今日も1日雨が降ったり止んだりの、カタツムリが好みそうな1日だった。午前中庭仕事、午後は少し前の職場の人と会った。
さて、今日、つい『国家の品格』という本を買ってしまった。まだ読んだわけではないのだが、国家に品格などあろうか?と思っている私は少し疑念があるのだが、これだけ売れているのだから、何かしらの読むべきものがあろうかと思い、買ってしまった。おそらく、『国家の品格』の著者にはあるべき国のかたちがあり、それをは論理的整合性を持って説明可能なものであると考えているのだと思う。そこには「論理の論理」と言うべきベクトルが働いている。つまり、思想的というか、イデオロギー的というか、この本の場合には儒教的(そんな匂いがぷんぷんするのだが・・・私には)論理力が働いている。もちろんそれが世の中を動かすこともままある。特に、この本が示したように、今の時代の状況や社会の雰囲気とパラレルなときに相乗効果がある。
私が言いたいのは、「力の論理」というのがあるということだ。北朝鮮は今、テポドンを発射実験をしようとたくらんでいるという。もしかしたらそれはアメリカや日本側のプロパガンダに過ぎないのかもしれないのだが、そこには理屈よりも実効力の方が上回ることがあるということを示さんばかりだ。アメリカという国は、民主主義やら人権やらで論理の論理を振りかざして敵対国を、または競争国を追い落としてきたが、最終的には力の論理がその背景にあり、そのダブルの効果がこの国を世界一の強国にのし上げているのである。
学校という社会にも「安定」は、つまりいじめや暴力や無秩序を減少させたいとすれば、論理の論理は当然必要だが、それ以上に力の論理が必要なのである。残念ながら人は論理だけでは反応しない。力とは、組織体が醸し出す、人々に対する力の効果のことなのである。
行き過ぎれば、というか、安定とはどのような場合にも「強迫的」にならざろう得ない。バランスももちろん必要だが、道化はいつの時代にも出現するものである。
長い目で見れば人権主義の行き過ぎと、個性尊重の流れが無関係にもリンクして、弱体化しているのかもしれない。
時には論理の力から大きく乖離する。それは国際社会の中でも同じで、村落共同体が崩壊してきた日本社会でも同様だろう。
写真は百合。今年はアジサイが咲きませんでした。去年妻がざっくり剪定してしまったせいでしょう。その代わり百合がとても綺麗に咲いています。雨の中輝いています。