12/20/2006

 

ソシュールの圧倒的な影響下、思想の世界では唯名論が天下をとって久しい。しかし彼は自然科学の世界を避けていた。自然科学者は、自らの恣意でコト分けをしているのではない。自然からの要請でそうする。自らの恣意を否定し、自然の声に耳を澄まし、一義的な言葉を作る。ソシュールは、恣意の根拠は、文化と慣習にあると言う。つまり歴史だ。科学者の言葉の蓄積も歴史を作ってきた。科学者は、その歴史に則って、その歴史を相対化して、新たに言葉を作る。言葉を作り操る歴史が二系統あることになる。これではソシュールが一般言語学を僭称していたことになる。

実はこうである。

世界の分節化はすでになされてしまっている。分節化を実行した主体はないのだ。それが世界の正体である。

人間の身体的限界、個人の有限性、そして歴史が、どの文節線をとるかを選ばせる。そのときの社会の要請、こちらからの要請のほうが自然からの要請、向こうからの要請より優勢ならば、ソシュールの見解、社会の要請を無視するなりそこから逸脱するなりして、自然からの要請を優先させるならば科学者の見解が成り立つ。

なぜ前者の見解が成り立つか、すなわち、なぜ人間的要請が優勢になるかというと、その要請に従うことによって人間社会を変え、要請を実現することができるからである。科学の法則を変えることは決してできない。それを正しく、あるいは不正に、利用できるだけだ。だから科学の世界に人間的要請が入り込む余地はない。

 

12/21/2006

 

多義的な言葉とは、さまざまな異なる根拠を持ちながら、同じ結果をもたらす表決のようなものだ。あるいは、選挙人それぞれの思い込みがありながらも、選ばれてしまう一人の候補者のようなものだ。数学の世界の、一義的な言葉と質を異にしている。多義的な言葉も、代表としての一義を表に出してはいる。しかし、ちょっと注目されただけで、それ以外がしみでてくる。それぞれの意味を担った、雲霞のような人間集団が見えてくる。日常語は多義的であり、多義的なのは日常語に限る。語を操作する個人、みなし個人は単なる通過点である。通過するのは、膨大な数の他者であり、つまり歴史であり、その正体は発語する個人なんぞには計り知れない。

 

12/26/2006

 

通過点を通過するものは、さらに言い換えれば文化的遺伝子である。テクストはミームの束の一時的な切断である。

 

天才の独創とは、突然変異のことだ。生物と同様に、進化は突然変異による。突然変異は、そのほとんどが破滅する、海から陸への必死のジャンプだ。

 

語の多義性とは、単に語数の不足を意味するだけだ。義の多さには上限がある。有限である。個々に語を振ればよい。だが、無限であったらどうしよう?

その場合、語の多義性以前の、語の指示機能が問題となってくる。指示、指差し、は、問題提起のしぐさである。そのしぐさの根拠、しぐさをもたらした圧の正体は、わかる場合もわからぬ場合もある。指示語がすでに有義であることはない。

 

発語する機械は、スティルもソシオレクトもキャラクターも乗り越えられる。言語だけは乗り越えられない。言語なしの発語はないからだ。

 

ホモトピースフェアーがスフェアーであることをいうには、シンプルホモトピータイプが同じであることをいえばよい。そのためには、コントラクティブルであることがシュリンカブルであることをいえばよい。そのためには、その逆である5クリティカリーカララブルなら5クリークにコントラクティブルであることをいえばよい。しかしそれは、ハドヴィガー予想の特別な場合であり、4カラー定理と同値であり、4カラー定理は証明されているから、ポアンカレ予想は解けたことになる。(コントラクティブルな多様体についてのジーマンの論文を探せ)

 

12/28/2006

 

ジーマンの言うシュリンカブルは、グラフ理論ではコントラクティブルのことだ。だから、シンプルホモトピック即ち(単体をひとつとって)コントラクティブルであるなら5クリティカリーカララブルであることが証明できればウォグナーの証明により5-ハドヴィーガーと4カラー定理が同値だからシュリンカブルとなり証明ができたことになる。ところでループは5クリークの辺上をめぐる限りゼロにホモトピックである。ゼロホモトピックとは5クリティカリーカララブルであるということだ! 6クリーク以上では、交差する二つのリングが生じてしまう! 

