2010/02/19

 

戦争末期から、戦後しばらくの間、日本は有史以来の平等社会を実現した。何せ、天皇が最前線の二等兵と同じ食事を摂っていたのだから!

貧困を平等に味わうだけでなく、富もまた平等に享受し、絶対量に差はあっても少なくとも享受の喜びにおいては同胞感を味わい、バブル経済期にそれは絶頂に達した。格差はその後の回復過程で生じた。

格差は、まずマクロに、国家間格差が条件となって発生する。Aという国家とBという国家の格差が、A内の国民とB内の国民との間に格差が生じる所与の前提となる。そしてミクロに、一定の体制が存続する時間の増大に従って、体制が緻密化し階層分化が進み、格差が固定化する。ところがさらにマクロなレベルで、格差の標準化が進む。グローバリズムがAもBも串刺しにするからである。

 

2010/03/07

 

無個性なものが多数あるとき、科学が成り立つ。同型多数の原理。

 

2010/03/17

 

ヒューマニズムとファシズムは主張に私性が無いという点に関しては同質だ。個をどこまで容認するかが両者を区別する際の手がかりとなる視点だ。前者では容認し、後者ではしない。個を容認してなおかつ私性が無いというアクロバット的要請が、ヒューマニズムに、潜んでいる。

 

2010/05/23

 

数学に時間の観念はない。無限回繰り返しや、無数のものを寄せ集める行為を許している。観念論であるのに有効なのは、論理的整合性と、近似の精密さによる。

連続と無限が比喩であり、有限を、点ではないボールを、リアルとする数学に、移行がなされるはずだ。

 

自然数列を横や斜めから見ていると、はるか彼方へ延びる無数の数がある。斜めの角度を垂直から離して小さくしていくとゼロにした瞬間に列は一点となる。

自然数列を一点に見るとは、実体を導入したことだ。だが、これは、視点のずらしに過ぎない。決定的な変化が、連続的変化の途中の一瞬にある。

ここで、垂直と水平の、図形的ではない、観念での発見が伴う。

 

2010/06/07

 

りんごでもアップルでもほかの何でもよかった、どういうかは恣意的だ。

この言説がそもそも間違っているが(恣意性は、どう発声するかではなく、その対象をどう切り取るかにある)、オンは、その対象の、言語以前の印象、手がかり、呼び起こし方法を、痕跡として持っている。

音韻は、言語の元であり、人は、自らの音声を比喩として、現象を切り分けていたのだ。

 

描写に関して、文章が映画に勝りうる点は、背景を消すことが出来るということだ。映画で背景は描写を省くことが出来て有利だが、決定的な瞬間に、背景を、画面そのものを消すことは出来ない。それらがきょう雑物で、脇役で、ここのところは焦点をはっきりさせたいと思っても、そうはいかない。真理は最終的には、盲目の人が感知できるもだからだ。

 

2010/06/07

 

私小説がある限り文学は滅びない。私(それが何とみなされようと)がある限り、私小説は滅びない。

パースペクティヴがある限り文学は滅びない。パースペクティヴは、人類共通の形式であり、私の本質である。つまり、私は世界で一人しかいない。人類は一人なのだ。

 

2010/06/10

 

生命は永久を欲する。生命は結晶を目指す。実現できたのは定常流だ。遠くから見るとよく似ている。近くで見ると正反対だ。

 

2010/06/22

 

言語は、コミュニケイションによって集団の結束度を高める最良の手段だが、集合的無意識が自己意識によって危機に瀕したときに、それと同時に発生する。集合が分断化されるときに、踏みとどまり、回復するために。

 

存在そのものは、少しでも広がりを持つと属性を帯びるので、定義上点だ。あるということしかその存在を定義付けられない。ところが、宇宙全体、あるいは全体を宇宙と言ってもいいが、広がり得る限りの広がりを持つ広がりを点とみることで、全存在を了解できる。

 

2010/07/11

 

ラッセルもポパーも、それ以降の多数の科学哲学者と科学者自身が、科学は仮説的だと述べている。

それが信仰になっているのが問題だ。仮説に対する信仰!

