洪水は我が魂に及び  反体制と想像力



 主人公の勇魚は、かつてその販売企画担当員だった核シェルターで、障害を持つ息子ジンと共に隠遁生活を送っている。彼は、樹木の魂、鯨の魂の代理人であると自認している。ジンは、テープレコオーダーの鳥の声を聴くと「OO(鳥の名)、ですよ」と当てる特殊能力を持っている。彼らと湿地帯を隔てて対峙するのが、「自由航海団」と称する、社会からドロップアウトした若者たちだ。近い将来発生する天変地異に乗じて公海へ船出しようと企んでいる。本作は、勇魚と若者たちの対決、和解、相互承認、連帯、共闘に至る過程を物語る。外見的には、連合赤軍あさま山荘事件を思い起こさせる。実際、強盗、軍事教練、リンチ殺人、機動隊との銃撃戦(例の鉄球も出てくる)等、エピソードには周知のものが多い。しかし、内容は異なる。自由航海団には、連赤のもつ教条主義、硬直性、自閉性がない。議論が活発であり、命令系統がない。団員は、個人の自由意思で参加している。この点は、全共闘に通じる。
 勇魚と若者たちが世代を超えて共闘に至れたのは、反体制意識だけでなくヴィジョンに生きるという本能を共有していたからである。その意識も本能も廃れた現在の私たちに打撃を与える場面が数々ある。例えば最終章。地下室に立て籠る勇魚は、人類が駆逐された洪水の中を、水中に立つ樹木を縫いながら、群れなす鯨が泳ぐ姿を想像する。鯨の鳴き声のテープを聴きながら、「鯨、ですよ」とつぶやく。ノアの洪水のイメージとは別に、実際には、機動隊の放水により、床の穴から泥水が吹き出てくる。上がってくる泥水の中から、勇魚は、自由への道におけるマチウさながら、自動小銃を連射する。
 特に、ナニモカモチュウブラリンノママデ、ソシテ無ダトイウ認識ガ、ナント広ク自由ナトコロへオレヲ突出シテクレルコトダロウ……という一節に私は感銘を受けた。
 当時の状況に対して、知識人がどう反応したかによって、その人物の、それ以前の教養のレベルが暴露され(自分探しの旅、百姓一揆、性的不満の爆発等のたわごとがはびこった)、旗幟を鮮明にすることによって、以後の評価が決定した感がある。
 三島は、不安のあまり、劇駒の挑発に意志的に乗り、900番(もとの610番)教室まで出向いてきた。大江は戦後民主主義の子供だとの自称を全共闘に嘲笑され、自己批判した末に、この作を書いた。両者の評価は定まったが、三島はともかく、大江についてはあからさまには誰もその内容を語らない。