2003年12月27日 | うさぎの音楽談議

うさぎの音楽談議

ソロとバンドでかれこれ36年ライブ活動やってます!
絶叫する営業兼二種電気工事士です(笑)


JR松田駅前の食堂です 今日は亡父の命日です。早いもので、3年になりました。

 

ちょうど一年の仕事が終わって、会社の同僚らと近くの居酒屋にいまして。まったりと会が始まって1時間もしないうちに携帯が鳴りました。画面を見ると、父の仕事を手伝って頂いていたMさんから。普段はほとんどかかってこない相手からの突然の知らせで、一瞬ハッと気付きました。出ると、父が自宅で急に容態が悪くなって救急車で運ばれたと。その後何度か連絡が入るうちに運ばれた病院が分かって、すぐ来て欲しいとの事でした。

その場に居合わせた同僚に事情を話して、店を出てひとりJR御茶ノ水駅に向かう途中でまた携帯に、病院に先に着いたMさんから。その場にお医者さんがいるので直接話すと「危険な状態なので人工呼吸器を付けるが、家族の承認がもらいたい」と。その時点では、意味を充分理解しなかった私は「回復する可能性があるなら」と了承しました。病院まではどんなに急いでも1時間半はかかる道程、少なくても辿り着くまでは生きていて欲しかった、と言うのが正直なところ。歩きながら、自宅にいるカミさんと幕張に住む姉に連絡した辺りで携帯の電池切れ。キヨスクで急速充電器を買って、新宿で小田急に乗換え中央林間まで。駅からTAXIで病院に着いたのは22時過ぎだったでしょうか。父は病室で人工呼吸器を付けて眠っていましたが、ずっとMさんご夫婦が付き添ってくれていました。父は独り暮らしだったのですが、当日たまたまいつもお願いしているあんまマッサージ師さんを呼んでいて、マッサージが終わったところで息が苦しくなったらしい。で、マッサージ師さんが近所に住むMさんに連絡して救急車を呼んでくれたのだと。すぐに病院の院長からお話が。病状は心筋梗塞を起こした結果、肺に血がたまって息が出来ない状態、つまり肺水腫でした。とにかく肺にたまった血を絞るように出さないといけない、でも心臓がもたない可能性もあるとの事でした。

 

24時頃になって、カミさんも病院に到着。Mさんご夫婦と4人で眠ったままの父を少し離れたところで見届けてました。少ししてから、病室へ入り手をさすったりしましたが反応なし。目は少しだけ開いているような、朦朧としているような感じもしました。2時近くになって、病室にいた看護師さんから「人工呼吸器が外れて心停止した」との連絡が。すぐに院長が向かって蘇生術を施しましたが、結局戻らず死亡が確認されました。人工呼吸器が勝手に外れる事は通常考えられず、恐らく目を覚ました父が自分で引き抜いたのだろうと。生前延命治療を嫌っていた父の事だから、充分有り得るだろう、と。

 

病院の窓から外を見ると、ちょうど時を同じくして曇った空から大粒の雪が舞っていました。ああ、親父のやつ雪まで降らせやがった。その後、病院の霊安室に一度運ばれて葬儀屋さんへ移動する頃には町が一面真っ白になるほどで。葬儀屋に着くと、すぐにお通夜、告別式のための場所と祭壇の手配、準備。手続きが終わったのが朝の5時半くらいでした。外へ出ると、あれだけ降っていた雪は止んで、夜明け前の空は晴れ間が見えてました。実は雪が降っていたのは一瞬だけで、翌朝始発で飛んできてくれたカミさんのお父さんの話では「船橋は雪なんか降っていなかった」らしい。そんなに「雪」が見たかったのか、それとも「雪」が降ったら思い出すように私達に刷り込ませたかったのか…。

 

喪主を務めた私は、とにかくやるべき事に追われ続けでしたが、お通夜、告別式ともに年末の忙しい中たくさんの人に来て頂いたのが本当に有り難かったです。そんな3年前の思い出を、忘れないうちに記しておきます。