 

グラフを考えている限り、多様体の次元の限定を離れている。ジーナスNの平面へのエムベッティングと、高次元多様体のトライアングレイションのゼロイチ次元のサブコムプレックスを同一視してかまわない。

 

サルトルの実存は、ヘーゲルのフュールジッヒの言い換えに過ぎず、全体化は、アウヘーベンの連続による世界精神の展開を、先験性を取り除いておいて、言い換えたに過ぎない。

 

12/30/2006

 

ホモトピー群の元を表すどのループも、多様体のトライアンギュレイションをフォウルドしたクリティカルクリーク上の、点と線で作られる。多様体の次元が高いと切開手術により絡みがとれ、次元が低いと複数のループの絡みが存在し得ない。

 

1/12/2007

 

アパートの一室で孤独死するのが、われわれの最も確実な未来だ。それがどうしたというのか。人への迷惑のかけ方には、差があるが、かけることには差がない。申し訳ないと思おうとそれは意味がない。思われた人たちすべてがそのうちそう思うだけである。

 

1/19/2007

 

俺も言わぬがお前も言うな。福井に伝わる言葉だ。罪を犯した駕篭かきらが峠ですれ違うときに交わしたと謂う。これは、コトを問われた場合、俺も嘘をつくからお前も嘘をつけ、と展開する。嘘である言葉が通用し、しかも重要である世界がある。

 

自然科学的な知が進めば、その知の所有者は、自らを変革して行き、ついには自然そのものとなってしまうだろう。自然科学者が、自然児になってしまう。前者は知的存在であるが、後者は自然存在であってもはや知を不要とする。

 

1/21/2007

 

生命現象を目的論的に論じるのは愚の骨頂だが、あえてそうすれば、いかにもそれらしい答えは何か。生存、が一般的な答えであるが、環境が比較的安定であったのに比べて、進化が停滞しなかったことの説明にならない。環境に合わせて、はるか昔に進化は安定と停滞に陥って、進化そのものがなくなっていたはずだ。

生命の目的が知であるとしたらどうか。進化はその過程だ。では、生命は全体として何を知ろうとしいているか。己を知ろうとしているのだ。知は、己を知るために己を乗り越えていく運動をも意味する。過程が目的そのものでもあり、目的が過程そのものでもある。

 

1/23/2007

 

全共闘のイクイヴァレントとしての引きこもりとニート。

 

1/26/2007

 

切れ間より

唐紅の陽を浴びせ

東へ駆ける

蒼白の雲

 

1/28/2007

 

私、が形式であることをわかっているものたちはいる。形式の存在をいえばよい。唯一性はいわない。個体に分断されている情況に眼くらまされてはならない。唯一性はないから、全体として唯一であるとすればよい。何かが残ると思うことは未練である。分断情況は、生物としての生き延びるための戦略である。それ以上の意味を読み込もうとするのが間違いだ。私は、実は一人ではない。一人という観念をなくした存在である。私はその束であるが、すでに束ですらない。というのは、束というと、束ねている私を仮定していることになるからだ。戦略としての個別を私と思っている人たちが哀れ。形式としての私があるだけなら、この今の私はなーに? なんと愚かしいことでしょう。それがさっきからないといっているのに。ない証拠には、死んでしまえば何もないでしょう? もともとないからなんだけど。どうしてわからないかな。こんな簡単なこと。

 

どうして私があなたでなく、あなたが私でないか?

