2008/08/19
「二つの可能性がある。宇宙で存在するのは我々だけなのか、そうでないのか。どちらにしてもゾッとする」アーサー・C・クラークの言葉だ。
我々だけではないのは圧倒的に高い可能性で言いうる。一様性が遍在し我々の特殊性には何の根拠もないからだ。この現象は宇宙のどこにでもありうることだ。ただし、いまだにコミュニケイションがないという事実は、敵も大して進化してはいないことを示している。あるいはすでに我々の存在そのものが敵のコミュニケイションの一形態であって、我々は、投げかけた敵に応答する役割などもっていなくて、ただ、180度反対側の、何者かに向かって投げかけられている過程にあるだけなのかもしれない。
2008/09/06
パリの詐欺師たち(奥本大三郎)について
森有生がいかがわしいとは思う。時々日本に帰ってきては、金のない学生を講演会に引っ張り出して、パリの桃色吐息を吹き込んだのだ。
越路吹雪が雇った案内人が森有生で、紹介者の中村真一郎に、彼女、怒鳴っていわく「あの、森っていう案内人、首にしたからねっ。近寄らせないでよねっ」
森当人は長編を書いているという話だったが、死後調べてみるとそんな形跡はなかった、と中村は書いている。越路女史のことだけでなく、中村個人の幻滅もあっただろう。
私は、はじめからインチキくさいと感じていた。
仏文系のインテリには、小林秀雄をその代表としてインチキ者が多い。それらは近頃に至っても変わらない。浅田彰等の、切り貼り細工師が、少し前の典型である。
森は、三木清に似ているところがある。三木清における人間の研究(今日出海)で、私はそれ以前に読んだ限りでの三木への不信感が証明されたように思ったが、それと平行な感じを、奥本の著述で味わった。
奥本が意識的に書いたのかどうかはわからんが、誰だっけ、あの仏文の、学生のときは野球ばっかりやっていた劣等生だと自称する評論家(思い出した 河上徹太郎)が、小林秀雄を、時に、暗いランプの下で、たたき売りする的屋のようだと評したのと、奥本が、子供時代にインチキオヤジが石が動くと張ったりをかましていたのを見た際に、父親にそのたくらみを教えられたのと、やはり平行な感じを持つ。
森の持つ感傷性は森の一部だ。おかしいのはむしろ他の部分だが、それは後に述べる。感傷性、特に男のそれは、悪党かどうかのリトマス試験紙になる。女と、女っぽい男が引っ掛かる。感傷性には性平等性がない、気質的な、腺的な女性専有の情だからだ。ルアーとなる。
2008/11/15
貨幣について。
次のような情景を思い浮かべてみよう。穴のあいたいくつかのたらいが海に浮かんでいる。それぞれには泳げない人たちがのっている。その中には穴を修理したり、たらいそのものを補強したりしているものもいる。これが国家だ。たらいが沈没しそうになったら、相対的に安全そうなたらいに乗り移る。たらいは貨幣だ。乗り移りつつもたらいに乗っていることに変わりはない。泳げない身としては国家を信用するしかない。たらいに乗らない決意をしたものは、泳ぐ技術を身につけねばならない。孤独に、あるいは仲間を作って声を掛け合いながら、しかしやはり彼らもたらいと同様流れていく潮流の往く末はわからない。
2008/11/20
科学上の発見で、パラダイムを変えるほどのものの持つ特徴のひとつは、今まで乗っていた土台が動くことだ。地動説は文字通りそうである。ウェゲナーの大陸移動説もそうだ。(私は小学生の頃南米の肩の部分とアフリカの腹の部分が接合することをみつけ、地図の大西洋のところを折りたたんで縮めたり、トレーシングペーパーに写し取って切り取ったりして両大陸を陸続きにして確認した)相対性理論もそうだ。進化論もそうだ。私の主張する加速爆発重力論もそうだ(今ここであらゆるものが加速的に膨張しているから重力が発生するという内容)。宇宙の膨張は加速的であることが天文学で確認された。私の説も、もう誰かに気づかれてしまったかもしれない。
或る錯覚がありうる。加速膨張するものとしてのヒト、が、宇宙のかなたの加速膨張を観測可能か?
距離が遠のくにつれて、微分が連続的に変化して、ついに観測可能となるのかもしれない。微分は、1階、2階、と自然数階に存在するだけではなく、連続濃度で存在しているかもしれない。(無限回微分や滑らかさとは違う)
女は男性器を、とってつけられたもの、と感じている。
使ったら洗っとけばいい。仕舞い方が悪いと転がり出る。
このような発言は、男性器を外部と見ている証拠だ。ボーヴォワールの言う、男が造作なく主体として同一化できる、むしろそこを拠点として安住する場とは対極的だ。
2008/11/26
理念に叛旗を翻すことは結局言語にそうすることになる。理念と言語で人を判断することが間違いであるのに、そうしてしまう圧はどこからかかっているのか。言語以前の、ありがたさ、もったいなさを言語で語らずに、身振り手振りで、物理的接触であらわすしかしょうがないのか。
それは野獣的。
知の居場所がない。知が、このような段階にいたってもありうるか、が問題だ。知は既に十分反省的であるので、知が野獣的であるかもしれないのを私は期待したりしている。
インターネットは、農耕、産業革命、科学革命、とならぶ革命だ。
一次集団、ゲマインシャフト、が、地球化する。
2008/11/27
たとえば、理念としては平等、現実ではヒエラルキー。
だから、良き理念がヒエラルキーを生みうる!
