姉についての想い出(1) | うさぎの音楽談議

うさぎの音楽談議

ソロとバンドでかれこれ36年ライブ活動やってます!
絶叫する営業兼二種電気工事士です(笑)

私は1966年に、横浜の京浜工業地帯の端っこの鶴見から菊名に続く産業道路に面した写真屋の長男として生まれました。私の生まれる5年前に生まれた姉は、祖父母にとっての初孫であった事から親戚縁者、家族からの寵愛を一身に受けて育ちました。私が生まれるまでは。

 
姉は利発で気が強く、まだ幼い弟を全くと言っていいほど相手にせず腕力と理屈で圧倒しました。私はそんな時は「うわ~ん」と泣けば母が助けに来てくれる事を覚えて、ずる賢い泣き虫になりました。

 

私が小学校に入ると、同じ学校の六年にいる姉の影響か、何度か上級生にいじめられた事がありました。私の泣き虫は、なかなか治りませんでした。

その後は、姉が中学に入り演劇部に熱中していたり思春期=反抗期を迎えて家族と行動をともにしなくなった事もあって姉弟の接点は少なくなりました。姉が高校に進んで憧れだった合唱部に入部すると、もはや「ステージのひと」と「観客」くらい、二人の距離は遠くなりました。姉の高校生活の三年間は、家族で合唱を神奈川県立音楽堂へ聴きに行く事の多い時期でした。

 

高校を卒業しましたが、念願だった東京芸大へは進めずアルバイトをしながら自宅浪人を続けていた姉は、当時を「一番トゲのある時期だった」と語っていました。しかし東京芸大への道は思ったよりも険しく、かと言って私学への進学も、充分なレッスン料も用意出来ない中流以下の家庭では、姉を声楽の道へ進める事は出来ませんでした。彼女はきっぱりと進学を諦めて、横浜市内にある某電機メーカーに就職しました。

 

朝は5時起きで出掛けて、私が帰宅する頃には寝ているような入れ違いの生活でしたが、週末に私の友人らが家に遊びに来ているところへ一緒に話に入ってくるような事も多々あって、友人達からの人気を集めました(?)。

 

いよいよ私の大学進学の時期が訪れた頃、姉は務めていた会社を辞め、その退職金で私の入学金を払ってくれました。その後の授業料は一切、自分で稼ぐ事を条件に。でも会社を辞めてからの2年は、お互いを個人として認めつつ姉弟で色んな話が出来るようになった貴重な時間でもありました。2年後、姉は結婚して家を出て義兄の両親との同居を始めました。