー音頭」、「叱らないで」等々のヒット曲もあるダイナミックでパンチのある唄声でミッチーの愛称で呼ばれていたベテラン歌手。事件を起こしてからレコード会社や事務所から干され画面から消えていたが、再起をかけて1970年、当番組に出場、船村徹からは”歌は上手いんだから、しっかり歌一筋で歩いていきなさい”と励まされていた。見事グランドチャンピオンとなったが、色々あって再デビューとはならなかった。

〇真木ひでと

 元GS、オックス解散後、ソロ活動していたが、あまりヒットせず、1975年6月に当番組に再起をかけ本名の野内正行で出場、見事10週勝ち進みグランドチャンピオンとなった(10週目の「よこはまたそがれ」は出来としては彼としては低めの73点だった)。船村徹さんから”新しい演歌の匂いがする”と批評されていた。オックスの数々の曲の作詞をされた橋本淳さんからは”オックス時代の方が情感がこもっていた”、湯川れいこさんからは”上手くなったわね”と言われていた。「船頭小唄」や「噂の女」は結構な高得点だった気がします。、1975年9月「夢よもういちど」の再デビュー曲は大ヒットとなった。その後も「雨の東京」やオロナミンCのCM「元気の星」もヒットし、地味ではあるが現在もバリバリ現役で頑張っています。

  ちなみに、1週目出場の時のゲストは西城秀樹だった。すごく驚いていたようでしたよ~~秀樹が!

〇井沢八郎

 1963年にデビューして「あゝ上野駅」や「北海の満月」等の大ヒット曲を持つベテラン歌手。

 力試し目的で出場、「北海の満月」を歌いその歌唱力に文句のつけようもなく、もちろん合格したが、後に次週からの出場辞退を申し出た。

 どうやら所属レコード会社がストップをかけたらしい。

〇中井 昭

 1968年4月にムード歌謡グループ、高橋勝・中井昭とコロラティーノでコロムビアから発売したデビュー曲「思案橋ブルース」が大ヒット、そのバンドのボーカルを担当していたのが中井昭で音域が広く女性の高いキーまで出せるのが特徴的だった。長崎シリーズの「思案橋のひと」が思うように売れず、その後も数々の曲を出したがヒットせず、再起をかけて当番組に出場したが、2、3週目くらいで不合格になりました。”声量が足りない”とか批評されていた。30歳代半ばというのも厳しかった要素かもしれない。

〇竜 エルザ

 沖縄海洋博会場からの公開収録時に出場した。順調に勝ち進みグランドチャンピオンとなった。

 デビュー曲は不明

〇本田 孝

 本名は本田孝信、1970年、14才の中学生で学生服姿で出場し、森進一の「花と蝶」を歌唱した。

 合格ラインスレスレぐらいで勝ち進んでいったが、4週目で不合格となった。竹中労からは「声変わりが済んでいないから、まだデビューは早すぎる」というような批評をされていた。ところがビクターからスカウトされ、1970年9月に「雪国の女」でレコードデビュー、スマッシュヒットとなったが、次作の「夢をもとめて」は売れず、その後画面からは消えていった感じでした。

〇中条きよし

 1968年に高波晃で「帰ってきた波止場」でデビュー、1971年に渥美健で「心の古傷」で再デビューした経歴を持つ。1973年に当番組に出場し、”クラブ歌手っぽいんだよ”というような批評もあったが見事10週勝抜きグランドチャンピオンとなった。1974年1月に再再デビュー、デビュー曲「うそ」が大ヒット、「うすなさけ」、「理由」と立て続けにヒットしたが、その後も、歌手と俳優の掛け持ちの現役であります。

〇大工哲弘

 沖縄県出身の琉球民謡歌手。1970年に当番組に出場、惜しくも8週目まで順調に勝ち進んでいったところで不合格となりました。同年にマイナーレーベルではあるが、沖縄のマルフクレコードより「川良山・まるまぶんさん」をリリースしました。現在も八重山民謡の普及、育成に力を注いだりと幅広い活動をしているミュージシャンであります。

