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柴犬カン、福の飼い主のブログ

柴犬カンと福の犬生、筆者の出来事、想い、政治、経済、文学、旅行、メンタルヘルス、映画、歴史、スポーツ、等について写真を載せながら日記を綴っていきます。柴犬カンは2018年12月に永眠しました。柴犬福が2020年4月7日夕方にわが家にやってきました。

 あっという間の36年。1988年の夏以降に起きた出来事。1989年にベルリンの壁崩壊。これには驚いた。11月のこと。社会主義の敗北がはっきりした。にもかかわらず、1990年代は日本が最も左傾化した時代だったと言って良いと思う。人権を唱えれば何でも、悪事ですらまかり通る。マスコミの力は最強となり、ベルリンの壁崩壊の影響か、55年体制が崩壊し細川連立内閣ができ、その後も村山内閣、橋本内閣、小渕内閣と穏健リベラル政権が続き、野中広務氏が実質的な権力者となる。中国、北朝鮮とも友好関係が続き、一方でアメリカ、クリントン政権がジャパンパッシングを続けた。

 

 もう一つは、1988年、昭和天皇のご体調が悪くおなりになったこと。私が唯一皇居に行ったのは、厚生省の内定式も終わっていくらかたったあと、記帳に行ったとき。

 

 そして翌年崩御された。その日の深夜だったと思うが、加藤剛さん主演のNHKドラマの再放送をやっていた。終戦にまつわるあれこれのドラマ。終戦時の首相、鈴木貫太郎も準主役で出ていた。

 

 私の母から鈴木貫太郎と遠い遠い姻戚関係にあると知らされた。鈴木貫太郎は海軍軍人で、日露戦争に従軍、2・26事件のとき侍従長で、襲われかなりの怪我をする。私の関係でいうとその息子さんの鈴木一さん。侍従次長などを務めた農林官僚。この奥さんが、海軍軍医、赤須文男さんの妹、赤須布美さんだった。その赤須文男さんという軍医にお嫁に行ったのが私の祖父の妹、大叔母にあたる。彼女も夫とともに医者であった。母の叔母にあたる。母は昔、赤須の叔母様といってずいぶん頼りにしているようだった。

 

 1985年だったと思うが、私が大学進学のため静岡から東京に出てきて、赤須家を訪ねるように言われた。東急池上線だったか、どこぞの駅で降りて、豪邸を訪問した記憶がある。まだ、赤須軍医もご存命で、赤須の叔母さまもお元気だった。セレブ、かつ伝統的な家というものはこんな感じなんだと知る。もちろん今は何のつながりもなくなっている。

 厚生省に内定すると、民間に引き抜かれないようにするためらしく、頻繁に呼び出された。そして夜は何回か飲み会に連れていかれた。バブル華やかな頃、六本木のカラオケバーに行ったのを思い出す。ホステスさんみたいのがついている店で、こんなところ初めてで、この時が最後だ。私はカラオケが好きでよく歌っていたが、まだカラオケボックスが普及する前。

 

 この時私の目が釘付けになったのは、同じく内定していた女性の大江朋子さん(現藤原朋子さん)。彼女が歌ったのは浅香唯の「セシル」。うますぎ。しかも魅力的だった。私の心が少しぐらっと揺れた。それぐらい素晴らしかった。話しても魅力的だったし、話もうまく当然頭も切れ切れだった。

 

 当時ワンレンボディコンが流行っていたが、彼女がOFFで着ていた服はそれっぽかった。流行にも敏感だった。たぶん、当時流行っていたカフェバー、ディスコなどにも顔を出していたことだろう。『CanCam』『ViVi』『Ray』『JJ』『non-no』も読んでいたことだろう。

 

 ここにネットから拾った現在の彼女の写真を見ると、見るからに左派リベラルの市民運動家にちょこっと見える。眼鏡もかけている。しかしよく見ると結構物のよさそうな服を着ている。若い頃得た習慣は捨てられない。一方、頭が良いので、左派市民のように見せる工夫もしているように思う。それくらいのことはやるだろう。

