2008/12/29

 

国会はなくして、市民と官僚との直接対決による直接民主制が可能だ。

金融経済は、自由化を禁じ、国家統制から国連統制へ進む。

自衛隊は警察へと発展的(?)解体。

国内治安維持と同次元で対外紛争を扱う。どちらも単純にセキュリティの問題とみなす。

 

ビートたけしは、アンガージュマンをやっている。吉本隆明がその先触れだった。サルトルが生きていたら怒るかなあ。怒らないで、まねをするかなあ。

 

2009/02/13

 

しゃべるように書くのが理想的である。そのためには、紙面やキーボードを見なければよい。

 

2009/03/04

 

等価原理とリーマン幾何は、結びつきに必然性はない。両者は歴史的にニュートンから分化した後、関わりがなかった。前者は事実であり、後者は表現である。二者は別方向に進化した。否、後者は、神学化しかかるほどに進化したが、前者は、その解釈を拒否したまま、厳然たる事実であり続けた。加速度的自爆が重力を生むことに私が気づくまで、謎であり続けた。

 

風俗の転変は急速で、科学は日進月歩の勢いだ。だから、風俗小説とSFは、ともに流行に大きく依存する。

 

何ぞ燕雀の……、に対して、我々は所詮スズメなのですよ、と、加島祥三が異論を唱えたそうだ。それは、単なる裏返し。知的選良が、分を弁えたようなことを言うのは嫌味である。スズメと主張するのは、鵬を認めているからである。私のように、鵬もスズメも所詮は同じ、と言うのとは、全く違う。

 

芸術を芸術たらしめているのは密度である。相互反響の密度のことだ。最も密度の高い言語は漢文(中国語、とは言わない)である。一週間漢文を読まないと、文章力が落ちる、と、加藤周一が言った。

ところで、わたしは、極めて特殊のことを表現するのには、漢文は不適であると思う。また、科学を漢文では表せないと思う。

つまり、誰もがなるほどと納得する、一般的喜怒哀楽を表し、一義性の貫徹する科学言語で表すべきものを避ける限りで、漢文は芸術的である。

 

2009/04/12

 

Exactness is a fake.

ホワイトヘッドが最後の講演の最後の言葉として言ったと、今日のNHKの番組で鶴見俊輔が語っていた。

Limitation is a fake.と、私は重ねて言っておきたい。無限を扱う解析学は、現象の、連続的な近似である。扱いやすくなっているが、現実はそこにはない。

残像とネオンサイン効果(点滅が移動に見える)、つまり映画の原理によって、静止した離散点の系列が、運動する一点と見える。解析を通じて自然を表そうとしたとき、終にその手段である解析そのものを突破して、離散の実態に対峙するまでにどれだけ時間がかかったことか。ネオンサイン効果は波動によってよくその本質を表しているが、波動を扱うのは連続性を根幹とする解析であった。量子説の錯覚(ある種の空間―物質的量子があるのは錯覚ではなかろう。それが巨視的物体のように移動することが錯覚だ)は、波動説を採ることによって解消されるが、その説が解析に拠るので、一歩も二歩も後退した。

手段を奪われた我々は、ただ近くに寄って、明滅するネオンサインに見とれるしかないのだろうか?

 

2009/04/21

 

自然選択は表現型に対して働くので、適応力がない劣性遺伝子や、連鎖している適応力のない他の遺伝子(優劣かかわらず)も随伴して選択される。この非成果的遺伝子が大量に溜まる。これを人間の獲得形質に応用してみよう。表現型に対して劣性である心理的性格的な形質が、個体の一生の間でも伏在していて、獲得形質の専制度が百パーセントでない可能性がある。獲得形質の優劣は蛋白質の合成によって決定されているのではなさそうだからだ。生涯に数回だが、環境の激変に伴って、そういう形質が劣性性を失って、発現するとしたら? 優性獲得形質に連鎖する中立的形質がやはり中立性を失ったり、中立性が外的条件の変化に伴い、優性へ偏ったとしたら? 多人格の秘密がここにあるかもしれない。

若いとき、建築家は、芸術家を自負する。仰天させる外観、官能的な空間の設計に我を忘れる。なにせ、狭い脳の、狭い設計図の構想が、何層倍にも拡大して、人を魅了し取り込むからだ。 若い文筆家こそ、芸術家を自負する。手段の極小、極少が、(紙と鉛筆だけだ。数学者に似ている)、その自負を保障しているかのようだ。彼は美文、それによる描写、奇警、衒学に凝る。

建築家は、デザイン至上主義のこけおどしと批判される。文筆家も、独りよがりの、読みにくい、テンポが遅い、つくりものであると批判される。

彼らがあくまでその線を貫いて、世間を飽きさせるのか怯ませるのか、脱皮して、世の需要に目覚めるのか世に対する反抗心に目覚めるのかは、もう当人の問題ではない。始めの企みだけが当人のものだった。第二段階の意図作成は、彼のところに集まり鬩ぎあう世界中の意志たちの合議を経なければならない。

