今、大江健三郎の同時代ゲームを読み終わったところだ。発刊後すぐに読んだので、三十数年ぶりに再読したことになる。
まず、感じたことは、直接の影響を受けないように注意しようということだ。私は、盗作者を激しく軽蔑し憎みさえする。直接の被害さえ受けた。従って、盗作者と受け取られかねない語句や文章を書かないように細心の注意を払ってきた。大江のこの作品も同様の注意の対象だ。もっとも、全集あるいは著作集を全て読んだ日本人作家十名ほどの中に、大江は入っているので、彼の影響はぬぐえないし、私に肉化している部分さえある。たとえば、連載中のネヴァーランドにおいて、集団が川を遡り上流に定住するという構想はこの作品からヒントを得ているだろう。しかし、そこ以外は、自分ではないと思っている。そもそも、小説の形式と、その内容と、双方とも、その神話化に、私は真っ向から対立する立場をとっている。大江は後に構造論的な知のもろもろがこの小説に流入したという意味のことを書いている。私は、構造論、構造主義にも対立する。学生時代、あからさまな構造主義的教育を受け、大いに反発したという思い出もある。森毅が、典型的な構造主義的教科書であるブルバキ叢書について、詳しく自らの体験したところを書いている。森はブルバキの和訳者の一人でもあるが、耽溺することなく、ブルバキは整理整頓はしたものの、新たなものは何も生み出さなかった、とクールに総括していた。事は数学に限らず、例えば、悲しき熱帯の悪名(?)高い親族関係の構造分析なども、私は整理整頓のための体裁のように思ったものだ。
さて、大江は、この作品自体を異化しようとたくらみ、M/Tと森のフシギの物語を書いたという。私は、M/Tを読んだ時、これは、同時代ゲームを子供向けに書き直したのかと思った。同時代ゲームは、七編の中篇を、一編を落として、長編に組み上げた作品である。確かに整合性とつじつま合わせに苦労した結果らしい文章も散見されるが、その過程で、大江は、みずからの作品を批評し、自己批判し、異化でもって応じた。同時代ゲームという作品自体が、分散した中篇内部での異化の後、長編への組み上げにおける第二の異化を経て成立したのだ。したがって、M/Tは必要がなかった。同時代ゲームそのものが異化につぐ異化の産物であるのだから。
神話あるいは構造と、それにいかにも見合うキャラクター設定を批判することはできるが、充分な異化の複合連鎖の結果出現した大迫力を持つこの傑作は、その種の批判をなぎ倒してしまう。
慣性力をすべて重力場のせいにする立場は、ステイブル、アンステイブルなどにこだわるな、というそれである。
ところが、ステイブルな重力場を生み出すのは、巨大な質量である。それに限る。堂々たるそれと、瞬間瞬間変化する仮想質量を同等とみなす世界観に、アナーキズムどころか、退廃のにおいをかぐ。
山中湖の湖畔には、大学の寮があった。夏休みには、合宿に行ったものだ。
山中湖一周マラソン大会というのがあって、仲間は皆参加したが、ワチキだけさぼった。
モーターボートを友人と二人で借りて、危うく岩に激突しかけた。
東京に帰る際も、一人でヒッチハイク。すると、タクシーがとまってしまった。運ちゃん、貧乏学生と思ったのか、降りる時に500円くれた。さらに、リンカーンコンチネンタルが止まり、富士山ろくに広大な演習場をもつ、某大学の学長が後部座席に坐っていた。俺の所に来いと言われ、Uターン。大学の先輩であることが分かった。富士山ろく一周ドライヴ。夜は、富士吉田の学長行きつけのキャバレーで鯨飲。大学の学長室で、彼がキリマンジャロに登ったときのことを書いた長詩の朗読を聞かされ、隣にある客室に泊まり、翌朝は、実習に来ている大学生たちを前に、学長が朝礼の演説をし、ワチキをみんなに紹介した。
