早くこの場を立ち去ろうして手を岩から離し、腰を浮かしたところで、押し戻されるように後ろにひっくり返った。その拍子にこの場所に来たもう一つの目的を思い出した。トンと忘れていたその目的を思い出させようとして何かが僕を押したのかもしれなかった。
ヒトミ、真似しなくていいんだよ、と叫んだが遅かった。
僕達は水中で抱き合い、ちょっとの間もがいてから立ち上がった。
ヒトミは濡れた額に皺を寄せている。このことの意味を探り始めたようだ。僕は、すまなかった、バランスを崩しただけだ、と言って、目を剥いて見せ、もう一つの目的の意味を再確認するほうへ心を向けた。
木の洞に隠した水晶のかけらをとりに行くことの意味だ。
火をまた使おうと考えているのだ。いつだったのかは知らないが僕の内部のどこかで火がついた。どんな類の火であるのか。
施設ニッポンで火を実際に見たことはない。化学の課程で学習はした。実用面では、水素はともかく、炭素化合物を燃焼させることは、エネルギー供給法としては過去のものだと教わった。仲間達が学習したかどうかはわからない。ただ、僕は、ここ帝国では火が有用であると思う。
市民と奴隷の間に、感染症が蔓延している。施設で無菌状態にあった疑いのある市民は、抵抗力が著しく低いので、病原菌の培養基となっている可能性がある。
僕は、外の世界からほうほうの体で逃げ帰ってきて眠りこけている間に、注射と点滴を打たれ続け、手術さえされていたようだから心配は比較的少ないと思う。仲間達には問題がある。
僕が帰ってきた後、河への出口の鉄柵は塞がれたはずだ。暗渠への入り口もふさがれただろう。
にもかかわらず、仲間達は、たちまち姿を消した。僕は呆然として空っぽの高層住宅群を見上げ、ふらふらとそれらの狭間の道路をさ迷い、ヘレンとその家族達が暮らしていた部屋を訪れたものだった。
彼らは、予防注射など待っていられず、見たばかりの新世界に幻惑され鼓舞されて、集団戦術で、封鎖を物理的に強行突破したのだ。団地を取り囲む塀を破り、暗渠への遮蔽を破り、河へ出る柵を破った。
彼らが体当たりし、引っ掻き、噛みつく音が聞こえるようだ。コンクリートが腐食して剥き出しになった鉄筋を折り取って引っ掴み、掛け声勇ましく突進する姿が見えるようだ。
彼らが気長に態度で示せば、父は外で暮らすのを許したはずだ。
何せ僕が命がけで頼んだのだから。
だが彼らは待たなかった。許しが出るとは思えなかったのかもしれない。
エクソダスへの願望が、いかに深刻で強烈であったかがわかる。外の世界を一瞥したことが、 既に臨界点間際までつのっていた願望を、一挙に解放したのだろう。
彼らの性急さを責めるのは公平さを欠くと思う。
その教育システムに素直に身を任せていれば、飢えることは決してなく、清潔で安全で安楽な生活が保障されている施設ニッポン。それを捨てたのには、それなりの理由があったはずだ。この理由を明らかにすることによって、彼らの、ひいては僕の本質が露わになるだろう……
ともあれ、強行は強行だった。そのつけが今回ってきた。
連鎖球菌、病原性大腸菌、赤痢菌、サルモネラ菌等々に帝国は汚染されている。流行性肝炎が蔓延している疑いもある。特に子供はウイルスや菌に敏感だ。統一センター試験を受けるまで生き延びられる子供の生存率は五割以下だ。コレラが出たら子供どころか市民が全滅する。
汚れた水場を閉鎖し、火葬を導入することで、衛生環境を改善しようとしたがまだ不十分だ。経口感染を防ぐために、食べ物を加熱処理する習慣を導入する必要がある。
ふと、横槍を入れるように、小石を詰めて隠した水晶の塊りが思い浮かんだ。木の洞に隠したかけらのイメージが幾分薄れた。
だが、溶岩洞にある水晶は、再び利用することを想定せず、誰にも見つからないように隠した。僕にさえも見つかりにくいだろう。ふくらみのある岩を選んで、闇雲に割っていけば、いつかは他の水晶が見つかるだろうが。
一方、木の洞にあるかけらは、再利用するつもりで隠した。場所も覚えている。すぐそばにある。
