2014年、県境ライン全走破計画 stage 6-2 (国道494号線) | 柴犬と小規模農家の奮戦記!

柴犬と小規模農家の奮戦記!

ロンリーライダーの農業と趣味の日常です

県境ラインを跨ぐツーリングの行程も仁淀川水系エリアとなりstage6となりました。

松山市から須崎市へと山間部を縫うように通る国道494号線は、山あり谷ありの道を通りながら県境を越えるまさに酷道なのです。

距離と言い、自然美に囲まれた行程は探索ツーリングとしては最高のルートなのです。

 

■走行日2014年7月~8月

 

前回は佐川町を抜け、かつての旧道を行き、越知町との境にある赤土峠までやって来ました。

赤土峠で集合した脱藩の志士たちは赤土峠を越えて越知に入り、そこから仁淀川を渡り、黒森越えの松山街道を進んだと言います。

 

 

バイクの方も赤土峠を越えると越知町に入ります。

そこから、再び国道33号線との重複区間をしばらく走るようになります。

 

 

仁淀川沿いに現在の松山街道とされる主要国道の33号線を走り、越知町と仁淀川町(旧吾川村)との境の「寺村」という集落へと着きます。

寺村の郵便局は簡易郵便局ですが、建物は川岸に建っています。

 

 

この辺りは切り立った山腹の深い谷間を蛇行して行く仁淀川が流れていて、平地はほぼ1車線の道路しかないほどで、そんな山の斜面にしがみつくように民家があります。

国道33号線はそんな地区をトンネルと橋で貫いて通っていますが、今回はそのトンネルを通らずに、集落の中を通る旧道を走ります。

 

 

この旧道は、うれしいことに昔のままのような未舗装の道なのです。
道沿いには仁淀川が見られ、未舗装道から見る川は一段と輝いて見えます。

川の蛇行に合わせたトンネルを迂回するルートなので距離はそれほどでもありませんが、仁淀川を眺めながら未舗装の道を走れるとなると、当然のごとく選ぶルートです。

やっぱり山道は未舗装が良いです。

 

 

寺村の地区から再び国道33号線との重複区間を2.4キロほど走ると池川町への分岐点へとやって来ます。

ここで国道33号線と分かれて池川の土居方面へと進みますが、この道は国道439号線と494号線の重複区間となります。
でも、道路表示板には494号の表示はありません。

 

 

その分岐から4キロほど仁淀川支流の池川川沿いを北上すると、瓜生野への分岐が現れ、久しぶりに494号の表示が出てきます。

ここで439号と分岐します。

 

 

今は池川川の東側をバイパス化した国道439号線が通っていますが、以前は久万高原町方面の494号と同じ区間を439号も通っていた重複区間でした。

でも重複区間当時から表示板には439号線の表示はありませんでしたが、494号の表示はありませんでした。

 

 

やがて池川の中心部手前で494号線と旧439号線の池川分岐の表示が出てきます。

昔の街道と言う雰囲気が残っている所です。

 

 

そして少し進むと、かつての旧439号線と494号線との分岐点に来ます。

そこの足元には“池川町道路元標”が残っていました。
大正9年施工の道路法によって定められた道路元標ですが、昭和27年に旧道路法が廃止されてからは姿を消して行きました。

高知県にはまだ多く残っている方です。

バイクはとりあえず439号側に止めています。

 

 

旧439号と494号の分岐がある所が池川町の中心地のようなところで、狭い道沿いに銀行や商店が並んでいます。

池川町は四国最高峰の石鎚山の山並が南へ下っている辺りの谷間の集落です。

国道494号の池川町から愛媛県久万高原町(旧美川村地区)の区間は、古来、土佐と伊予を結ぶ主要道路の一部でもありました。

 

 

池川町の中心地からは494号は単独線となり、徐々に「酷道」の様相が現れてきます。

渓流の土居川を渡る「永代橋(えいだいばし)」は昭和39年施工で、ここは「椿山(つばやま)」と言う集落方面へとの分岐点があります。 

 

 

土居川の渓流を見ていると、高知県の川はどこの川も綺麗だな~と思わず見入ってしまいます。

暑い中のツーリングには精力剤となる景観です。

 

 

池川川の支流である土居川の綺麗な渓流沿いに494号線は遡って行きます。

とにかく、仁淀川の支流は本当に清流ばかりで、仁淀ブルーというのは、これらの支流に支えられているのです。

 

 

酷道と化した494号をどんどん進んで行くと、用居(もちい)という集落の最奥の丸ポストのある「用居郵便局」があります。

 

 

このルートの山間部を通る街道は藩政期には「伊予往還・松山街道」と呼ばれるようになり、単に旅人が通るというだけでなく、池川の人たちにとっては生活物資を肩に食い込ませて運びあげた「たつき」の道であり、また悪政を逃れて走った逃亡の道であり、幕末では維新の志に燃えた志士たちが踏みしめた脱藩の道でもありました。

 

 

徐々に険しい山肌を行くようになり、土居川の渓谷は岩を切り割ったような深い谷間を流れるようになります。

思った以上に迫力のある光景です。

 

 

用居からの道中はなかなかのもので、清流の土居川の両岸には集落が散らばっていて、文字通りの山紫水明の桃源郷です。

 

 

この494号線の魅力は何と行ってもこの雰囲気がとても良いところなんです。

「こんな山奥なのに旅館があったのか!」と、昔の街道を思わせるような旅館跡のような建物も存在しています。

 

 

藩政時代よりも古い国府時代は都への道は池川町から伊予の東川・久万(現久万高原町)を経て松山に走り、そこから船便を使ったといいます。

この道を都への公武使節や公文書も通ったことで「久万官道」と言いました。

 

 

やがて、最奥の集落である“瓜生野(うりゅうの)”という地区を通り、県境が近づいてきます。


今回のルート