私とあなたを取り替えてみても、その取替えは決してわからない。気づくものは誰もいない。

これが公理である。

 

イコールの両辺を2倍することは、何かの実体を2倍することではなく、半分の距離に近寄ってみることである。等号が依然として成立しているのは火を見るよりも明らかである。何せ、なんら、触っていないのだから。

これもまた公理である。

 

ある朝目覚めると、自分もまた世界全体も2倍になっていた。しかし、誰もそれに気づかない。これもまた公理といいたいところだがそうではない。これは、ポアンカレが論じたことだが。私の爆発宇宙論(ビッグバンなんぞではない!)では、加速度的にわれわれは爆発過程にある。

 

2/16/2007

 

山本夏彦の書き方だと、その書き方が強い拘束となって内容を、判断の仕方を限定する。彼の文章を読んでいると、時に、寒風吹きすさぶことがある。卑屈な少年の思い込みが憐れになることがある。ツッパリが憐れを誘うとは、彼の芸の限界である。

 

山本が獅子文六タイプだって? 福田には彼の劣等感がわかっていない。文六には、劣等感を感じる知性がなかったのに。山本の破れかぶれ、退廃、が、ああいう風な偽簡潔調に、彼を追い詰めた。

 

矢野顕子は、モーツァルトを意識している。偽小児性、いや、真性小児性、許してしまう純真さ、小刻み、単調、せわしなさ、無思想、馬鹿っぽさ。しかし、決定的に異なるのは、矢野が、ジャズ派であるところ。半音偏執。かわいらしい? かわいい? かわ、かお、かを、いい、いいぇえ、……。別に、キチガイ女でもいい。

一定が、キチガイ。

矢野は一定。

従って、矢野はキチガイ。

ああ、何を言ってるんだろう。

彼女は、ヴァージニアウルフのようだ。矢野は自殺しそうだ。

 

2/17/2007

 

偉い人にはならなくていい。立派な人になりなさい。

私のパパの言葉である。

 

2/19/2007

 

デパートで、マネキンのスカートめくりをしていたのを、岡村健さんに見つかった。わたしは中一だった。中二?

 

2/26/2007

 

私は、ほとんどの人間と、いやいやながら付き合っている。相手もそうであろう。

不快の原因は何か。それは自分だ。他人を不快と思うのは、自分が不快だからだ。こんなまねはしたくない、こんなざまには陥りたくない、と思うのは、その可能性が自分にあるからだ。そんなことをかつてやったことがあって、それを今演じている他人がいて、それをつぶさに観察して嘆息を漏らしているからだ。然し、かつてやったことがないことを平気でやっている他人もいる。驚くのは、その平気さだ。こちらがあっと驚く、平気な卑しさだ。だが、このような感覚的な言辞でこれを処してはならない。こんな不快を何度も克服してきた覚えがある。克服の根拠は何であったか。不快を感じたときは、彼我他人の場合であって、克服したときは、私が変化し、同化し得た場合だった。

 

3/14/2007

 

回想を多用するのは技巧的である。

物語の中で、物語の歴史が十分溜まったのちに、回想を使うのはかまわない。われわれの実人生と同じだ。

さて、回想にどれだけわれわれは浸れるのか。回想、それを保障する記憶がアイデンティティーだとしたら、耽溺することにもなりかねない。エゴイズム100パーセントの世界だから。自らに耽溺する快楽を誰が阻止しえようか。


 

人間は、少数を除いて不快な存在である。不快でないのは垂直関係の人間に限る。

垂直関係は、いかなることがあろうとも絶対的だ。遺伝子の至上命令だ。罵りあおうが、喧嘩をしようが、生存のあり方の二分の一の同型性は決定的である。

水平関係は、一触即発、なんでも起きうる。相対的だ。もともと他人で、いつまで経ってもよくわからない他者である。

私は、さっきから、夫婦関係と、親子関係を語っている。素朴単純な生存形式のことだ。なあに、生物レベルのつまらないことではある。

 

3/17/2007

 

フローベルが正しい。作者は顔を出してはならん。所詮作り物という人間が退屈まみれに読んでいる。作者は身の程を知れ。ただ、顔を出してはならんをもっと徹底すると、書くな、となる。最も詳細なものが沈黙と同じとはこれいかに。

 

3/20/2007

 

南公園の裏の道、高岡君の家に通ずる道、カブトムシがたかる木が二三本あった道、で、女労務者たちが、父ちゃんのためならえーんやこーら、と、歌っていたのを思い出す。その後しばらくして、丸山明宏が、その歌を出した。よいとまけの歌だ。太った、色の黒い、手ぬぐいを頭に結んだ、中年の女たちが、ふてくされて歌っていたものだった。