洞の穿たれた木に向う決意を新たにして、川下に体を向けた。
闇を貫く川面は、巨大ホタルの飛跡のように、ほの白く光っていた。そろそろ獣達が水を飲みに来てもいい頃となる。恐竜はまず来ない。
大河を遡るにつれて、恐竜の出現頻度は減っていった。滝の上では、淡水竜を除いては、生息していないようだった。戦争の時に、二頭の恐竜が現れたのは、低地から迷い込んできた珍しい例だ。だが、獣達だって恐ろしい。僕らが必死で投石しても、追い返せるかどうか。時は刻々過ぎていく。ぼんやりしていて、既にかなりの時間を失ってしまった。
まだしかめっ面をしてうなだれているヒトミの肩を抱き寄せて、岸辺へ誘いながら、その耳にささやいた。行くぞ。ついてこい。
先に行く雲古を追い越しかねないスピードで、川原を走り下る。
白い霧がこの土地の気温に慣れて消えていくので、まわりの闇は深まる一方だ。もう月と星が灯になりかねないほど充実して輝くようになったので、空のほうが明るい。僕達の影が、石ころの上を踊りくねる。
不穏な群衆の中で、探していた知り合いを見つけた時の安堵感を伴って、葦の原の向こうの雑木の中、親しげで懐かしい姿勢をとった木の影を見出した。
葦を踏みしだく際に、右目を葉の縁で切ったようで、涙が止らなくなったが、ひるまず近寄る。洞に指を入れようと右腕を伸ばした瞬間、ヒトミが肘を両手でつかんで引き戻し、僕とそっくりに舌打ちをしながら、首を横に振った。何? ヒトミは体を折って枯れ枝を拾い、僕に握らせた。僕はそれで洞を小刻みにつつく。毒虫が入り込んでいるかもしれないからだ。ありがとう。
液体の抵抗感は感じられたが、生き物のうごめきは伝わってこなかった。右手を手首まで入れて、溜まった雨水に浸っているかけらを取り出す。両手のひらでぬぐい、さらに腹で擦って、泥と滓を落とした。親指と人差し指で挟んで、結晶面の一つに張り付いている月と無数の星を気にしつつ、口に含んだ。冷たいかけらは、施設の製氷庫で作られていた氷を思い出させた。腐った樹液のかすかな臭いが内側から鼻をくすぐった。右頬と歯の間に舌を使って押し入れる。
振り向いた僕の顔をヒトミはちょっとたじろいでから興味深げに見た。きっと、急に虫歯にでもなって頬が膨れたようなのだろう。笑ってもいいぞ。
親しげだったのはその木だけで、林は以前来た時よりも違和感を増し、騒々しい。
再び、追い立てられるように、今度は川原ではなく浅瀬を走った。近寄ってくる獣を水音で追い払えると思ったからだ。しかし、僕達を見逃さない何者かが、前方に用事でもあるような振りをして並んで走りながらも、徐々にこちらに近づいてくる気配がした。二本の走行線を前方の闇に交じらわせてみた。足がすくみかけた。自分を叱咤した。
左右をなるべく見ないようにしても、目じりの辺りを、あの濃い黒たちが、ぼやけたマリとなって、跳ねながら後ろへ移動して行く。
視野の中央左寄りに、川面から突き出た大きな人差し指が迫る。僕がさっきまで気分よくぶら下がってフンしていた岩だ。毎日ここへ来るという目論見は、もろくも潰え去った。
引きつけられるようによろめき、左手でちょっとだけその頭を撫でてから後ろへ押した。ここでも、さらば、友よ、だ。
ヒトミがたてる背後の水音が、近寄ったり遠ざかったりした。時々断絶するのはこけた証拠だが、僕だって何度もこけた。
そして、肉体的なあえぎや疲労や失態とは別に、僕を侵すものが出現した。
闇から押し寄せてくる恐怖が、僕の内にまずひと吹きの不安を誘発した。それが、周囲ではもう消えた霧が別天地を見つけたかのように、むらむらと膨れ上がってきた。
恐怖と不安は、前者のほうが強度は遥かに大きいが、類縁関係にある。恐怖は、外部にある他者が惹き起こす。不安は、内部に他者が生まれたことによる不整合に原因がある。
では、どんな不整合か。
水晶を利用しようとする構想に対して、ある重大な疑問が生じたのだ。
コントロールできるのだろうか、彼らも僕も、火を?