事は、建築家と文筆家にのみに関わるわけではない。しかも、我々が我々自身に関われるのは、第一インパクトにおいてだけである。

 

2009/05/16

 

唯物論には、物理を最上流とする自然科学的唯物論と、マルクス流の歴史的経済的唯物論がある。前者の中で、かつての哲学的課題を引き受けるばかりの勢いを示しているのが生物学だ。特に脳科学。ある人物が、脳はハードウェアであり、その内容のソフトを規定しない、と抗議した。これは、歴史的必然は、個人の自由を規定しないという抗議とパラレルだ。

両者はともに次の論理からのコロラリーだ。日本人ならば東洋人だ、とは、充分条件から必要条件が出る例としてよく教科書に載っている。ベン図では、必要が充分を包含している。必要(必然)においては、規定が弱化する。充分は、必要を規定できないのだ。日本人であることを根拠に、東洋人が何たるかを論じられないように。同様に、脳はその内容(知識、心等々)を、歴史的条件は、その内容(個人の自由、アクシデント等々)を、規定できない。見かけの包含関係が、本質的包含関係と逆になっているので(脳は知を、歴史は個人を含んでいるかに見える)ほとんどの人が間違えるのだ。

 

比喩と連想l。

比喩は、その使い手の確信と工夫に裏打ちされている。自信が露わな「比喩という断定」には、多義性も神秘も謎もない。連想は、その発生の場は、ある個人の脳内ではあるが、当人の独自性とライセンスは問題にならない。情報の流れが作るネットワークの結節点で起きた偶発反応であって、比喩を紡いだ主体の影さえない。

 

読み取りの生産性は、原典と比較して長いか短いかで決まる。読み取りによって情報が増える度にテキストは成長する。減る度にテキストは凡庸化する。カテゴリー化、帰着化その他。

 

記号論から唯物論へ。浮遊から着地へ。三十年も試みてきた結果が、素朴機械論か? 脳科学か? 決定論は乗り越えられているとみなされているので、着地の際の大地は不動ではない。そもそも数百年前に、それは確認されている。新たな着地はさらに不動さを欠いた大地への着地となる。それは、実は新たな浮遊を意味するだけか?

 

2009/05/17

 

数学には、連想はあるが比喩はない。一般に、厳密な学に比喩はない。だから「厳密な学としての哲学(フッサール)」の記述に比喩が混入しているのはいただけない。

数学には要約が利かない。極めて技術的な学問であるから(小平邦彦の発言)。文学にも要約が利かない。要約が可能なのは、論説か娯楽小説である。前者では、主張と立場、後者では、ストーリーが、その成立理由であるからだ。成立理由を支えているものは再びまた理由、ではなくて、ドグマに過ぎない。

ハードとしての脳は、型式の同一なパソコンである。同一性は、遺伝子の基本的同型性によって保障されている。自己を論じる際、ハードとしての自己と、脳内に格納されているソフトとしての自己を混同してはならない。前者は、遠近法というハードによる被拘束性を指す。誰もが、ものを見るとき、手前に自分の鼻を見る。この見方は例外を許さない。この意味で、私はひとりしかいない。(私、と、あなた、を取り替えてみる。なにがかわるか? なにもかわらない。或いは変化に気づかない。論理的に変化を認められない。したがって私はない、或いは私はいつも一人だ、という議論が一方である)

ソフトの内容は個体によって変わる。同一の個体はない。この意味で私があるかのようだ。しかし、その固有性とは、様々な情報が一時的に結節した束の特異性であり、バラけては結節する流れの瞬間的滞留に過ぎない。能動的主体的選択とは、その時の個々の情報間の化学反応である。全く受動的である。固有性を通して無数の流通可能な情報が見えてくるだろう。その情報はまた複数の情報の束である。それらを腑分けしていけば、ついには分節化の先端に至る。文章を文に、文節に、単語に、と腑分けしていくとついにはその先が無意味の音(オン)となる場面に至るのと同様である。

存在は本質に先行する。その実例:性的快感は記号に先行する。

貨幣を記号とみなして、前もって、労働量という重力(意味)を持つ商品(労働価値説を認めたとして)を評価するのは一種の転倒だ。

 

2009/05/22

 

主体は幻想だとしてみよう。能動はなく、受動の一部を見誤っているだけだとしてみよう。見えるのは、束になった記号の流れであるとしてみよう。

記号はどのようにして生じたか? 誰かが作った。多くが承認した。その時主体がないとしたら、作ったではなく、あくまで生じたのだった。記号が記号を作った? もとい、記号によって記号が生じた。記号が記号を誘発したのだ。しかも、同語反復でなく、差異が生じなければならない。意味の違いではない。意味は放棄された。あくまで差異である。ここで、記号素とでもいうものを仮定してみる。これらの複合で記号ができているなら、記号が記号を産むのは化学反応とパラレルである。これが説明原理になりうる。過激な還元主義だ。

記号を作るのは人間である。主体が幻想であっても、人間全体としては、類としては、無記号世界内では、一個であり、全体として一人である孤独な人間のように記号を作る。類としては主体的ではないか?

