ピノキオの鼻 | 柴犬カン、福の日記

柴犬カン、福の日記

柴犬カンと福、筆者の出来事、想い、政治、経済、文学、旅行、メンタルヘルス、映画、歴史、スポーツ、等について写真を載せながら日記を綴っていきます。柴犬カンは2018年12月に永眠しました。柴犬福が2020年4月7日夕方にわが家にやってきました。その成長記録。

 例の山口県の爆弾を作った高校生が、警察の事情聴取に対して、事件を起こした理由として、「プライドが傷つけられた」ため、と供述しているらしい。
 人間確かにプライドがあるし、なければ生きていけないかもしれない。しかしそれが、肥大するエゴイズム・・・個性・・・と曲解されてしまうと、かえって自縛してしまうのだ。
 成長するにしたがって、ある程度自我を客観視し(100%は無理)、もっと言えば、プライドや自尊心が破壊されていくのに耐えつつ、自らというものを設定していくのが成長というものだろう。
 私はそれに失敗したかもしれない。内面のエゴイズムの呪縛からなかなか逃れられない。諸法無我という仏教の四法印のひとつを悟るには遙か彼方の道のりが控えている。どちらかといえば、虎になってしまう中島敦の『山月記』のほうだ。
 イタリアの童話、ピノキオは、そんな人間のエゴイズムを「鼻」で表現していると思う。木で作られた人形のピノキオはだまされたり、いたずらをしたり、そして嘘をつくと鼻が伸びていく。その鼻は切っても切っても伸びていく。いろんな出来事を経験して、最後に人間になることができる。これはまさに子どもが大人になることを象徴している。

 近代的な自我を持つ人間を象徴している小説は、芥川龍之介の『鼻』だ。今昔物語からアイデアを取ったらしい。もっと古くは中国の故事かな。
 芥川はそれを近代人の内面の葛藤として描いている。鼻が伸びてしまうのをあきらめた僧の最後をこう描いている。一種の諦観。エゴイズムとの妥協かな。

「内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜ゆうべの短い鼻ではない。上唇の上から顋あごの下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。」

 彼がこれらの作品に触れていれば、少しは違ったことになっていたんではないかと思うのだが・・・。

画像はユリ。
ユリ・・・黄色