火の利用は、よくない。記憶の回復と文字の学習は、いい。
さあ、本当にそういう判断でかまわないのか? ヘレンの言ってくれた、いいわよ、は、ありがたいが、他に誰の許しを得てやっているんだ? ヘレンがそう言うのは当然だ。 例外であるヘレンを勘定に入れなければ、自分勝手にやっているだけだろうが。ヘレンを壊し、へレンの家庭を壊し、終には帝国を壊し……、もしかして極悪の大罪を実行中じゃないのか? 失敗したら、責任は、いくらとってもとりきれない。帝国の人口分の回数だけ切腹してもなお足りない。それは結局、絶対無責任と同じではないのか? いくら考えた末のこととはいえ、未だに懐疑を引き摺りながら決行するとはけしからんではないか! しかし、責任をとるとらないの話以前に、いまや、いつ殺されてもおかしくない状況にある。ヘレンが記憶を取り戻したことを、メノトは感づいているだろう。モーゼも、そのうちに。ヘレンがいくらとぼけても、記憶が回復したことを、日常をともにする者には隠しきれない。メノト経由で発覚する可能性もある。いまこれからする別のことも隠しきれないだろう。前者がばれた場合でさえ命が危ない。ましてや後者がばれたらば生きていられるはずがない。モーゼは、憤怒すると、相手のこめかみを両手で挟み、吊り上げて、かしわ手を打つように潰すそうだ。あるいは、市中引き回しの上処刑。死ぬのは怖くないが、時間を稼ぐためには、戦術を決定し、それに則って、迅速に動かねばならぬ。僕はまずヘレンの友達らの記憶の回復に努める。ヘレンに手伝ってもらわなくてはならない。優勢を達成するには、二つの選択肢がある。記憶を取り戻した者たちに、元のままである振りをしてもらい、一定数以上に達してから、一斉に正体を明かしてもらうか、最初から、記憶を回復して得られた驚きと喜びを身をもって示してもらうか。ヘレンだけしか記憶を取り戻せなかったと、ほとほと落胆する結果に終わることさえあるだろうが。その時は死ぬしかないな。不倫がばれたら? ああ、即死だな。
おっと、続いているヘレンの話を相当に聞き逃した。気持ちを切り替えよう。
「……授業中、モーはいつも私のそばに坐りたがったの。いちいち逃げるのもめんどくさいので、好きにさせといたけど。あいつ、メノトの長男なのよ。私たちは乳兄妹なの」
その可能性があるとは思っていたが、はっきり聞かされると、動揺を抑えられない。乳兄妹だったし言い寄ってこられてたから他に選択枝はなかった、などという慰めを口にしてもらいたくないので、あえてこちらからモーゼについて語る。
「モーゼは大喜びしたと君は言うけれど、自分の子だとどうして思えたのだろう? 皮膚の色が違うじゃないか」
「片方が濃くっても、白っぽい子が生まれることは時々あるの。それに、子供が、たとえ何かがあった結果として生まれたとしても、ここの男はあまり気にしないのよ。況や、女をや、よ。別にタダヨシを安心させるために言ってるんじゃないわよ。現実がそうなの。女はちっとも気にしないわ。何したかは平気で黙ってるし。黙ってるうちに、たちまち忘れるし。あなたにはまだなかなか分からないでしょうね、こんなふうなここの感じ」
そういう事情が感じの問題であるとは思ってもみなかったが、ここの感じを僕が分かるようになる前に、記憶を取り戻してしまったヘレンが、わかっていたはずの感じを、僕よりも分からなくなる可能性だって、ある。
「かなちゃんがうばずめなのでかわいそうだからアルファを養子にやったの。今思うよ、アルファこそがかわいそうだったなって。うばずめ、差別用語かしら。不妊症患者かな。患者もへんだわね。言いかた、考えといてね。でね、十三夜の谷に行く理由の一つは、そこにかなちゃんとアルファがいるからよ。いるっていうことをあなたのおかげで思い出したの。戦争の前に会っただけ。それからは会ってないの。だって、忘れてたんだもの」