〇日高正人

  1970年にミノルフォンから「鹿児島の雨にぬれて」でデビューした経験を持つ。

  1972年に当番組に出場、10週勝ち進みグランドチャンピオンになった。

  日高正人名義で「屋久島哀歌」を発表、その後も日高隼人名義で「想いでとかして」「ひとり暮し」等数々の曲を出されているようです。 

〇山本譲二

 1974年に伊達春樹の名前で「夜霧のあなた」でビクターからデビュー、1975年には「帰っておいで」を発表しているが売れず、1976年に当番組に再起をかけて出場した。見事10週を勝ち抜きグランドチャンピオンになり、1976年7月に「そばにおいでよ」、1978年「北ものがたり」、1979年「男の影法師」と出しても全く売れず、次の1980年8月発売の「みちのくひとり旅」を出して1年位経ってから売れ始め大ヒットとなった。

〇松島あきら  

 1961年にビクターから「湖愁」でレコードデビューし、大ヒットさせたベテラン歌手であります。

 スピッツという愛称で呼ばれた人気スターであり、主として青春歌謡を歌われておりました。

 徐々にヒットに恵まれなくなり再起をかけて当番組に出場したと思われるが、残念ながら3週目ぐらいで不合格となってしまいました。

〇李朱朗(リー・ジュラン)      

 韓国のソウル出身。1972年、当番組に出場し見事10週を勝ち進みグランドチャンピオンになりました。

 1972年3月にベンチャーズ作曲の「あの人は今札幌」でミノルフォンよりデビューし、スマッシュヒットしました。その後、「あなたのうわさ」「明日があるうちは」「涙のブルーハーバー」とリリースしたがヒットはしませんでした。

〇山口るみ子    

 1973年、当番組に出場、見事10週勝ち進みグランドチャンピオンになりました。

 コロムビアから「小さな恋の思い出」でデビュー、同年に早くもイメージチェンジして「雨上がり」、翌年に「愛の扉をひらいて」、その後も「愛のオホーツク」をリリースしているがいずれもヒットはしなかった。

 審査員に鼻が低いなどと失礼なことまで言われて、整形までしたのに・・・残念でした。 

〇淳 二郎      

 作曲家の鈴木淳の弟子で、1970年に当番組に出場、見事10週勝ち進んでグランドチャンピオンになりました。同年にキングから「命かけた恋」でレコードデビューしたが残念ながらヒットにはならなかった。

〇菊池いさお     

 1974年当番組に出場、10週勝ち進みグランドチャンピオンになった。同年にミノルフォンから「あなたはどこに」でデビューしましたが残念ながらヒットはしませんでした。

〇マーガレットアン  

 アメリカ出身で、1971年に当番組に出場、10週勝ち進みグランドチャンピオンになりました。

 1971年ワーナーパイオニアから「また恋をして」デビュー、「朝までも」という曲もあったが残念ながらヒットはしませんでした。

〇森はるみ      

 1973年当番組に出場、10週勝ち進み第40代グランドチャンピオンになった。ユニオンより「志摩旅情/志摩ごころ」というご当地ソングでデビューしました。残念ながら売れませんでした。

〇大原みどり     

 1973年当番組に出場、10週勝ち進み第46代グランドチャンピオンになった。コロムビアから「ふるさとの恋」でデビューしました。その後「自叙伝」、「ユンタの港」、「霧多布岬」等発売されましたが、1976年発売の「夕日の波止場」がスマッシュヒットしたようです。1976年の芸能界ロッキード事件と騒がれた詐欺事件の被害者でした。

〇津山きぬ代     

 1971年当番組に出場、10週勝ち進みグランドチャンピオンになりました。1972年2月に「泣かない女」でデビュー、「夜汽車は西へ」という曲もリリースしているがいずれもヒットしませんでした。

〇田口やすひこ   

 1971年、15歳の時に当番組に出場、第15代グランドチャンピオンとなった。

 船山徹からの評価が高かった。そして16才でコロムビアからレコードデビューしたという。

 曲目は不明。

〇フィフィザフリー  

 1968年6月に「おやじのロック」でデビューしたGS。1969年11月に発売した3枚目の「栄光の朝」をひっさげて当番組に挑戦、楽器演奏なしだったこともあってか緊張で本来の実力が出せず、一週目で不合格に終わった。竹中労からは「力もないのに無理にハモろうとしている」みたいな批評をされていた。