まだまだある。山中湖、湖畔での思い出は、尽きない。>
まず、感じたことは、直接の影響を受けないように注意しようということだ。私は、盗作者を激しく軽蔑し憎みさえする。直接の被害さえ受けた。従って、盗作者と受け取られかねない語句や文章を書かないように細心の注意を払ってきた。大江のこの作品も同様の注意の対象だ。もっとも、全集あるいは著作集を全て読んだ日本人作家十名ほどの中に、大江は入っているので、彼の影響はぬぐえないし、私に肉化している部分さえある。たとえば、連載中のネヴァーランドにおいて、集団が川を遡り上流に定住するという構想はこの作品からヒントを得ているだろう。しかし、そこ以外は、自分ではないと思っている。そもそも、小説の形式と、その内容と、双方とも、その神話化に、私は真っ向から対立する立場をとっている。大江は後に構造論的な知のもろもろがこの小説に流入したという意味のことを書いている。私は、構造論、構造主義にも対立する。学生時代、あからさまな構造主義的教育を受け、大いに反発したという思い出もある。森毅が、典型的な構造主義的教科書であるブルバキ叢書について、詳しく自らの体験したところを書いている。森はブルバキの和訳者の一人でもあるが、耽溺することなく、ブルバキは整理整頓はしたものの、新たなものは何も生み出さなかった、とクールに総括していた。事は数学に限らず、例えば、悲しき熱帯の悪名(?)高い親族関係の構造分析なども、私は整理整頓のための体裁のように思ったものだ。
さて、大江は、この作品自体を異化しようとたくらみ、M/Tと森のフシギの物語を書いたという。私は、M/Tを読んだ時、これは、同時代ゲームを子供向けに書き直したのかと思った。同時代ゲームは、七編の中篇を、一編を落として、長編に組み上げた作品である。確かに整合性とつじつま合わせに苦労した結果らしい文章も散見されるが、その過程で、大江は、みずからの作品を批評し、自己批判し、異化でもって応じた。同時代ゲームという作品自体が、分散した中篇内部での異化の後、長編への組み上げにおける第二の異化を経て成立したのだ。したがって、M/Tは必要がなかった。同時代ゲームそのものが異化につぐ異化の産物であるのだから。
神話あるいは構造と、それにいかにも見合うキャラクター設定を批判することはできるが、充分な異化の複合連鎖の結果出現した大迫力を持つこの傑作は、その種の批判をなぎ倒してしまう。
慣性力をすべて重力場のせいにする立場は、ステイブル、アンステイブルなどにこだわるな、というそれである。
ところが、ステイブルな重力場を生み出すのは、巨大な質量である。それに限る。堂々たるそれと、瞬間瞬間変化する仮想質量を同等とみなす世界観に、アナーキズムどころか、退廃のにおいをかぐ。
山中湖の湖畔には、大学の寮があった。夏休みには、合宿に行ったものだ。
山中湖一周マラソン大会というのがあって、仲間は皆参加したが、ワチキだけさぼった。
モーターボートを友人と二人で借りて、危うく岩に激突しかけた。
東京に帰る際も、一人でヒッチハイク。すると、タクシーがとまってしまった。運ちゃん、貧乏学生と思ったのか、降りる時に500円くれた。さらに、リンカーンコンチネンタルが止まり、富士山ろくに広大な演習場をもつ、某大学の学長が後部座席に坐っていた。俺の所に来いと言われ、Uターン。大学の先輩であることが分かった。富士山ろく一周ドライヴ。夜は、富士吉田の学長行きつけのキャバレーで鯨飲。大学の学長室で、彼がキリマンジャロに登ったときのことを書いた長詩の朗読を聞かされ、隣にある客室に泊まり、翌朝は、実習に来ている大学生たちを前に、学長が朝礼の演説をし、ワチキをみんなに紹介した。
まだまだある。山中湖、湖畔での思い出は、尽きない。>