 

2010/07/13

 

自然界に存在するもの、つまり、非理念的、非観念的であるもので、無限であるものの例を一つでも挙げられるか? 出来ない。無限と連続は、有限と離散の近似に過ぎない。取り扱いやすく、美しい。しかし、それに酔ってはならない。

 

2010/07/14

 

オートポイエーシスは、代謝と免疫の抽象化である。遺伝を考慮していないのは、個体のモデル化にテーマを限定しているからだ。自己再生産の点では、代謝も遺伝も同じことでもあるからだ。

代謝を円環構造と単純化し、免疫を自己決定(トポロジカルな領域を指定すること)と単純化して、社会学用語になるまでに汎用化した。領域指定は語の発生の際と同様の操作だ。語でくくられた複数の対象は、実体であるかどうかはわからない。あくまで識、現象と言いたくなる。オートポイエーシス的システムは実体だとされる。外部はシステムの組織構成を決定する情報も原因も与えない。(入り口と出口を持たない)養分や廃棄物は、システムの構成要素とはみなされない。それは、委員会の委員、その意見は、委員会の構成要素だが、委員を作る窒素や炭素は、構成要素とみなされない、という意味であり、委員が途中退席して出す大小便も構成要素とみなされない、という意味である。また、輸入と輸出は、オートポイエーシスを貫くアロポイエーシス的システムのせいである。

ルーマンの場合、構成要素はコミュニケーション。

 

2010/07/15

 

我執は醜い。我がある限り、我執は避けられない。従って、我が醜い。

 

追記。我が醜い。従って個が醜い。個をサヴァイバルの戦略としている生が醜い。生がイーヴィルであった。

 

2010/07/19

 

小平さんが、連続次元といったので、岩堀さんが、カッとして、想像を絶する、と言った後、教室に緊張が漲ったことを覚えている。

 

2010/08/21

 

フェチシズムとしての、自転車。オランダの例。


 

2010/08/21

 

仏教も慰めだ。


 

10/21/2010

 

蒸気機関車とそろばんの共通点、仕組みがあからさまであること。過程が目に見えていること。むき出し。

 

2010/11/07

 

エリザベス女王も、美智子妃殿下も、絶世の美女だったなあ。ハリウッドが、いらいらしただろう。

 

2010/11/11

 

小悪が、大悪を押さえる、というような、例えば三島由紀夫の演じたような偽悪では、コトは解決できない。現実では、あくまで、大悪が、無数の小悪を押さえるのだ。そこで、大悪が誰か、どこにいるかあるか、が問題になるし、その証明のための戦争が起きる。

結局、大悪が聖者であり、さらに、神であることが、現実的な諸過程で、明らかになる。


 

2010/11/13

 

西欧人が肉に香料が必要なように、東洋人は死体に線香が必要だ。

 

2010/11/14

 

唯物論者が、人間機械論を唱えるのは間違いだ。

機械は、目的にあった機能を具体化したものだ。人間を含めて、生物は、目的的に造られたものではない。唯物論とは、目的を持たずに存在物が存在するという主張だ。

 

2010/11/26

 

偉大な科学者は規範にそむいて、ひっそりと熱情的に生きる。

 

愚者の楽園とは、意識と理念を持たない者の国だ。楽園であるのは悪が守ってくれるからだ。意識だけでなく生命が悪だから。

 

悪者とはだれか。罪の意識、もちろん原罪感も、持たない者だ。

罪とわかっていて罪をやめられない者は、善者だ。神が最も愛するのはこの善者だ。なぜならこの善者が神を発明したのだから。自己愛に根拠を与えたかったのだが、それが見つからなかったので、やむを得ず数に頼った。みんなが共有すると思うからそれは存在する。存在証明を多数決原理で実行した。

 

無私の行為が成立するためには、その周囲がエゴのかたまり集団であることが必要条件となる。さてでは、国境なき医師団が無私の行為をしているとき、その周囲の難民達はエゴイストか?

 

苦を媒介に救済者は成立する。最も簡単な成立のさせ方は、死を苦だと宣伝することだ。この戦略は絶対的だ。だれもが死から逃れられないからだ。では、死を楽としてみたとき、何が、誰が、生まれるか。新たなタイプの聖者だ。男は悲劇を悟って酔生夢死。女は生を楽しむ。死が苦であるという宣伝が無効であり、死が楽だと思っている。

 

善と悪は対立しない。同じ地平に載ってないからだ。自然が悪であるので、善はとてもじゃないが太刀打ちできない。善は糊塗である。悪は善を糊塗などしない。善には無関心だ。善が一方的に悪を意識するのだ。片思いの少年のように。相手は魔女なのに。

 

神とは仮説的な視点のことだ。一言でも感慨を述べたら、それが我々の造ったまがい物であることがばれてしまうだろう。