〇西条史朗      

  1969年7月に「夜の銀狐」で日本クラウンから歌手デビューし、夜の街の有線放送などで良くかかり小ヒット、現在でも夜のカラオケではよく歌われる有名なムード歌謡曲の一つとなっている。

 1971年頃、当番組に挑戦し勝ち抜いたが、理由はわからないが途中で辞退をしたようです。

〇飛柿マチカ

  1973年に当番組に出場、見事10週勝ち抜きグランドチャンピオンとなった。

  デビュー曲はファンク歌謡の「他人同士」、しかしあまり売れず、その後はジャズポップス系のクラブ歌手になったようです。     

〇水上たけし     

  1967年の青春歌謡歌手で港孝也として活動し、1967年5月にコロムビアから発売した「PASSION」はパワフルな歌唱が印象的で小ヒット、その後も「マリーナ」「青春火山」といった曲もリリースしたがあまりヒットはしなかった歌手であります。1971年頃、当番組に出場し、見事10週勝ち抜きグランドチャンピオンに輝き、水上たけしとして演歌歌手としてデビューしたが売れなかったようです。

〇アップルズ     

 沖縄出身の新里三姉妹。1976年に当番組に出場、順調に勝ち進んでいったが、7週目で不合格になった。しかし、ナベプロから声がかかり、アップルズの名前で1976年5月にワーナーパイオニアから「ブルーエンジェル」でレコードデビューした。その後、1978年にEVEと改名、目立ったヒット曲はないがハーモニーが評判で長く活動、1990年の紅白歌合戦に出場することができ、ジョンレノンの”イマジン”を歌った。

〇千賀かほる    

 1969年8月にコロムビアから「真夜中のギター」でデビューし大ヒット、次作の「いつか何処かで」(ドナ・ドナに少し似ている・・)も勢いで売れたが、その後の「マリアンヌ」「恋と知らずに」「くちづけ」「プロポーズ」等は売れなかったように思う。再起をかけて当番組に出場したが、3週目あたりで不合格となった。

 審査員からは”今のままでは駄目、変えていかないと厳しい・・”みたいなことを云われていた。

〇石野真子   

  1976年に当番組に出場、当時は15才の可愛い少女だった。平尾昌晃音楽歌謡学院のレッスン生でもあり歌唱力は悪くなかったものの、3週まで勝ち抜いたところで不合格に終わった。淡谷のり子からは”あなた、駄目~”とか批評されていた。翌年、「スター誕生」に挑戦、見事合格し、決戦大会でもたくさんのプラカードがあがり、1978年3月、ビクターより「狼なんか怖くない」でレコードデビューを飾り、人気アイドル歌手となっていった。 

〇竹野美千代

  1973年、当番組に出場、順当に10週勝ち抜き、見事グランドチャンピオンとなった。

  1974年1月、CBSソニーから「三人家族/山茶花」でレコードデビューを果たした。

 

 *その他、お笑い系の芦屋小雁や林家パー子、青空千夜一夜の一夜なども出演したことがあるらしいが、記憶にありません。どうやら一週目で落ちたらしい。細かい部分の間違いや勘違いもあるかもしれません。もしその他の出場者などご存知の方、教えてくだされば幸いです。

 

 出場者の主なレコードジャケット等(画像は今一・・・)

 

     

     

      

           

     

        

       

       

     

       

     

   

          

     

       

      

   

   

       

     

    

 (たわごと)

   当時、この番組を観ていて、私が大好きだった元GSのヴォーカル達が出場したらどうだっただろう?とか考えていました。真木ひでとのように10週突破できそうな人は?

 あくまでもド素人の私見だが、尾崎紀世彦(ワンダース)が一番可能性大では?、この頃の沢田研二もいけそう、松崎しげる(ミルク)や町田義人(ズーニーブー)、臼井啓吉(カーナビーツ)、清水道夫(ヴィレッジシンガーズ)、マモルマヌー(ゴールデンカップス)あたりも結構いいところまでいけそうな気がします。スウィングウエストの湯原昌幸や特にジャガーズの岡本信は、けっこう鼻にかかる歌声だったから審査員によってはけっこう厳しい批評を受けるような気がしておりました。ソロになってからの湯原昌幸の「雨のバラード」は大ヒットしましたね。演歌の「冬桜」なんかも好きですね。