2009/10/08

 

私はかつて、チャーリーパーカーを、褐色のブラームスだと評したことがある。チャーリーパーカーは、最も尊敬する音楽家はと訊かれてブラームスと答えたそうだが、尊敬するどころではない。私は今ブラームスの第四番の第一楽章を聴いている。これを高速で演奏すると、厳密にチャーリーパーカーそのものとなる。

 

永井均の出演した番組を見た。彼の文章を読んだ覚えはあるが内容はよくおぼえていない。

 

私の感想。

五感も脳も健全であるが、すべての感覚に反射で応じる人間は、私を持つか? (この場合、脳の存在理由が不明なので、問題が成立しない可能性があるが)

私の死によって、私を定義づけられないか。

関係性と私そのものという実感或いは実態は無関係だ、コピー人間がいても私はある、コピーは世界内の一存在だが私は世界そのものだ、と彼は言っている。それは正しい。私は、関係性を説明根拠とする説に対する唯一の反証である可能性がある。物質的存在であるところに生じている、他とのではなく、他以外との関係性であり、定義上(他以外だから)自己関係を指し、定義上唯一である。物質ではなく、他との関係でもないなら、こうでしかありえない。

 

取替えについても言及していた。取り替えても気がつかない点を強調はしていなかったが。

 

自分と同じように他人も、の言い方が間違っているといっていたのは、コピー人間に関する議論においては正しいが、私の言う、私はただひとりしかいない、という主張と形式的には真っ向から矛盾する。

 

2009/10/14

 

括弧をとる書き方。主体が融合する状態。プラス同士が反撥しない核力の存在を表わせ。

 

勝海舟は、周恩来かね。

 

2009/10/25

 

身体性を誤解している者が多い。

身体性を個体性の根拠にするのは間違いだ。

身体は、誰もが同じだ。メスで皮を剥げば、内臓を見るだけで個体識別は出来ない。性的快感の〝感じ様〟に個体差はない。

実は、身体に則った確信は、類的共有感覚だ。内容はない。確信と思うのは錯覚だ。音楽と同じだ。

さらに、脳の形式が同様であることから、私がひとりしかいないことが導かれる(種として一人)。

身体に経験の記憶は残りにくい。事故で手足がなくなったとか、スポーツ等の訓練で身体に関する反射回路が発達したとかは別だ。身体の変形をもたらすほどの記憶の跡は珍しい。

脳の経験は、事情が異なる。見かけはともかく、脳の変性は激しい。身体の環境と、脳の環境は全くちがうからだ。

脳の環境は、記号である。脳は、その環境に適応したあげく、幻想の実体化となった。

 

2009/10/30

 

エコ意識は、道徳律となった。孔孟のそれと異なるのは、人間関係にまでまだ及んでいない点だ。いまだ、個人の行動規制にとどまる。エコ意識が、どのように人間関係を律するのか。

 

2009/11/21

 

しつこさ、漫才師のしつこさ、は、音楽のテーマを繰り返すことを連想させる。

 

ありきたりの言葉?

ありきたりでない言葉があるか?

ありきたりは言葉の定義だ。

ありきたりを、いかにありきたりに表現するか。

否。

ありきたりなら、いう必要はないのではないか。

 

2010/02/17

 

自己とは何かを問う前に、自己が成立する条件は何かを考えたい。

そのひとつは、神経系が、個体別に自閉していて、個体間につながっていないことだ。これはもちろん必要条件だ。そして、極めて緩い条件だ。神経を持つ生物はすべてそれを個体別に持つからだ。だが、脳の異常発達した人間にとっては、この条件の締め付けは、例外的に大きくなる。過剰発達した機能は、アイドリングにいたたまれず、対象を自らにとる。個体の外部の対象を追いかけるのに大童である小さな脳と違い、余裕満々たる人間の脳は、マスターベーションを始めた。脳自体を対象としうる脳が自己だ(実体的定義)。そのような回路が自己だ(関係的定義)。

外部を知ったように己も知る。己を知った上でまた外部を見る。自らの世界における立ち位置を一度でも悟った脳は、もうその遠近法から逃れられない。視野の隅に見える自分の鼻が、いつもそれを思い出させるのだ。

 

言語の構造に見える歴史的発達

英語を例に取る。

だ、です、を表わす断定を、BEで表わした。観念的に完全静止の図を思い描いて、Cをつける。次に、ある、いる、を表す存在を、またBEで表した。Cより広いサラウンディングをつける。

次のステップで、リンガル・ホモは動き出す。

動作を相手に仕掛ける。次に、動作を仕掛けてその結果を望む、見る、確かめる。Ⅴの後に、O、OO、OCと続く。

自らをなんらかと断定した者が、己の環境を観察し、外に働きかけ、その働きの効果を知る、という時間の流れに沿ったビュルドゥンクスロマンが、英語の基本構造に垣間見える。

 

ある行為を良いと判断するのは、行為をされた者ではなくする者だ、というニーチェの発言は、やや荒い。

行為をされた者がその行為が良いと判断するのは行為の後だ。

行為をした者がその行為が良いと判断するのは行為の前だ。

いわゆる良い行為とは、する者とされる者が、行為の前と後との判断で一致した稀な場合の産物である。この幸福で希少な記憶は、忘れられないものとなって、再び目指すべき理念として、以後の行為を拘束する。