坂本龍馬備忘録
船中八策
1.天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事 (大政奉還)
2.上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事 (議会開設)
3.有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事 (官制改革)
4.外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事 (条約改正)
5.古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事 (憲法制定)
6.海軍宜ク拡張スベキ事 (海軍の創設)
7.御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事 (陸軍の創設)
8.金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事 (通貨政策)
和暦 (西暦) 年齢(数え年を無理矢理満年齢に変えていますのでざっくりの年齢と思ってください。亡くなったのは満31歳の時です。)
天保6年(1835年) (11月15日)龍馬出生。
弘化5年/嘉永元年(1848年) 14歳 日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。
嘉永5年(1852年) 16歳 (7月)中浜万次郎、アメリカから土佐へ帰国。
嘉永6年(1853年) 17歳 (4月)剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。
(6月頃〜9月頃)臨時御用として品川藩邸警衛にあたる。
(12月)佐久間象山の私塾に入門。 (6月3日)黒船来航
(6月22日)将軍徳川家慶死去。徳川家定将軍宣下。
嘉永7年/安政元年(1854年) 18歳 (6月23日)土佐に帰郷。 (この年)画家河田小龍から西洋事情を学ぶ。 (3月3日)日米和親条約締結。
安政2年(1855年) 19歳 (12月4日)父・八平死去。
安政3年(1856年) 20歳 (9月)再び江戸小千葉道場に遊学。
安政4年(1857年) 21歳 (8月4日)盗みを働き切腹沙汰となった仲間(山本琢磨)を逃がす。
安政5年(1858年) 22歳 (9月)剣術修行を終えて帰国。 (4月23日)井伊直弼が大老に就任。
(6月19日)日米修好通商条約、調印。 (7月6日)将軍・家定死去。(9月)安政の大獄はじまる。 (10月25日)徳川家茂将軍宣下。
安政6年 (1859年) 23歳 (2月26日)土佐藩主・山内豊信隠居。以後、山内「容堂」と号す。
安政7年/万延元年(1860年) 24歳 (1月〜11月)勝海舟を含む遣米使節を派遣。(3月3日)桜田門外の変
万延2年/文久元年(1861年) 25歳 (3月)土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。(8月頃)土佐勤王党に加盟。
(10月)武市の密使として長州へ向かう。(8月)武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成。
文久2年(1862年) 26歳 (1月)萩で久坂玄瑞と面談。(3月24日)沢村惣之丞とともに脱藩。
(8月)九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。
(12月5日)幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。
(12月)勝海舟に面会して弟子となる。 (4月8日)土佐藩参政吉田東洋暗殺。(4月23日)寺田屋事件
文久3年(1863年) 27歳 (2月25日)勝の尽力により脱藩を赦免される。
(4月23日)将軍家茂が神戸海軍操練所と神戸海軍塾の設立を許可。
(5月)越前に出向し、春獄から千両を借り受ける。
(10月)海軍塾塾頭をつとめる。 (5月10日)長州藩が攘夷を決行し外国船を砲撃。
(6月)土佐藩で土佐勤王党弾圧が始まる。(7月)薩英戦争(8月18日)八月十八日の政変
(8月〜9月)天誅組の変 (9月21日)武市半平太投獄。
「日本を今一度洗濯いたし申し候」 と述べているのはこの年。
文久4年/元治元年(1864年) 28歳 (2月)帰国命令を無視して再脱藩。
(5月14日)神戸海軍操練所創設。(6月17日)尊攘過激派浪士を蝦夷地へ移住させる開拓構想を勝に説く。
(11月10日)勝が軍艦奉行を罷免。龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。 (6月5日)池田屋事件
(7月19日)禁門の変 (7月23日)幕府が長州征討を発令。(8月5日〜7日)四国連合艦隊が下関を砲撃。
(11月)長州藩が降伏恭順する(第一次長州征伐)。(12月)長州で高杉晋作が挙兵。
元治2年/慶応元年(1865年) 29歳 (3月18日)神戸海軍操練所廃止。
(5月)薩摩藩の援助により長崎で社中(亀山社中)を結成。
(閏5月21日)中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
(8月)長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
(9月)大久保一蔵の書簡を長州藩重役に届ける。(閏5月11日)武市半平太切腹。
慶応2年(1866年) 30歳 (1月22日)龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。
(1月23日)伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷(寺田屋事件)。
(2月5日)桂に求められて盟約書の裏書を行う。
(3月〜4月)負傷治療のために妻のお龍と共に鹿児島を旅行する。
(6月)第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。 (6月〜9月)第二次長州征伐。
(7月20日)将軍・家茂死去。(12月5日)徳川慶喜将軍宣下。(12月25日)孝明天皇崩御。
慶応3年(1867年) 31歳 (1月13日)土佐藩参政後藤象二郎と会談。
(4月上旬)亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称。
(4月23日)海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没
(5月)御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。
(6月9日)後藤象二郎とともに船中八策を策定。
(6月22日)薩土盟約成立。 (10月16日)戸田雅楽と「新官制擬定書」を策定。(10月14日)大政奉還
(11月上旬)「新政府綱領八策」を起草。
(11月15日)京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される(近江屋事件)。 (1月9日)睦仁親王践祚(明治天皇)。
(12月9日)王政復古の大号令
慶応4年/明治元年(1868年) (1月3日)鳥羽・伏見の戦い(4月)江戸開城 (閏4月)海援隊解散。
写真は2013年3月に京都伏見の寺田屋を訪れた時の写真です。寺田屋にも龍馬の彫像がありました。桂浜のものに比べればかなり小さいです。この寺田屋事件では生き残ったが、近江屋では殺されてしまった。拳銃を所持していたが使わなかった。近江屋は今はありません。
「世の人はわれをなにともゆはゞいへ わがなすことはわれのみぞしる」
龍馬の歌ですが、凄い自信を感じます。特に攘夷から開国に方針転換した時に、尊攘派からや幕府方からも批判があることを念頭においた歌なのでしょう。
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