8/21/2006

 

ハミルトンが講演をしてポアンカレ予想の肯定的解決を説明するのであって、ペレルマン自身がそうしないのは、技術的な解決であるのを恥じてのことらしい。四色問題の解決が機械でえられたのを恥じなかった例もあるのだから、あえて恥じるのは高級である。バイハンドの四色問題解決を目ざしていた私の心情に近い。

 

8/25/2006

 

天上天下唯我独尊を、形式としての我は天下にただ一人しかいない、私とは分断された個体のことではなく、同一の形式で世界と我を見ているただひとつの我だ、と解釈できないこともない。

 

スタンダールが民法を読みながら書いたのなら、こっちはファーブル昆虫記を読みながら書いてやろう。奥平の話が今日出たので。

数学をどう取り入れたものか。それを意識しなくても入るはずだが、意識的に、方法的に、どう組み入れるか。組み入れる、ではなく、数学そのままを表現できるかもしれない。遡行的、発見的な現場の有様と、完成して演繹的な証明の型と、両方なぞって文章を作ってみたらどうか。実はすでにやってきたが、もっと極端に、徹底的に。

 

9/23/2006

 

仏教は、死者の観点から世界を見ている。しかし、誰も真に死者ではないので、死者が見ているかのように生者が見ている。具体的には、死体を前にした、残されたものの感慨である。

死がなければ仏教はありえない。そこが科学と違うところだ。科学者は、個人的にはペシミストである可能性が高いが、科学は永遠だと直感している。

死がなければ、無もなく、空もない。存在を肯定する、当然とみなす哲学しか生まれない。輪廻転生という苦肉の策によって、仏教はニヒリズムを脱却しようとした。しかし、繰り返す今というニヒリズムが待っているのを察知したのか、不徹底な及び腰で終わった。

 

9/26/2006

 

河は呼んでる l‘eau vive 1958年のカンヌ映画祭コンペ部門 ピエール=ルイ・テヴネが美術監督、日本では中原美紗緒が主題曲を歌った。

 

10/5/2006

 

男は、女が長命であるかどうかを、その女とセックスすることによって、予想できる。

 

10/11/2006

 

紀田順一郎、世界の書物、魔の山の章の一節、紀田いわく:

永遠の感覚に支配されすぎると、人は存在感覚を歪められる。

ハンス・カストルプ自身の発言:

しかし永遠なるものと無限なるものを定立することは、局限された存在、終わりある存在をことごとく論理的、数学的に破棄してしまい、相対的に零に還元することを意味しないだろうか。永遠の中での事の継起、無限の中での物の配列がありうるだろうか。永遠なるものと無限なるものを已むなく仮定しても、距離、運動、変化などという概念、それのみか、宇宙の中の局限された物体の存在すらも、この仮定とどういうふうに調和できるであろうか(いや、調和はできない)。

私の長年に渡る快楽主義の弁解が、全体としてみれば、なにも意味がない、だ。意味は、時間的にも空間的にも局所で発生するだけだ。大局的には、どう生きても等価である。零で等価だ。死んでしまえば皆同じ。

ハンスは恐れてはいてもはっきり言っていないが、紀田いわく:

答えは否である(調和できる)。しかし、人はえてしてそのような倒錯的感情(調和できないという感情)に陥り、思想を退嬰化させていく。

この倒錯と退嬰のさまは?

現実感覚の縮退がある。ややはなれてモニターを見ている感じがする。痛みを感じない。これは、他人に苦痛を与える結果となる。それすらも痛みとしないサディズムが生まれる。一時の舞台で演技しているようだ。人生の要の時におどけてしまう。具体的なものに対する無関心。時間の順序の混乱から歴史意識の消失にいたる。しかし、恐怖すべきは、終に、想定していた無意味が体験的に納得させられ始めることだ。無意味がほとんど実体として近づいてくることだ。過去の無意味が、今を襲い、未来の無意味が、今を襲うのだ。

私は反省をしているか? 今方針転換をしても、できることはほとんどない。しかし、首尾一貫が可能とは思えないのだ。

 

ニーチェが善悪の彼岸の中で言っている:

主観的なものの独善的自慰性に死ぬほどの嫌悪感をおぼえ、感謝の念を持って客観精神を迎えるが、客観精神に対しても用心しろ。精神の非自我化、非個人化、無関心的な認識。ペシミストがこれらを祭り上げる。冷静な理想的学者も鏡であり道具であるにすぎない。

私が十代のころ嫌悪した幾人もの詩人達と小林秀雄が私を理科に進ませた。しかし鏡と道具になりかけた学者の卵たちの狭隘と無自我にあきれた。我、が幻想であるという観念にとりつかれ、精神の非自我(無自我とは異なる!)化、非個人化、集団的主体を夢見た。集団的主体の理想的な実例を全共闘に観たと思っていた。

しかし私はペシミストであったに過ぎなかったか?