 

3/21/2007

 

郡司のいう私は、前提なしの確実性を持っている。私と対立する外部とは、リアリティを持った世界のことらしい。大人になるとは、この他者を実感することだ、という。ここは転倒しているのではないか。大人になるとは、私を発見することだ。私の発見、あるいは発明は、人類全体に関しても、近代になってからのことだ。近代という大人期に人類が達してからのことだ。確実だったのは、外部であった、対象世界であった。子供とは、外界に融け込んで、違和感のない存在の謂いである。外界の属性で説明できる世界に、属性の名称なしで融けていた。名称を与えられてもそのままそこで生きていけるのが真の科学者である。私とは、不思議な存在で、錯覚の可能性が大である。それを、確実さの核としているのは、近代病に毒されている証拠である。世界の実在が先行して、私の不確実性がその後に来る。近代はこれを逆転した。これをまた逆転しなおすなり、対立そのものを解消するなりせずに、議論を近代の土俵の上で展開するのは不毛である。

 

3/28/2007

 

郡司いわく、実在というものは私から見た自由にならなさ加減を経由して理解される。

まちがいである。私というものは、実在が要請する自由にならなさ加減を経由して発生する。

 

2007/04/11

 

ルールとは、ルール違反を想定して作られる。なぜか。ルール違反がルールを作るものの利益に反するからだ。迷惑だからだ。自分の勝手はルール違反でなく、自分の勝手を阻止する言動はルール違反だとする。ところで権力をもたない人間がこのまねをするとき、持つ人間がそうするとき以上に、醜悪である。

言動の身勝手さを指摘しても、そんな人間は、感じることが出来ない。自分の嘘の正当性を言い張り始めるや否や、そのような人間は、自らを忘れてしまい、本気で自分が被害者だと思うのだ。泣くことさえある。下層民の得意とするところだ。

周りのナイーヴでおろかな人間は、最初はおかしいと思っていても、彼の一貫した嘆き節に負けてしまう。彼は、ふと、覚醒する時がある。自らの醜さを一時忘れる。そして自らの、言語能力にご満悦となる。うまくいったわいと思う。しかし、すぐに、被害者の立場に戻り、その立場に適応し、溺れ、ホントーに、自分は憐れな正直者だと思うのだ。

 

2007/04/13

 

数学そのものに意味があるのではなかった。言語そのものにと同様に。近代主義成立以前の時代でのことだった。しかし、対象と手段の間で主客反転があった。対象と手段、主と客、という牧歌的対立図式に対する反逆があった。手段と思われていたものが対象を作り出していたというソシュールのドグマがここで入り込む。実はこれこそが、退歩であり、間違いであった。ジョイスの晩年は、手段であった言語の、自立した整合性を求めるあまりの、自縄自縛、自己言及の罠にからめとられて終わった。言葉遊びに現を抜かす者たちの退廃は、現象から独立した数学が退廃の極致と堕した前例を持つから、必然性は数学的に硬い。だからこそ自縄自縛の非生産性は日々現実的であり脅威でもある。

だからといって昔に還れといっているのではない。還るところはない。

 

2007/04/15

 

フィクションの叙述形式は、漫才か落語のそれをとるのがよろしい。講談は神の立場が表に出すぎている。

 

演劇と合唱の合体は、原始的であるのでなく、洗練の極として捉えるべきだ。演劇する個人たちと合唱する大衆=舞台の上で披瀝される、歴史上の葛藤と総合。しかしその実現は、現代劇では難しい。風俗に阿らず、整然たる葛藤劇を実践するには、古典劇のそぶりをせねばならない。

 

2007/04/15

 

核融合コントロールが実現して、そのコントロールが破綻し、連鎖反応が起こり、地球、太陽系が白熱光体になり、空の星になる。満天の、数限りない星は、知性ある生物が自己破壊を起こした痕跡であり、知の敗退の証拠であるかもしれない。ああ、その多さよ。

 

2007/04/26

 

