早足に斜面を降りる。ヘレンは丸めた背中を岩に向け、スミレの原を呆然と眺めながら、坐っていた。
横から顔や姿を観賞していると、ヘレンの右の肩甲骨が背骨に向かってなす崖っぷちに蜂がとまった。胴体を伸ばし尻尾を寝かせているので、刺す気配はないものの、僕は体を前に倒し、息を吐いて追っ払った。蜂は羽音を立てて飛び立った。ヘレンが、僕の近づけた口先も蜂も見えていないのに、ありがと、と言った。蝶のはためく音は、耳近辺にぶつからない限り、聞こえないが、蜂の羽音は、かなり遠くからでも、聞く者の聴覚を挑発し、神経に触れる興奮を惹き起こす。今飛び去った蜂もまた、十数カウントの間、脳の一部を悩ませた。
胴乱を肩からはずし、スミレの上にかぶせ、ヘレンの正面に腰を下ろした。
「刺されたこと、ある?」
「ないわね、私は」
僕が今したのと同じことをモーゼがしてやったのだろうと想像した。
「駕籠から降りて、お花畑に足を着けたのは今日がはじめてよ。駕籠に乗っている時は、トネリが追い払ってくれるわ」
なんだ、そうか。ヘレンは僕の顔を興味深げに見ながら続けた。
「モーはスミレを採集していたとき、何度か刺されたそうだわ。あのひと、あちこちでしょっちゅう刺されてるの」
この場でモーゼを話題にとりあげるとは、意地悪だなと思った。煽られているような気がした。
「嫉妬心は、持っていない。そもそも、嫉妬の原理が分からないんだ。考慮の外に置いてからしゃべってくれ」
僕は憮然とした様子を見せようと、大げさに腕を組む。ヘレンは、目を細めて僕を見ているだけで、いつまでたっても返答しない。もう少し、言い募らなくては分かってくれないのか、とも思ったが、それは逆効果となりそうなので、真似をして、目を細めて、相手を見るようにした。
そうしているうちに、なにやら自信がなくなってきた。僕の嫉妬心をヘレンが考慮した訳は、原理が分からないとは言いながらそれらしい素振りを見せたことがあるからだろう。僕の深いところに嫉妬が潜んでいるかもしれない。モーゼがいつも座る席にヘレンが腰を下ろしたときの慣れたしぐさに戸惑ったのは、嫉妬のせいだったのではないか。ヘレンのモーゼについての発言( モーゼのことを一番よく知っているのは私、モーゼの女だもの、モーゼを拒めない、等々)で、いちいち傷ついていなかったか?
モーゼが息を吐いて蜂をヘレンの背中から追い払っている映像が再び脳内に浮かび上がった。ああそうか。ヘレンはこのような想像を僕がしたことに気がついたのだ。嫉妬しているらしい僕を慰めるために、滑稽にも、モーゼはしょっちゅう刺されていると言った。いや、滑稽などと言ってはバチが当たる。それはありがたい気遣いだった。
「無礼なことを言った。すまない」
ヘレンは黙ったまま、顎を上げずに空を見上げ、目を左右にうごめかせて、とぼける。まだよくわかっていないなあ、とでも言いたそうだ。
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