倒錯的感情に陥った、退嬰した思想を持つ、ペシミスト。自分ひとりではなかなか見出せない自己像だ。

 

10/18/2006

 

閉所恐怖症だ。汗まみれの状態で、寝袋のジッパーが壊れ、脱出できなくてパニックに陥ったことがあった。それ以来だ。

酔った時に、酔いから逃れられなくて悶えることがある。酔いの絶対的拘束から逃れられない。

睡眠も同じ。

死は熟睡状態とかわらない。ただ目覚めないだけだ。よく眠ったな、と納得できるのは眠りから覚めた人だけだ。死ななかった人だ。目覚める自信のないまま睡魔に拉致される時の恐怖。

風邪をひいたとき、喘息のような症状に陥ったとき、息が詰まる、いくら息をしても不足、不十分。跳ねとびたくなる恐慌。

最も恐ろしいのは、存在の拘束性だ。存在がジッパーの壊れた寝袋となる。発狂する恐れがあるのでこれはあまり考えないことにしている。

 

主体としての、私、ではなく、対象としての、私。

 

他者の対象としての私。私の対象としての私。

 

私が対象を見つけて、それを客体として突っぱね、観察したのが近代か、私を対象として自己言及の無ゲン地獄に陥ったのが近代か。

 

過去の私を不断に思い返すことによって私は現時点でもかろうじて私でいられる。夢中で過ごした子供時代、などと幾年もたって、自己の充実化に努めることもある。過去の自己ではなく今の自己を。

 

何度もビックバンを繰り返してきた、この愚昧はどこにあるか。

ある閾を超えると、知性が試みる自己破壊だ。

宇宙は拡散するだけで一回きりであることは、前世紀末に証明された。

それなのになぜビッグバンはあったのか。縮退があってこそのビッグバンだ。

拡散を阻止し、ビッグバンに引き戻す知性の蛮行がかってあったし、これからもある。不自然は知性の定義だ。百数十億年それがなかったが、地球人がそろそろやりかねない。

 

画鋲を踏んだときは、イタッ、で、振り返って、さっき私は痛かったと、他者あるいは自分に伝える。つまり、私が発生するのは、私を対象にした時、時間的には、思い返したときに、やっとさっと、なのだ。古代には、そうしない人たちが圧倒的多数を占めていたことだろう。リアルな場面で、私はいない。私とは、彌縫策の所産、後知恵、でしかない。

 

今日は中島義道を少々読んで、共感反感相半ばした。

私も、どうせ死んでしまうのだから、すべて意味はない、と思いながら、数十年を過ごしてきた人間だ。私は、〝私〟、は幻想であるが、ただ、今ここで立ち会っているかのような事態はナニゴトか、と思い続けてきた。

さて、中島君、なにを問題にしても、どうせ死ぬのだから、幻想なのだから、にひきおろすと、問題が消えることに、退屈をおぼえないか? いつも最後に出てくるのが金太郎飴では芸がないと思わないか?

芸なんぞの問題ではなく、この退屈が真相なのだろうが。

もうひとつ。そうは思っていない人間を悲しませ不幸にする場合、あくまで突っ張っていいものだろうか。嘘も方便だが、親しいものに対してはそうもいかない。あの人はああいう人だから、と諦めてもらうことさえ、強いるところがある。ましてや、親兄弟に、いかに俗情であれ、悲しみと不幸を強いる場合、謝ろうが居直ろうが、すまないのではないか。

 

死刑判決に対する控訴を取り下げた、少女殺害犯に興味がある。池田小事件の犯人も、早く自分を殺してくれと言っていた。この者達の絶望、自暴自棄、確信する視点、傲慢に興味がある。

 

10/21/2006

 

中島の、どうでもいいこと、に関連して。

青空を見上げたときの疑問に対する回答。

青く見えるのと、あそこに見えるのとは、別の生理的過程に属する。そしてともに脳内の反応だ。青いものがあそこに見えると認識するには、訓練を要する。脳内の反応を外界と衝突させ、試行錯誤の末、安定したシミレーションが得られるのだ。空の高みに昇らなくてもあそこが青く見えるようになる。

原理的には、外界からの刺激と伝達過程無しで、青空をあそこに見させる興奮を起こさせることはできる。しかし、訓練を欠いた脳は、なにが起きているのやら、わけがわからないはずだ。生まれつきの盲者は夢を見ないらしい。正確にいうと、青に対応する刺激が与えられても対応物を知らないのでパスしてしまうのだ。ここ、あそこはわかるはずだ。モグラのように。

音声で、おはようと発するのと、文字で、おはようと書くか打つかするのと、まったく異なった過程を言語が、あるいは脳が言語を用いて変換している。視覚神経の興奮と青との隔たりは、これに比べるとたいしたものではない。青は興奮そのものという見方だってありうる。

