夜が落ち着き、風も落ち着いたので、草原は眠り始めた。
鳥たちの中には、寝つきの悪いのもいる。ときたまの啼き声が、動きを止めた乾いた空気を鋭く貫く。かすかに山彦を伴う。
道が、斜めに下っていく。だが、森の中や池の畔の道に較べると、軌跡ははるかに不明瞭だ。足で踏むと、草よりは土砂と岩を感じ取る度合いが大きく、その草も、立ち上がる復元力をほとんど持っていないのでそれとわかる。もっとも、先を行く者が、虫たちを啼き止ませ、左右に避難させ、僕の前からだけは啼き声が聞こえなくなるので、音の不在によっても道は示されるけれど。
虫たちは眠るどころではない。大合唱団を組むこおろぎをバックに左右から聞こえてくるそれぞれの独唱は、、チンチロリンリンキリキリガチャガチャスイッチョン等の擬声語で分類しきれないので、正体が、松虫鈴虫きりぎりすくつわ虫馬追いであるとは分からない。擬声語は音響自体の感知のためには障害となる。正体は今のところどうでもいい。擬声語も名称もひとまず忘れ、虫の声に聞き惚れながら、口笛でもって、なぞったり合いの手を入れたり新種の虫として唄ったりした。より直接的な接触を試みるこの作業こそ、ああ、おもしろや。同様に、もしココロがあるとして、ココロの兆候を、すでに設定されているカテゴリーに分類して、それぞれに対応する心理学的な名称を知ることに、僕は興味を見出せない。それよりも兆候そのものと戯れたい。他者のココロだけでなく僕のココロもまた聞こえてきそうだからだ。
駕籠の向こう側から、一片の白い紙切れが、風がないのに、宙に舞い上がったまま降りてこない。蝶だ。さっきまで吹いていた風によってお花畑から追放され、抵抗に疲れ、しばし草間に身を隠していたのだろう。よく見ると、あちらこちらに点々と、潜んでいる蝶が見つかった。一番手が先陣を切るのを見ていたかのように、我もわれもと飛び立っていく。大半はモンシロチョウだが、中には、モンキチョウや名前の知れないスミレ色の蝶も混じっている。高々と飛翔することは稀で、ほとんどは低空状態を保ち、その平面を運動場のようにして、ジグザグに、あるいは、回転しながら、追いかけっこを始めた。湖面の上の水鳥を思いだす。一匹が、僕の横腹にぶつかって転げ落ちたが、太股にしがみつき、脚の往復運動による揺さぶりにもめげず口吻を皮膚にくっつけてきた。むず痒いので、右手の人差し指で軽く横っ面をはじくと、空中に寝ころがってからあわてて羽根を広げて飛んでいった。太股には吹き付けられたように鱗粉が散っている。
目を上げると、一行が、吹雪のような蝶の群れの中で立ち止まっている。こちらも止って様子を見る。駕籠者たちがゆっくりと腰を下ろし、駕籠を地面につけると、両手で棒を持ち上げ、頭を越えさせ、同時に体の向きを変え、僕のほうを向いた。こちらはちょっとたじろぐ。露払い役のトネリが、駕籠者の前方左側に回って来て、歩き始めた。立ち止まったままの僕を軸にして、風景がゆるゆると回転する。背後の石灰岩の岩壁が、右側へ退き、僕と駕籠を結ぶ視線が草原を掃いていく。ところどころで、孤立した立ち木に引っ掛かる。白樺だろう。トネリと駕籠者はわざとらしいほどに前方を見つめたままだ。視線が最大傾斜角をなしたとき、手前のトネリの陰になっていたヘレンが、体を前に倒して、右手を挙げ、微笑みながら、振って見せた。ノモリはいない、トネリは見ていない。しまった。ぼんやりしていた。こちらが振る場面だった。それにしても大胆な女だ。
緩やかに起伏しながら谷底に傾れる斜面を、僕はまっすぐに、彼らは僕の前方を右に左にスウィッチバックしながら、下りて行く。勾配は全体として下るに従って急になる。
何個目かの小さな丘を乗り越えると、目の下に、天から青紫色の絵の具がぶちまけられたかのように、群生するスミレの花が広がっていた。
僕の身長の三倍ほどの岩が紫野から突き出ていた。その傍らで、ヘレンは駕籠から降り、やはり降り立ったメノトと向き合って、早口で口論を始めた。あげく、ベータを肩に担いで、メノトの鎖骨辺りに頭突きをくらわせた。ゴールに向けての必殺ヘッディング。こんな乱暴な女だとは思わなかった。今後、気をつけよう。ベータはヘレンの背中に垂れているので、現実に何が起きているのか分からない。キャッと叫んで、喜びはしゃぎ、もーいちどー、と大声で言った。
ベータを抱えさせられたメノトは再び駕籠に乗った。四名の奴隷が前後二人ずつに分かれ、全員が谷底側を見、両肩に駕籠棒を等高線と平行に担ぎ、これまでとは直交する方向にメノトを運ぶ。ヘレンがこちらを見ながらトネリに何か言う。トネリ達は承知したふうに頷くと、谷底に降りて行く。二名が駕籠の後ろ側についた。残ったトネリが今までヘレンが乗っていた駕籠を担いで後を追う。竹篭の底が膝の裏辺りに当たって跳ね、棒の先が天を指す。指す先は、石灰粉をばら撒いたような星空だ。目を下ろすと、ヘレンの姿が見えない。
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