 

 当時の厚生省は、省庁全体の雰囲気として左派的、社会党を支持するような雰囲気があった。弱者を守る省庁として。おそらくだがこれは今も続いているだろう。子ども家庭庁がNPOとの結びつきで批判されたことがあったが、さもありなん。あの雰囲気の中で36年だからね。大江さんもそういう雰囲気に染まっている部分もあっただろうし、演じてもいるだろう。東大は全体にリベラル。文科省の前川さんを見ればわかる。1988年当時の人事課長の熊代さんが自民党から立候補したのは少し驚きだった。その後茶谷さんは逮捕された。

 

 大江さんの旦那も官僚だったが今どうしているか追えていない。子供さんもいるようでもう成人している。また彼女は私より二つ上で、おそらく東大に入るときと国家Ⅰ種受験で浪人しているのだろう。

 

 当時タクシー券などをもらって深夜帰させてもらったことを思い出す。その後の35年で、居酒屋タクシーは廃止され、本の共同執筆の著作料をプールして飲み食いすることもなくなった。まあ、頭の良い官僚たちのことだからあの手この手でお金を捻出しているのだろう。親友に聞けばわかるが今は聞かない。

 

 最後に私が1988年夏に出会った最も頭の良い人物、もちろん東大。彼は阿部謹也や世界システム論、アナール派、フェルナン・ブローデル、イマニュエル・ウォーラーステイン…前静岡県知事、川勝さんが早稲田にいたころ研究していた…など熟知しており、歴史学科の私を驚かせた人物で、厚生省の内定を蹴り、大蔵省に入省した。その後の行方は知らないが・・・・。

 

 

 1988年夏、8月上旬。省庁訪問にいろいろ行った。文部省以外に建設省、運輸省、環境庁、通産省、農林水産省、大蔵省、厚生省。一番感じが悪かったのが環境庁。イメージとは逆。

 

 いろいろ回っているうちに知り合いもできてくる。でもほとんどは東大。それ以外の大学は聞かなかった。ちなみに省庁訪問最終盤で自宅に電話がかかってきたのは3つの省庁。文部省、公安調査庁、大蔵省。大蔵省からの電話で母が電話を受けたのだが、声が震えていたのを思い出す。ただ、大蔵省は訪問した学生全員に電話していたらしい。

 

 まあ、今財務省解体デモが盛んで、14日も全国でデモがあるらしい。お国の方はこのデモをつぶすためにインフルエンサーにお金をあげてこのデモを潰そうとしているとかなんとか・・・・。

 

 私のプランはあくまで公務員は腰掛と思っていたので行くつもりはあまりなかったのだが、現職のキャリア官僚から忌憚のない意見を聞こうということで、母の高校の同級生で東大から農水省に行った人を紹介してくれた。

 

 これは私的訪問で、農水省の構造改善局にいたMさんは、「君の希望している道の方が官僚よりいいと思うよ。」と言われてしまった。なにしろ母とMさんの母校は「白線流し」のモデルになったほど進学校で牧歌的で自由でリベラルだったから当然かもしれない。Mさんはその後あまり出世せず、たぶんどこかに天下ったと思う。

 

 結局、厚生省の人に気に入られて、2時面接、3時面接に来いとのことで、最後に筆頭課長補佐の大谷さん(後の次官)と面接をして内々定した。あとで東大でもない私を取った理由を聞いたら、親が二人とも大学教員だったから珍しくてとったとのことだった。

 

 後々、10月に形式的な最終面接があり、人事課長の熊代さんや次官らの前で面接し、2次試験も通り、内定、合格した。

 

 

 

 昨日ニュースでNHKの世論調査の結果が出ていたのでNHKのページの方で確認してみた。私はNHKに受信料を払っている。BSも含めて。

 

 それによると、「NHKは3月7日から3日間、全国の18歳以上を対象にコンピューターで無作為に発生させた固定電話と携帯電話の番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行いました。調査の対象となったのは、2898人で、42%にあたる1225人から回答を得ました。」