ヒトミ、真似しなくていいんだよ、と叫んだが遅かった。
僕達は水中で抱き合い、ちょっとの間もがいてから立ち上がった。
ヒトミは濡れた額に皺を寄せている。このことの意味を探り始めたようだ。僕は、すまなかった、バランスを崩しただけだ、と言って、目を剥いて見せ、もう一つの目的の意味を再確認するほうへ心を向けた。
木の洞に隠した水晶のかけらをとりに行くことの意味だ。
火をまた使おうと考えているのだ。いつだったのかは知らないが僕の内部のどこかで火がついた。どんな類の火であるのか。
施設ニッポンで火を実際に見たことはない。化学の課程で学習はした。実用面では、水素はともかく、炭素化合物を燃焼させることは、エネルギー供給法としては過去のものだと教わった。仲間達が学習したかどうかはわからない。ただ、僕は、ここ帝国では火が有用であると思う。
市民と奴隷の間に、感染症が蔓延している。施設で無菌状態にあった疑いのある市民は、抵抗力が著しく低いので、病原菌の培養基となっている可能性がある。
僕は、外の世界からほうほうの体で逃げ帰ってきて眠りこけている間に、注射と点滴を打たれ続け、手術さえされていたようだから心配は比較的少ないと思う。仲間達には問題がある。
僕が帰ってきた後、河への出口の鉄柵は塞がれたはずだ。暗渠への入り口もふさがれただろう。
にもかかわらず、仲間達は、たちまち姿を消した。僕は呆然として空っぽの高層住宅群を見上げ、ふらふらとそれらの狭間の道路をさ迷い、ヘレンとその家族達が暮らしていた部屋を訪れたものだった。
彼らは、予防注射など待っていられず、見たばかりの新世界に幻惑され鼓舞されて、集団戦術で、封鎖を物理的に強行突破したのだ。団地を取り囲む塀を破り、暗渠への遮蔽を破り、河へ出る柵を破った。
彼らが体当たりし、引っ掻き、噛みつく音が聞こえるようだ。コンクリートが腐食して剥き出しになった鉄筋を折り取って引っ掴み、掛け声勇ましく突進する姿が見えるようだ。
彼らが気長に態度で示せば、父は外で暮らすのを許したはずだ。
何せ僕が命がけで頼んだのだから。
だが彼らは待たなかった。許しが出るとは思えなかったのかもしれない。
エクソダスへの願望が、いかに深刻で強烈であったかがわかる。外の世界を一瞥したことが、 既に臨界点間際までつのっていた願望を、一挙に解放したのだろう。
彼らの性急さを責めるのは公平さを欠くと思う。
その教育システムに素直に身を任せていれば、飢えることは決してなく、清潔で安全で安楽な生活が保障されている施設ニッポン。それを捨てたのには、それなりの理由があったはずだ。この理由を明らかにすることによって、彼らの、ひいては僕の本質が露わになるだろう……
ともあれ、強行は強行だった。そのつけが今回ってきた。
連鎖球菌、病原性大腸菌、赤痢菌、サルモネラ菌等々に帝国は汚染されている。流行性肝炎が蔓延している疑いもある。特に子供はウイルスや菌に敏感だ。統一センター試験を受けるまで生き延びられる子供の生存率は五割以下だ。コレラが出たら子供どころか市民が全滅する。
汚れた水場を閉鎖し、火葬を導入することで、衛生環境を改善しようとしたがまだ不十分だ。経口感染を防ぐために、食べ物を加熱処理する習慣を導入する必要がある。
ふと、横槍を入れるように、小石を詰めて隠した水晶の塊りが思い浮かんだ。木の洞に隠したかけらのイメージが幾分薄れた。
だが、溶岩洞にある水晶は、再び利用することを想定せず、誰にも見つからないように隠した。僕にさえも見つかりにくいだろう。ふくらみのある岩を選んで、闇雲に割っていけば、いつかは他の水晶が見つかるだろうが。
一方、木の洞にあるかけらは、再利用するつもりで隠した。場所も覚えている。すぐそばにある。
洞の穿たれた木に向う決意を新たにして、川下に体を向けた。
闇を貫く川面は、巨大ホタルの飛跡のように、ほの白く光っていた。そろそろ獣達が水を飲みに来てもいい頃となる。恐竜はまず来ない。