 

宗教は防御反応か? 宗教の名の下での攻撃が最も残虐であったが?

 

2009/06/27

 

記号は代理人であって本人ではない。本人の不在が代理人の存在理由を基礎づけ、代理人がここに出頭しているという事実が本人の存在の根拠を支えている。 

このことは人間においてのみ成り立つ事情である。人間以外の動物においては記号は極めて未発達だろう。ないとは断定できないが。しかし、代表化作用はあるだろう。本人?の一部でもって、本人を代表させるのだ。黄色と黒のだんだら模様を見ると、ウサギは虎だと察するだろう。ウサギが視覚能力を、色と形に関して人間並みに持っているとして。だんだら模様は記号ではない。具体物である。そして虎全体ではない。虎の一部である。そこに虎はいないかもしれない。ウサギは道路工事中の停止柵を見たのかもしれない。しかしウサギは脱兎のごとく逃げ去るはずだ。

代表化作用は人間にもはたらいている。象形文字はその一例だ。馬という漢字は、馬を見知っている者ならば、馬を意味すると当てる可能性がある。

 

主体とは他者の記号である。両者は境界線を共有しない。

ここでは、意識を問題にしていない。意識のない主体というポストモダン特有の概念が端的に定義されている。対象化作用の過剰なあまり、或いは、対象の数量が生活条件の向上等で相対的に減少したせいで(意識が目覚めている間中、労働と闘争であった時代を脱すると)意識は暇をもてあまし、自己を対象にしてオナニーし始める。他者の記号としての主体という概念に主体の独自性はない。わずかに、他者を他者としてとらえる意識、全環境を他者として一括できる意識が前提条件として主体の特殊性を示している。

代表化作用の場合は境界を共有する。

 

主体と他者の関係に一番近いのは、シニフィアンとシニフェの関係である。

後者の関係に、(近代主義的)意識が密輸入されているのと同様、前者の関係に、特に主体の中に、意識が無根拠に繰り込まれている。

記号化の代表例は言語だ。その動機はヒトの意識の「赴き」である。それはその時その場から発して、通時的共時的に共有されてきたヒトの関心の分布、欲望の分布を示している。もう一つの代表例は貨幣だ。これは露骨にヒトの欲望を一直線上に並べてみせる。自然数の発見に先行して、欲望のリニア化があったのかもしれない。後者に押されて前者が発生したのかもしれない。

 

主体に能動性はない。他者の記号だからだ。労働主体も他者の労働成果を享受するという受動性によって自己同一性を保っている。だから、労働の意味は、私の労働成果を享受する他者が存在するという事実からしか引き出せない。だから、そこに労働のモチベーションがある。

 

 

2009/07/05

 

言語以前のレベルではもう生きられないのか?

 

なぜ有であって無ではなかったのか。なぜ我々と他者が(まとめて)有だったのか。なぜ現象が現象化しえたのか。

 

2009/09/19

 

ブレインを持っているというのは民主主義に反する。カンニングである。無規定のものに依拠するのは、民主主義的に見えて、その反対だ。黒幕、教祖、その他有象無象。質の問題で片付けてはならない。ブレインは一対。私の左右脳のみ。

 

2009/10/01

 

見ることが既に錯視である。

考えることが既に錯誤である。

 

2009/10/07

 

我、とは、意識が意識自体を対象にする事態のことだ。センサーがセンサー自身を感知することだ。ヘビが自らの尾を呑み、子犬が自らの尾を追い駆けることだ。

生物的構造とは関係ないし、記憶とも関係ない。構造の構造自体との関わり、記憶の記憶自体とのかかわりによって我は生じる。

フィクション、物語が、なぜ人にアピールするかというと、自らが自らを対象にしている事態を、言語でもってなぞっているからだ。小説の構造的不自然さ、ナレーター、独白、地の文と内観の混交、視点の移動、時間空間移動等は、自らが自らを対象にしている事態にのっとっている。

翻って、このことは、我のフィクション性を暴露する。小説の構造的不自然さがすんなり受け入れられてしまうように、我のフィクション性にもかかわらず、我は我を受け入れる。

 

特殊な集団内では、我が我を対象にしているのか、他者が我を対象にしているのか、分からなくなることがある。決起集団、宗教団体から、政党、全共闘。血縁集団も。他者が我であるかのように思えてくる。その発言や行動にどこまでいっても違和感を覚えないからだ。フィクションを読んでいて我がことのように感じるように、集団内では他者の言動が我がことのように感じる。