体験を科学語で置き換えることは出来ない。ひとつの事象を二通りに記述しているのではない。患者と医者との違いに通じる。この状況をパースペクティヴの問題に帰着させるとき、対象とその見え姿のペア全体を世界と考えるのは間違いだ。人それぞれ。多様な世界。これでは何も語っていない。我々はそれぞれのパースペクティヴをもたざるを得ないように、同型に固定されており、この同型性に関する限り、我々は私となる。私はひとつなのである。誰でも物を見るときは、視野の下のほうに自分の鼻を見ざるを得ない。この共通の宿命が私であるということだ。

客観的世界の記述には、たとえ非可逆過程のそれであろうと、反復可能のものしか現れない。反復不可能ないまがあるからクオリアがあり私があるのか。無限の時間があればパースペクティヴは意味をなさないから、私があるからいまがあるのか。私=いま、という等式の誘惑に抗し切れない。両辺のディメンションをあわせよう。左辺にあわせると、いま、とはパースペクティヴのことであり、時間が空間に帰着することとなる。右辺にあわせれば、私とは、反復不可能な、客観的に記述できない、いま一瞬となる。左辺は空間、右辺は時間。恐るべし。絶対矛盾の自己同一。言語化とは、たとえ実況中継でも、過去化のことだ。いまがあるのは過去があるからこそなので、つまりは言語があるからこそなのだ。だから私とは、言語を前提にした、一瞬の、何かだ。

 

10/22/2006

 

生物学で、集団内の個体を対象としたらどうなるか。猿、イルカ、鯨、ネズミ、象、……。実際例は少なくないが、パースペクティヴを問題にしていない。京大の霊長類の研究例にわずかにその萌芽を見ることができる。猿の花子の行動について、その気持ちはよくわかる、というパースペクティヴの共有は昔からなされていた。だからといって、私、が猿にもある、今、もある、言語、もある、というところまではいまだにいっていない。

 

10/26/2006

 

涼子、のプロローグに、以下を挿入。

どうせ先の短い私のことだ、岡田金吾に、涼子とのいきさつを伝えてしまうだろう。面と向かっての告白となるかもしれないし、思わせぶりなほのめかしに終わるかもしれない。どうであれ、なにもしないではいられない。腹ふくるる思いがするのだ。

……よくない。先が短いことだけを書く。

 

11/7/2006

 

林光が、バッハは感情など籠めなかったと書いている。ある指揮者は、モーツアルトは単純すぎるほど単純だと言い、あるピアニストは、16分音符を繰り返すだけだと言った。

いずれも正しい。その後に言いたいことを予想できる。

小児性と大衆性に、チェスや将棋のプレーヤーが稀に持つ神童の怪物性を加えるとモーツアルトができる。マット・サヴェッジがペトルチアーニやモーツアルトのようになるかというと、なれない。しかし、系譜は同じだ。

 

日常に何が起ころうと、芸術家と哲学者は、一定の「音」を出す。

小説の非人称、無視点の話者が出す音だ。

 

お前が邪道に陥ったら不幸だ。

 

高射砲陣地の進駐軍ゲートからサーチライトが射してくる。崖に取り付いている私は、カブトムシとりの最中だった。

 

涙が流れるかわりに、脳手術の後の縫合部から脳味噌がはみ出てきた。

 

この七色の虹、と銘打った映画は、木下恵介が撮ったのだっけ?

いまは封印されている。

 

小林秀雄は、「近代の超克」座談会で、アングロ的な新たな文化の足音が聞こえる、とナチに期待するような発言をしている。今は削除されている。

 

11/16/2006

 

抱えている理念やイデオロギーで人を判断してはならない。もちろん、ここでの人とは、理念やイデオロギーが移ろいやすいものであるのに反して、不変でかたくなでさえあり続けるヒトトナリのことだ。

だが、その移ろいやすいもので、あえてその人を判断するという立場もありうる。

さあ食らえと自らを差し出して誘う移ろいやすい餌を相対視しているからこそ、それを絶対視して食いつく主体の本性があらわになるのが見えるという、ペシミスティックな観察眼に自信を持つやつらがいるのだ。

 

12/13/2006

 

理念に生きるなんて、ダメな生きかただった。

定年後は、改心してポストポスト……モダン風に無節操逃亡派になれ。

えっ、そんなこと言っていられるか、やっていられるか。

もう残り少ない命だぞ。残り少ない髪の毛だぞ。

俺はなあ、もともと真面目なんだ!

 

NPOが、未来の政府になるだろう。

 

12/16/2006

 

生まれたときは白紙で人間みな平等だ? 大間違いである。白紙どころではなく平等どころではない。人は死んで白紙になるのである。死が平等だから人は平等なのだ。