そもそも理念自体がヒエラルキーであることは、マルクス個人が権力的であったことと同じ。理念の内部に、ヒエラルキーを生ぜざるを得ない事情がある。ヒエラルキーを持たなければ、理念ではないと、かつて延々と、信じられてきた。理念は権威的であった。
内部論理としてのヒエラルキー。
実は、科学もこれから逃れられない
2012/02/11
引用二つ。
志賀直哉 沓掛にて より。
(芥川の)「妖婆」と言う小説で、二人の青年が、隠された少女を探しに行くところで、二人は夏羽織の肩を並べて出掛けたといふのは大変いいが、荒物屋の店にその少女がいるのを見つけ、二人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあった。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現われ、うまい描写だと思うが、二人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭もそちらへ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼び戻されると、頭がごたごたして愉快でなく、作者の技巧が見え透くやうで面白くないといふやうな事もいつた。こんな欠点は私自身にもあるかも知れず、要らざることを言ったやうにもおもつたが、当時そんな事を思つていたので、これも私はいつた。芥川君は、「妖婆」は自分でもきらひなもので書きかけて、後を止めたものだと伝つた。
中上健次vs村上竜 より
中上 ……たとえば、「洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり、そのラベルには葡萄を口に頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある」とね。このままだったらベタ塗りだね。どこに焦点が当たっているのか分からない。ワインの瓶全体か、それとも部分なのか、しかも「グラスに注がれたワインの表面にも天井の赤い灯りが揺れて映っている」と続きますね。「洋梨に似た形をしたワインの瓶がテーブルの端にあり」と次のセンテンスに続けるが、普通の書き方なら「あった。」として、たとえば、「眼を凝らすと」と一つ動作を入れるなりして、ラベルという部分につなげるね。しかし「……端にあり」「頬張り房を手に持った金髪の女の絵が描かれてある」というのは、普通の小説書くんだったらしないね。なんか主人公の瞳孔がどうかなってしまっているようだよ。焦点が合ってないよ。つまりリアリズムというんだったら、どっちかをとっちゃうよね。で、別なところに入れるよね。
私は、志賀も中上も好まない(人も作品も)。しかし、上に書いた両者の記述や発言は、たびたび思い出すので、ここに正確に書いておく。
2008/11/23
「決壊」について
志賀や中上の指摘以前の、視点多元の違和感がある。
A 息子が横に座ったことに、治夫は落ち着かない様子を見せた。
治夫を対象にしている。1ページ後に、
B (治夫は頷くと、……息を吸ったが、……吐き出された。)言葉はさほど遠くないところに見えていた。しかし、手を伸ばそうとするのが、どうしても億劫だった。
治夫を視点にとっている。
視点零元とは違う。ABと、視点を同一面上でそれぞれ確定している。零元とは、いわゆる神の立場で、その平面を離れて、平面の上空に鎮座して遍く透視眼光を放射するのである。平野は、視点の短期的な変換の持つ違和感に気づいていないばかりか、多元と零元の違いもわかっていない。
別の部分で。
護はその黒いバッグに、どこかで見覚えがあるような顔をしていたが、何かはわからなかった。よしえは、祟の思いつきを意外に感じたが、
第一文の、が、までは護を対象にしており、わからなかったと護に視点をとっている。さらには、第二文でよしえに視点を移している、内から外へと一つの文の中で読者は急速な立場変換を強制された後に、息つく暇もなく、よしえの内部に入らせられ、彼女の意識の流れに乗らなくてはならなくなる。
全編に渡ってこの種の違和感に私はさいなまれた。
プロットの整合性について。
読者に謎を投げかけたままにしておくという手法も含めて、整合的であるか?
犯人や友哉が、遺体をバラバラにして、あちこちにばら撒き、発見されることを期待して犯行声明を付加することの理由は?
(祟に操られたのなら祟が操った理論的根拠は何か)犯行声明の効果は何か。
黒いバッグやタバコのガラムのような,小物で重要な判断要素を作っていいのか。神は細部に宿る、とは違う。
祟が弟を間接的にであれ殺した理由は何か。
友哉が同級生を殺した理由は何か。
犯人の無差別殺人の理由を生い立ちの逆境にするのは安易。(さすがに作者はそれだけではないと言い訳している)祟に洗脳された?
