平原全体から聞こえてくる定常で屈託のない虫の歌声に、非周期的な硬い音がほんの傍で時々瑕をつける。伏せた胴乱の中に蜂が閉じ込められ、内壁にぶつかっているのだ。ほぼ同時に二回ぶつかることはあるが、三回以上はないので、二匹いることがわかる。雌と、追ってきた雄とを閉じ込めてしまったのか? ヘレンも気づいたらしく、胴乱を見た。僕は体をねじって両手を伸ばし、背負い紐をつかむと、胴乱を斜めに傾けて、蜂たちを逃がし、そのまま下に置くと転がりそうなので、倒れたスミレが形作る円周に沿って、また伏せた。

胴乱を取り囲む青紫の花々は、その頭を、十三夜の谷にでも僕たちにでもなく、慎み深く足もとに向けて垂れたまま眠っている。風が、思い出したようにそよいだ。スミレは、睡眠から醒めるほどではないが揺らめいた。みんなそろって、ねじれながら顎を上げ、音を立てずに寝返りを打った。

「水辺に坐って、水面が波打つのを見ている気分だね」

言いながら体のねじれを戻して顔を見ようとした時、乳房が大きく波打った。横ずわりにしている脚の膝が少しずれたがすぐ元に戻った。見開かれてさらに大きくなった眼を見詰めると、そこから涙が溢れ出てきた。右目から頬に一筋流れた。少し遅れて左目から。

「何か、思い出させてしまった?」

「そう。思い出した。泣いちゃうじゃないか」

泣かせているのは僕だ。僕が引き金を引いたのだ。これからも、記憶がもたらす悲しみに、ヘレンは何度涙を流すことか。

「うちのとうさん、河のほとりで死んだの」

アパートでの宴会の最中、床にへたり込んで、何かをぼやいていた年寄りを思い出した。河辺の土手の下、宙に舞ったまま落ちてこないスミレの花びらも。それらが飛び立つ前にたかっていたあれも。

「あーあ、水飲み場みたいな狭い池じゃなくて、大きな河や湖の水辺にまた行ってみたいわ。ねえ、連れてって」

返事はしない。湖に行く計画は前からあるが。

子供たちを生んだのも湖のほとりでだった」

「子供たち?」

「アルファとべータ。アルファは二卵性双生児の女の子のほう。モーは大喜びだった。滝をやっとこ登ったところで。崖登りのせいで破水が早まったんだわ。ここと同じような野原のはてに、幻みたいな湖がひろがっていて、水鳥が宙を旋回し、淡水イルカが吼えてたなあ」

脳内で何枚かの画像が現われては消えた。つかまって泳いだバルサ。上空と湖底を並走する天体とその像。翼でⅤサインを決めるアヤカ。突き出た岬。はるか遠くに輝く白亜の城砦、施設アメリカ。

僕はからだを前に傾けて右手を伸ばし、人差し指の第二関節で、涙を下から上へと拭っていく。皮膚はいかにも滑らかだが、指で吊られてかすかに抵抗する。右頬と左頬とを代わるがわる拭う。涙は指の折り目に沿って伝い落ち、中指の背にまで垂れた。ヘレンの目は、焦点を結んでいない。僕の右側、はるか後方の湖を幻視している。気を紛らわすために発言せざるを得ない。

「水辺じゃないけど、海辺だったら、野行き山行き海辺行き、ってのがあったな。僕たちがここにたどり着くまでの行路を表しているみたいだね」  

アルファはどうなった、とは、敢えて口にしなかった。ヘレンは僕を、そして胴乱を見、何かの区切りをするようにまばたいた。僕の人差し指は最後の涙をすばやく受けとめる。水平移動の際に、指の膝頭が鼻梁に当たった。右手を引っ込め、口に持ってきて、舌先で舐めた。思っていたほどしょっぱくない。顔を上げてヘレンを見ると、あきれた、といった表情を浮かべていた。

「ええっと、その詩は、国語の時間に習ったわ。体育館の天井から聞こえてくるお父さまの声もしゃべり方も、よく覚えてるよっ。やってみせようか?」

「やめてくれよな。思い出して、泣いちゃうじゃないか」

口調が急に明るくなったので、こちらはほっとする。

ヘレンは、意気高揚と消沈、快活と悲哀の間を、頻繁にスウィッチバックする。感情に翻弄されているのか、それとも感情をすばやく切り替えているのか、あるいは、本来の性格から来るのか、それとも記憶の回復がそうさせているのか、僕は判断できない。

「海が何のことかよく分からなかったな。今でもね。水辺にしておきましょうよ」

いくらか脚色して、唱えてみせた。

「野行き山行き水辺行き、宵やみ丘に花を敷き、つぶら瞳の君ゆゑに、うれひは、……ちょっと待った。声だけだったんだね。文字は教えられなかったんだね?」

「文字って何?」

本当に知らないことが明らかに見てとれる目と口の開き方だ。

たしかに、ヘレンたちのいた集合住宅の部屋には、キーボードがなかった。

「やっぱり」

演台の後ろに掲げられた額を思い出した。Lern macht Frei と書いてあった。学習は自由をもたらす。そのスローガンは脱出と帝国の建設によって実現されたか? いかにも怪しい。もともと実現させる意図を含まない、アブストラクトな絵画として掲げられていたのだから。あるいは、諧謔として。あるいは、絶望として。

「文字とは、これから、ベータに伝える予定の、書き言葉さ。君にも伝えよう」

ヘレンは身を乗り出してきた。坐り直したせいで乳房が揺れ、肋骨に当たって湿った音をかすかに立てた。

「思い出しただけじゃまだ足りないの?」

右目は不安に、左目は好奇心に駆られて、きらりきらりと輝いている。

「足りない。記憶は、いつ死ぬか分からない個体のような媒体に載せておくだけでなく、硬いデジタル信号にして帝国で共有したほうがいい。それを元に歴史が作られる。99パーセントが失敗からなる歴史だ。だが、なけなしの貴重な教訓が、そこから得られる」

教訓の内容が、現在の相対化であることは、黙っておいた。

父と真っ向から対立する行動をとり始めたなとつくづく思う。大それたことだ。どうか、これが反抗期の名残の仕業なんぞではないように。

父の言葉が恐怖の雷のように落ちてきた。

〝全滅の可能性があるな〟

一方、顔のまわりにモンシロチョウを飛び回らせながら、ヘレンは歌うように言う。

「やりたいことをやりなさい。いいわよ。私のぶんは受けて立つわ。だけど、責任とってねっ!」

「…………」


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