大河を遡るにつれて、恐竜の出現頻度は減っていった。滝の上では、淡水竜を除いては、生息していないようだった。戦争の時に、二頭の恐竜が現れたのは、低地から迷い込んできた珍しい例だ。だが、獣達だって恐ろしい。僕らが必死で投石しても、追い返せるかどうか。時は刻々過ぎていく。ぼんやりしていて、既にかなりの時間を失ってしまった。
まだしかめっ面をしてうなだれているヒトミの肩を抱き寄せて、岸辺へ誘いながら、その耳にささやいた。行くぞ。ついてこい。
先に行く雲古を追い越しかねないスピードで、川原を走り下る。
白い霧がこの土地の気温に慣れて消えていくので、まわりの闇は深まる一方だ。もう月と星が灯になりかねないほど充実して輝くようになったので、空のほうが明るい。僕達の影が、石ころの上を踊りくねる。
不穏な群衆の中で、探していた知り合いを見つけた時の安堵感を伴って、葦の原の向こうの雑木の中、親しげで懐かしい姿勢をとった木の影を見出した。
葦を踏みしだく際に、右目を葉の縁で切ったようで、涙が止らなくなったが、ひるまず近寄る。洞に指を入れようと右腕を伸ばした瞬間、ヒトミが肘を両手でつかんで引き戻し、僕とそっくりに舌打ちをしながら、首を横に振った。何? ヒトミは体を折って枯れ枝を拾い、僕に握らせた。僕はそれで洞を小刻みにつつく。毒虫が入り込んでいるかもしれないからだ。ありがとう。
液体の抵抗感は感じられたが、生き物のうごめきは伝わってこなかった。右手を手首まで入れて、溜まった雨水に浸っているかけらを取り出す。両手のひらでぬぐい、さらに腹で擦って、泥と滓を落とした。親指と人差し指で挟んで、結晶面の一つに張り付いている月と無数の星を気にしつつ、口に含んだ。冷たいかけらは、施設の製氷庫で作られていた氷を思い出させた。腐った樹液のかすかな臭いが内側から鼻をくすぐった。右頬と歯の間に舌を使って押し入れる。
振り向いた僕の顔をヒトミはちょっとたじろいでから興味深げに見た。きっと、急に虫歯にでもなって頬が膨れたようなのだろう。笑ってもいいぞ。
親しげだったのはその木だけで、林は以前来た時よりも違和感を増し、騒々しい。
再び、追い立てられるように、今度は川原ではなく浅瀬を走った。近寄ってくる獣を水音で追い払えると思ったからだ。しかし、僕達を見逃さない何者かが、前方に用事でもあるような振りをして並んで走りながらも、徐々にこちらに近づいてくる気配がした。二本の走行線を前方の闇に交じらわせてみた。足がすくみかけた。自分を叱咤した。
左右をなるべく見ないようにしても、目じりの辺りを、あの濃い黒たちが、ぼやけたマリとなって、跳ねながら後ろへ移動して行く。
視野の中央左寄りに、川面から突き出た大きな人差し指が迫る。僕がさっきまで気分よくぶら下がってフンしていた岩だ。毎日ここへ来るという目論見は、もろくも潰え去った。
引きつけられるようによろめき、左手でちょっとだけその頭を撫でてから後ろへ押した。ここでも、さらば、友よ、だ。
ヒトミがたてる背後の水音が、近寄ったり遠ざかったりした。時々断絶するのはこけた証拠だが、僕だって何度もこけた。
そして、肉体的なあえぎや疲労や失態とは別に、僕を侵すものが出現した。
闇から押し寄せてくる恐怖が、僕の内にまずひと吹きの不安を誘発した。それが、周囲ではもう消えた霧が別天地を見つけたかのように、むらむらと膨れ上がってきた。
恐怖と不安は、前者のほうが強度は遥かに大きいが、類縁関係にある。恐怖は、外部にある他者が惹き起こす。不安は、内部に他者が生まれたことによる不整合に原因がある。
では、どんな不整合か。
水晶を利用しようとする構想に対して、ある重大な疑問が生じたのだ。
コントロールできるのだろうか、彼らも僕も、火を?
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