祟が反社会的である理由は?
良介の予感はどこから来た?
結果の劇場型大量無差別殺人の派手さに対して、それを支える必然性や動機が薄弱である。必然性や動機が薄弱であることを描くからこそ、そうである必当然性を厳密に説いて見せねばならない。ポストモダン思想家の受け売りからなる演説でそれを代替しても仕方ない。読者が殺人者に感情移入せざるを得ない描写をやって見せるべき。
劇場型殺人は、模倣犯でも登場した。日常的に頻繁に起きている。もはや古い。そうでない型を考えよ。ネットは使うが受けを狙わない、煽らないタイプ。誰でもできるのではない、選良のみが行うタイプ。プレゼンテーションをネット上で行い、それに賛同するもので試験にパスしたもののみが殺人者となれる。劇場型とは、お笑いタレントに一斉に笑ったり、ロックコンサートで一斉に乗せられるやつらが参加者だ。攻撃対象を特定する。誰でもよかった、はもうやらない。精神病、トラウマ、心理学、等とはかかわらない、極めて冷静な「正常者」の犯す殺人。
付記。
誰でもよかった型殺人の流行は、ポストモダンの帰結である。
2008/12/05
人と話していて時々感じる、相手のモノらしさ。或いは獣性。
頁岩の手触り。がっつく犬のむき出しの歯。
こちらは、相手に何らかの問題があるのだろうと仮定して、(断定はしない。それはできない場合が多いから)、やや安心する。実は落胆している。またか、この人も、と。
しかし、何らかの問題があるのは自分ではないか、と、自己懐疑的なこちらとしては、反省もする。
では、どんな問題だろうか。
人が物質的で獣的であることに、本当は望みを託している自分がいるからこそ、そうでない自分の現状を引きずる自分を確認して、安心しつつも嫌悪しているという、アンビバレンツな問題だ。切れたところでの関係性ですべて説明できるというポストモダン、いやいや、ソシュールから発して、20世紀を席巻した説明原理があって、(説明できない恣意性があったという、説明に恣意性を使う絶対的な自己矛盾)ポストモダンはそのコロラリーに過ぎないが、それを脱して、着地しているつもりなのに、過去の思い出が、具体的でありすぎるので、相手のモノらしさ或いは獣性に、当惑し続ける。
近代と近代的個人は、意識、すなわち対象を自己とするような回路、を特徴とする。ある人は、それは過剰のなせる業だという。
しかし、驚くべきは、近代科学は、対象へのあくなき関心、感情移入ではなく、理性で対象に見入るあまり、対象と一体化するかのような、すなわち、感情的でなく他と一体化する能力が理性であると定義できたような、自己ではなく他との関連があったからこそ成立した。ルネッサンス以前壱千年、これがなかった。
ともに、過剰のなせる業だ。
では、過剰の原因は何か。脳の畸形か。進化論に反する現象だ。この過剰は環境の何にも対応していない。環境の君主制に対して、生物中で、人類は唯一の反抗者なのか。
子供は、大人が巨人に見える。いつも話をするときには、見上げなくてはならない。怖いときにまつわりつく棒のようなものは、大人の、たいていは親の膝の辺りだ。満員電車に乗ると、その圧倒的な劣勢に思い知らされる。熱気と二酸化炭素不足が、身体計測についての足りなさに輪をかけて、さらに、分を弁えよ、と神の声が聞こえてくるのだ。小さい頃に見上げた両親、親戚のおばさん、おじさんを、思い出してみるといい。中学生になって、どうしてこの人たちがつい何年か前に巨人だったのか、理屈ではわかるが、妙な気持ちを持つものだ。
イノセントラヴ、と、誰でもよかった、とを、対照と捕らえることで、既にわかることがある。
2008/12/21
近代における我の発見は、我の解明にすぐには向かわず、彼我の乖離の峻烈性、と同時に、我の存在の確からしさに応分の、客観の存在の確からしさに寄与した。近代科学の始まりを理論的に支えた。我の解明は19世紀末から20世紀に、その相対性、任意性の発生源である(個であれ、主間性的束であれ)無根拠性に行き着いた。説明原理が獲得され、ソシュール以後の恣意性による根拠付けという倒錯した論理の大盤振る舞いにいたる。
技術は生物に学べ。
反応だけならば物理化学のレベルだが、原水爆の例がある。数十億年の環境適応の結果を尊重しなさい。
技術とは環境適応の同義語だ。人間が環境に適応する技術であるが、人間達だけが作る環境から、そうだけではない環境への適応、本来の環境への適応技術となってきた。
SLは、身も世もない露骨なエネルギー変換過程を、見せびらかしているストリッパーだ。何が起きているかは外からはっきりわかる。だが、彼女には、開き直りの傲慢さがある。堂々たるそれだ。