桂浜、龍馬像見学(木) | 柴犬カン、福の日記

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柴犬カンと福、筆者の出来事、想い、政治、経済、文学、旅行、メンタルヘルス、映画、歴史、スポーツ、等について写真を載せながら日記を綴っていきます。柴犬カンは2018年12月に永眠しました。柴犬福が2020年4月7日夕方にわが家にやってきました。その成長記録。

 今回の旅行の最後に訪れたのが高知市の桂浜。龍馬像があるので有名だ。この近くは公園化されており、観光客が多い。ただ、ここ数年の旅行先に、常にいた外国人が、今回は見当たらなかった。沈下橋やアンパンマンミュージアム、龍馬像などは、日本人でないと興味を惹かないのかもしれない。中韓の人たちにとっては、龍馬はそもそも好きになれないかもしれない。

 

 帰りの飛行機の時間もあって、坂本龍馬記念館はパスし、浜と龍馬像だけ見学した。この地域は長宗我部氏が城を築き中心地となったこともあったが、山内一豊が高知入りした時に、高知城を建築し、そちらに中心が移った。しかし、高知市中心と桂浜は車で20分くらいだ。ちなみに高知の空港は「高知龍馬空港」と名付けられているが、橋本大二郎氏が高知県知事時代にそう改称されたという。

 

 坂本龍馬の銅像は、はるか太平洋を望んでいるように見えた。つまり龍馬は狭い日本国内ではなく、世界を展望して国のあり方を考えていたと言うことを、象徴している。31歳で亡くなるまで、驚くほどの活動量だ。

 

 以下は明治維新に活躍した人物の坂本龍馬に関する評

 

・板垣退助

「板垣の今日あるは偏に坂本先生、中岡先生の御陰様で御座います」
「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」

 

・勝海舟

 「聞く薩、長と結びたりと云。又聞く坂本龍馬、長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟の日記)
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
(土佐が大政奉還を建白したのは大勢を洞察した卓見か、ただその場の小策に出たためかと問われ)「あれは坂本がいたからのこと、土佐はいつも筒井順慶で伏見の時も、全くの日和見をしていた」
「土佐では(人物と言えば)坂本龍馬と岩崎弥太郎の二人だった」
(龍馬が西郷を大きな釣鐘に例え評したことについて)「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」
(同じく龍馬の西郷評について)「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準は自家の識慮に在り。氏が西郷を評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世の事業の如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」

 

・西郷隆盛

「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」「直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」


・伊藤博文

 「坂本龍馬は勝安房(海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった」

 

・中江兆民(東洋のルソーとも言われる。フランスに留学し社会契約論を日本に輸入。なだいなだ著「TN君の伝記」の主人公。

「予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるがゆえに、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐なまりの言語もて、『中江のニイさん、煙草を買ってきてオーセ』などと命ぜらるれば、快然として使いせしことしばしばなりき。彼の眼は細くして、その額は梅毒のため抜けあがりおりたり」

 

・陸奥宗光 (龍馬の弟子、海援隊員 のち明治政府の外相、不平等条約の廃止に尽力。明治になって投獄されたりしたが、伊藤博文の助言でイギリスに2年留学)

「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」

 

 

 

 

 

 

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