バッハ「マタイ受難曲」

 

名曲300選は時代の沿って進めていきますので、当分バッハから離れられそうもありません。バッハの曲ばかり、同じ曲を何回聴いても飽きることがないことに驚いています。

 

いよいよクラシック音楽の最高峰といわれる「マタイ受難曲」です。

 

バッハの音楽はその死後、長い間芸術的には忘れられた存在で、せいぜい教育用で使われる程度でした。バッハの音楽が復活したのはマタイが初演された100年後、メンデルスゾーンにがマタイの復活演奏を行ったことによります。

 

しかし、その3時間以上かかる長大さと、福音書に従ってレチタティーヴォ(抑揚を付けた語り)で場面をつないでいく形もあって、そうそう馴染める曲ではありません。よっぽどのマタイ好きでもない限り、一生の内、全曲を聴くことはそう何回もあることでは無いでしょう。

 

私もリヒターのCDで全曲を通して聴いたことは一度きりです。その時はこの名曲を何とか聴き通した、という感じで中身については余り記憶に残っていません。

 

このブログを書くにあたって改めて聴いてみました。せっかくなのでリヒターと並んで世評の高い、クレンペラーのものを聴いてみました。

 

この録音については、面白い話があります。

 

クレンペラーはちょっと変わった人のようで逸話には事欠きません。ある歌手と不倫をしているのがバレて、演奏中にそのご主人に殴られたものの、翌日には包帯を巻いて平然と練習にきたとか、タバコを吸いながら眠ってしまい全身大火傷とか、何度も大怪我を負っています。そのため体の動きが鈍くなり、それに従ってて演奏テンポはどんどん遅くなってきました。しかし、それが音楽に重みをもたら結果になりクレンペラーの再評価につながったのは災い転じて福となるの見本のようです。

 

この「マタイ」は、デッカの敏腕プロヂューサー、ジョン・カルーショーの元、フィッシャーディースカウ、シュヴァルツコップらの錚々たる有名歌手を揃えてセンションが始まりました。

 

始まってみるとクレンペラーの稀に見る遅さに、歌手達は閉口してしまい、とうとうフィッシャーディースカウが皆を代表してクレンペラーに申し出ることになったそうです。「クレンペラー博士、昨晩バッハが夢に出てきて、『マタイを録音してくれてありがとう。しかしあのテンポはどうしたんだ』と伝えてきました。」。クレンペラーは慌てることなく、「わしの夢にもバッハが出てきてお礼を言われたよ、その時、『しかしあのバリトンは誰だね』と言ってたよ」と返したそうです。

 

もちろん、クレンペラーはテンポを上げるようなことはしませんでした。

 

聴いてみます。

 

マタイは大きく2部に分かれていて、第1部はイエスが自らの受難を予言するところから捕縛されるまでを語ります。

 

導入の合唱が始まります。四声部合唱(ソプラノ、アルト、テノール、バス)2組に少年合唱団が加わる壮大な音楽です。マタイは全曲聴くのは大変なので、マタイが聴きたくなると、この導入部だけ聴いて満足しています。

 

しかし、どうも記憶の中のリヒターの演奏での印象と大分違います。

 

確認のため、導入部だけリヒターを聴き直してみました。テンポが違う(クレンペラーの方が遅い)のはそうですが、クレンペラーの方は低音を十分響かせ、導入部全曲を通して通奏低音のように鳴らされるコントラバスの引きずるようなリズムをまるで、イエスが十字架を引きずる音のように鳴らします。それに対してリヒターの方は通奏低音として弾かせています。

 

そして導入部の終わり、リヒターはこれでもかというほど延ばします、あたかも祈りの言葉のように。クレンペラーの方はあっさりと終わり、イエスの物語に移ります。リヒターはマタイをイエスの視点で演奏している印象です。反対にクレンペラーは罪深き人々の視点での演奏といえます。その結果、リヒターの方は壮大な壁画を仰ぎ見るような演奏になり、クレンペラーの方は劇的で生々しい演奏になってくるのだと思います。

 

こうやって比較して聴いていると、いくら時間があっても足りないので、比較はこの辺にしておきます。ここまででクレンペラーの演奏にすごく興味が湧いてきました。

 

導入部が終わりしばらくすると最後の晩餐のシーンになり、ここでイエスはユダの裏切りを予言します。その後イエスが自らの死と復活を予言するシーンに移り、その時流される合唱によるコラールの素晴らしさ、このようなコラールはマタイ全曲を通して場面場面で登場しますが、いずれも素晴らしい音楽です。

 

曲はイエスの捕縛、裁判、磔とどんどんと進んでいきます。こんなに分かりやす曲だったっけという思いですが、これは対訳付きの動画のおかげです。オペラ対訳プロジェクトさんの動画にはいつもお世話になっています。リヒターはCDに付けられた対訳の小さな文字を追いながら聴いていました。

 

イエスの捕縛のシーンのドキッとさせられます。

この後に続くヴェルディを思わせるような劇的な音楽は聴きものです。

 

第2部は裁判、判決、十字架の磔、イエスの死と埋葬までが語られます。

 

ペテロの三度の否認の後、ヴァイオリンのオブリガートを伴ったアリアがありますが、このアリアの美しさはマタイの中でも白眉です。

 

裁判で民衆がイエスの死刑を求める場面で演奏される音楽は、まるでモーツァルトのレクイエムの中の「怒りの日」を先取りしたような恐ろしい音楽を聴かせます。

 

イエスの処刑の場面は意外にも静かな調子の音楽で、十字架上のイエスが、「神よ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか」と言って死を迎えます。ここで合唱が冒頭の美しいコラールの旋律で悲しげに歌います。

 

そこから一気にイエスの復活の場面になってしまうのは、ちょっと話が飛び過ぎのように思えます。

 

そして突然アダムが出てきたり、ノアが出てくきたりと何が何だかよく分からなくなってきます。その上、復活を果たしたはずのイエスの遺体を引き取る話が出てくるに至ってはもう話の前後がよく見えなくなってしまいます。この辺りの事情はキリスト教徒であれば当たり前のように理解できのかも知れません。

 

そもそも私には神とイエスの関係さえ分かっていないので。

 

この後、心の平安を願うような穏やかな音楽が続きますが、抑揚が全く無いので正直ちょっと飽きてしまいます。非キリスト教徒の限界かも知れません。

 

そして最後のヨセフが引き取ったイエスの遺体を埋葬する場面に移ります。こうなるとかなり前に復活したというのは、単なる私の聴き違いだったのでしょう。それからイエスの復活にまつわる話に入ると途端に盛り上がりを見せ、復活の場面への期待が膨らみます。

 

残念ながら復活について語られることなく、イエスの贖罪への感謝で福音書による話は終わります。そして最初の導入部と対をなすような合唱によって静かな感動を持って曲は閉じられます。

 

全曲を聴き通してマタイの素晴らしさを改めて知ることができましたが、どこか「これはキリスト教徒でないと本当の感動は得られないんじゃ無いだろうか」という思いを拭うことは出来ませんでした。

 

この長大な音楽動画を貼り付けるような無謀なことはしませんが、これはと思われる演奏で是非聴いてみて下さい。

最後まで、お付き合いありがとうございました。