 

 とのこと。内閣支持率は36%、不支持は45%。先月より支持率が下がっている。これは国会の予算決定を見れば誰でも予想できる。さらに政党支持率が出ている。

 

「各党の支持率は、「自民党」が29.2%、「立憲民主党」が7.5%、「日本維新の会」が3.0%、「公明党」が2.9%、「国民民主党」が8.4%、「共産党」が1.8%、「れいわ新選組」が2.8%、「参政党」が1.0%、「日本保守党」が1.1%、「社民党」が0.2%、「特に支持している政党はない」が35.7%でした。」

 

ここで、年代別の支持率のグラフが出ていて見ると、自民党の支持率に違和感が・・・・。

 

 60代までの自民党支持率が全体の支持率よりもかなり低い。一方、70代は全体の支持率に近い、80代は圧倒的に自民党の支持率が高い。

 

 すると、この調査で回答した1225人の内訳は、70代、80代が過半数を占めているのではないかという推論が成り立つ。

 

 70歳未満の自民党の支持率は単純に相加平均して、21.6%。まあ、RDDという調査そのものが時代に合っているかは色んな考え方があろう。若者は答えないし、選挙に行く人数も少ないから、選挙結果はこの調査のように結局なるのかもしれない。

 

 40代は国民民主党が支持率1位。ほとんどの年代で国民民主は支持率が第2位になっている一方、産経の調査で立憲民主党が40代で支持率0%になっていたと話題になっていたが、NHKでも1.9%と、現役世代の支持を得ていないことがわかる。

 

 大きなトレンドに変化なし。次回の参議院選挙では都議選の結果次第で「再生の道」…指南役の藤川氏が亡くなった。残念だ。…や、兵庫の躍動の会の参戦も可能性がある。小さい政党の乱立と、古い政党の衰退が、このままいけば選挙にあらわれるだろう。

 

 私が就職活動した1988年はバブル真っ盛りであり、民間企業も比較的入りやすかったが、私は別の方向を考えていた。そこで食いっぱぐれのない公務員になって安定した収入を得て、生活の基盤を得てチャレンジしようと考えた。

 

 そこで文学部歴史学科であったにもかかわらず公務員試験の勉強を始めた。経済学は中谷さんの、民法は我妻さんの参考書を読んで、問題集を買って試験に備えた。今も公務員試験は受かりやすくなっているらしいが、当時は、「公務員試験を受ける」というと友人に馬鹿にされたものだ。何しろ短大卒で証券会社に入った女性の夏のボーナスが200万円という時期。しかもその証券会社は1997年に破産手続き開始し、今はもう跡形もない。

 

 私は県庁に入れればいいという思いだった。受験日の違う自治体を探していくつか受験。ついでに洒落、ということで国家公務員Ⅰ種試験も受けてみた。結果、東京都は落ちて警察事務に回されたが面接で玉砕。落下。他はぽつぽつ受かった。

 

 そして何より驚いたのは国家Ⅰ種の一次試験に合格したことだ。当時、文系では経済職、法律職、行政職の3つがあった。自治体の試験に似た行政職で受験。もっとも得意だったのは数的推理、一般常識。これで受かったね。

 

 当時は一次試験に受かると省庁訪問を始める。生協で買った紺のスーツを着て真夏に各省庁を回る。一番最初に行った文部省は、当時課長補佐だった映画評論家の寺脇研氏と面接した。しかし文部省は就職協定を守らせる立場から採用の面接はできないとのことだった。やがて寺脇さんは途中で文科省を離れ映画評論家として現在に至っているようである。一方、2年後に入省した私の数少ない親友が今初中局の局長になっている。私は周りが皆有名になって、偉くなって少し羨ましくもある。朝日の社長や、官僚のNO2。ただ、友人たちは私に敬意を払ってくれていて、それはとても自尊心を守ることに繋がっている。