重力の元が、粘り気、である、という説は、言葉の言い換えに過ぎない。そもそもそれは新説ではない。重力は、比喩としては大昔から粘り気がふさわしかった。

粘り気のない原初から、粘り気が現れるまで、無から有へと移行した差異の原因は何か、その現れの必然性は何か、を説明せねばならない。

 

2007/5/6

 

文筆家の末路は憐れだ。その文筆が憐れだからだ。三島由紀夫の、非常に、を連発した、単調な興奮して浮ついて取り留めない文章や、開高健の、早書きの、フランス語も英語もみんな忘れた、と自己をののしる文章やら、無残千万。だが、その純情可憐は、涙を誘うぞ。

 

5/9/2007

 

自在度がどの広さまでに通用するかで、人の未来が決まる。その人の抑える未来も決まる。

職人はその広さが狭い。職人であることの良し悪しを言っているのではない。広さという言葉を使うのが不当であるくらいであるのが、職人の矜持につながる。楊枝の先がいかに研げているかで職の一番を願っている。職人は世界を擁護する。

しかし、言葉、視覚、論理、モノそのもの、を自在度の通用する分野とする人間は、世界を擁護しない、変えかねない。もともと限界を意識していない人間は、広がる自分を抑えかねる。

しかし、後者は、前者のあり様を通ってきた人間である。二人の間で、論争があった。とどまるべきか、外へ行くべきか、で。

 

2007/05/15

 

フィクションを書くとはどういうことか、を分かるのは、自転車をこぐとはどういうことかを悟るのに似ている。読むのと書くのの違いは、自転車をこぐのを見るのと自分が自転車をこぐのを体感するのの違いに相似的だ。

 

のの、は珍しいか?

 

2007/6/3

 

激烈なニヒリズムを克服する物語を書こう。

私の父親と私を襲ったニヒリズム。味わいつくすことによってしか克服できないので、若死にする者ばかりであるこの行路を、かろうじて現時点では生きている私が部分的にでも顧みてみよう

 

2007/06/06

 

宇宙全体を考慮すると、個人は無意味だ。どうせ死んでしまうと考えると個人は無意味だ。これが個人幻想に対する反対論のはじめのやつ。

 

生まれてすぐの子が、生まれれば死ぬのだから、個人として、生命なり、宇宙なりの全体主義は知らないよっ、生まれた瞬間から死に準備されている一生は、児(ちご)には堪えられないし笑っちゃうよと、言ってもかまわない。

言語能力が仮にあったなら、私はそう言っていただろう。

 

2007/06/13

 

般若心境は、死者を歌った唄だ。

愛するものが死んだとき、いかにもこう思う。

死者を見ている人物が、その愛惜のあまり、死者になり重なり合おうとしているが、その自らの様子を、死者にすでになってしまっているかのように伝える。彼我の死を見る視点はないのだが、ないはずの視点を架空的にとれば、かくのようになるという。

般若心境で未熟な論理操作、論理的な正当性、がうたわれているのは情けない。

ギリシャも、プラトンまでそうだった。

なぜ、それにこだわるかというと、それは歴史的な問題であって、それにわれわれは今でもこだわっていて、きりがないからだ。論理を問題とする論理にきりがないのは論理の宿命であり、それが論理の本質であり、論理がすでに存在してしまっている以上、われわれの宿命でもある。そこで……問い。

 

問い:論理が先か?、我々が先か?

 

実存は本質に先行する、がここでは効かない。よそでも、効かない。

 

実存が、本質に先行するどころか、はるかにそれに後行することを実証しようとしたのがサルトル以後だった。

 

2007/6/20

 

比喩で描写するのは、文学の常套だ。というより、それが、その巧みさが文学そのものであったときもある。

比喩で描写して、なにものかを捕らえたという意識は錯覚である。が、文学では、その技法で世界を捉えられると仮定されていた。

これは悪しき還元主義だった。森羅万象は、個人的体験とドグマに、比喩でひきつけられ説明された。感動が与えられた。

比喩が非現実的なあるものである場合もおおいにあった。

比喩はこの場合、無方向的な拡散を意味した。

自然科学の訓練を受けた者にとっては、結論の中の比喩はナンセンスである。

しかし、追跡の過程で、連想は方向舵だ。比喩を操る文学者と、どこに変わるところがあるか? 

科学者の、仮説としての連想と、文学者の、創造としての比喩とは、人間精神のとる、合同な一姿勢だ。

さらにいえば、精神はこの姿勢を常にとり、この姿勢から逃れられない。

文学も科学も歴史的な事実であり必然であったのはそういう理由からだ。

 

2007/06/21

 

文学作品に現れる葛藤が虚妄だと思っている人間が文学をやれるか?

そもそも馬鹿にしている分野に入れるか?

文学だけが、偏見と独断が許される場所だ。読み手がそうだからだ。そういう人間たちで世間が構成されているからだ。

しかし、そこに真実があるかもしれない。

真実は真理とは異なる。

真理には人は関心を持たない。どうでもいいことだ。むしろ厄介ごとだ。

偏見や独断が普遍であるかのように、葛藤が錯覚でないかのように、嘘八百を書き並べることは、人間蔑視でしょう。

蔑視していなければ書き続けられない作者。

作者こそが蔑視されるべきだ。

 

2007/07/23

 

絶対的な他者性をいう動機は言うものの傲慢だ。

それがコムニュケイションをないがしろにする。

遺伝子レベルでも、言語レベルでも差はない。脊椎動物に差はないのだ。

幻想の隔壁があるだけだ。

 

2007/07/24

 

国家があるから戦争がある。だからと言って、国家がなくなれば戦争(らしきもの)がなくなるわけではない。

 

2007/07/28

 

エイトビートであれ十六ビートであれ、打点を抜くことを考える。八の場合は、1拍抜くのは8通り、二拍抜くのは28通り、以下7拍の8通りまである。単位が偶数の場合、○×と×○が基本的だった。単位が4の場合も基本的であって、○×××、×○××、××○×、×××○、は、使い古された。単位が奇数の場合も、×○○、○×○、○○×、も使い古された。刻みが一単位あたり多くなった現在、どれがいいかを探るのは、新新感覚派。

 

2007/08/01

 

家族はやがて流れ解散。

 

2007/08/14

 

小阪修平と船曳の女房が出ているビデオを見た。

三島の相手をしたのは、劇団駒場のやつらであって、そのときの根本問題を論じたかどうかは怪しい。劇駒のやつらは、見物人か、どこかに行っていてたまに東大に帰ってくるような生活をしていた。もともと芥正彦を私はあまり好きではない。

 

2007/08/22

 

内ゲバと夫婦喧嘩を互いに互いの比喩として使うのは正しくないが、夫婦の間に内ゲバの論理を持ち込んで喧嘩となるのはよくある事実だ。

 

文革後半、あるいは以後、元紅衛兵曰く、化け物でない学生が化け物になった。内ゲバ、主導権争いでの 壮絶な殺し合いのことだ。

 

2007/08/2

 

色即是空 空即是色とは、Wを全体集合、Φを空集合とすると、W=Φということだ(詳しくは、含みかつ含まれる、ということ)。だから、A=Wとすると=Φ=Aバーとなり、A=Aバーとなるから、矛盾律が成り立っている。Aを一般の集合としても、AはWの部分集合であり、つまり空集合の部分集合だから、A=Φである。Aバー=WとなりW=ΦなのでAバー=Φであるから、A=Aバー=Φ=Wが任意のAについて成り立つ。

 

2007/09/14

 

猫や犬はなぜ人間のそばにいるか。かつて彼らは人間をえさにしていた。小型化し、野生を相当失ったが(それは人間に近づきすぎた報いだったのか?、それとも彼らの戦略だったのか?)、獲物にあくまで接近しようという彼らの意思が、彼らにペットという着ぐるみを着せるに到った。孤独死した老人の死体を愛猫や愛犬が食った、という話が多々ある。大抵は顔を食う。中には性器を食ったのもいる。いつ彼らが本来の目的を達するか、わかったものではない。用心すべし。