だもの、と発声する声が、涙のように潤んで震えた。回復された記憶の何割が思い出すべきでなかったものか。その割合がとても高いのを見越してなおかつ僕は踏み切ったのだが。
どうも、しゃべるのはよくないようだ。結局泣かせてしまう。黙っていよう。なにか手作業でもしながら。
一掬スミレを摘んで、青紫色の香りに注意を奪われそうになりながらも、茎に親指の爪で筋をつけて(爪を噛むから筋が深く入らない)、両手で茎をつまんで開いて(汁が指先につく)、拡がったそこに、次のスミレの茎を刺し入れて、これを繰り返すと(一度、茎を切り口まで裂いてしまった)、そのたびに汁が出て、指先が濡れ、匂いが指に滲み、爪の裏に繊維がたまり、最後に長い茎を持つスミレを採り上げて、端まで裂けないように切り口を左手の人差し指と親指で抓んでおいて、先頭のスミレの花の頭を花弁が落ちないようにそっと茎の狭間に押し込む。出来上がった。君に贈る、愛のしるし、花の首飾り。
ヘレンは、僕の作業の進捗状況を見計らっていたらしい。胡坐をかいた僕が脚で作るひし形の中央に、両足をそろえて置き、体を乗せると、右脚を伸ばして僕の左脚の上に置き、腰を下ろし、左脚を僕の右脚の上に置き、踵を力点にして尻を引き寄せ、両方の膝の裏を僕の太股に載せた。その二箇所だけで僕に触る。ただし、吐息は僕の喉にかかる。
ヘレンの顔の前で、首飾りを左右に揺らすと、掛け時計にとまっている木製のふくろうのように、目でちくたくと左右に追った。頭にまわして首に掛け、肩を両手でつかみ、上半身を引き寄せて、鼻で鼻をどかし、口に口をつけた。ヘレンがつぶやく。互いの舌が互いの口腔内に刺し違いに入っているので、判然とは聞き取れないが、綺麗な首飾り、綺麗なキスだこと、と発声したようだ。ヘレンの舌が動きながら喉と同調して音を形成するいきさつを僕の舌は体験した。首飾り、キス、いや、まだ足りない。さらに、なんらかの補完をする必要を感じた。ヘレンの首を左右から挟んで、密着状態から少し引き離した。ヘレンは僕の背中に掌を貼り付けて、目をつぶっていた。やっぱりしゃべってしまう。
「見上げてごらん、夜の星を」
まずいな、不用意だな、このせりふ。だが、もう遅かった。テキは見上げてしまったではないか。これで行くしかない。素直に夜空を見上げているヘレンを見下ろす。
二つのつぶらな瞳が、遥かな天球を反映してきらめいていた。ナイフで切り裂くように流星群が頻繁に横切るので、ヘレンの目も痛そうだ。ぎらぎら輝く大きな惑星が二個映っている。僕はインスピレイションを得て、朗々と唱える。
「ああ、君の右目は金星で、よみがえったばかりの思い出の瞬間瞬間と再会するたびに金色に輝き、君の左目は火星で、押し寄せる未来の機会機会と遭遇するたびに赤々と燃え上がる。金色は知恵の、赤色は情熱の発露。どっちにしろ片目でみられている分には、どうにか自制できるけど、君よ、両目で見つめてくれるな」
片目をつぶってウィンクするかも、というまさかの期待はむなしく、ヘレンは両目で僕をまじまじと、またもあきれたといったように、見つめている。
「ありがとう。うれしいよ。けどあなたって、やっぱりおかしいわね。ごめん、ふきだしそう」
そう言ったとたんに、目じりに皺を走らせ、目をきつく瞑り、鼻水をかすかに音立たせて、噴いた。どこがおかしかったかよくはわからないので後で考察しようと思うが、今はこれでいいのだ。泣くよりはずっといい。そこで、気がついた。いつの間にか下半身がつながっていた。
地面近くが少しへんな感じじゃない?/もう、なっちゃってるんだよ。/あら、そうだっけ。(ものすごくわざとらしく。)確認してみるわ。/おっと、動かないで。痛くはない?/全然。…あーっ、あなたはモーじゃないなあ。/残念でした。(そんなところで較べてくれるな。だが、とてもとても興奮はする。)/ああ、タダヨシ、タダヨシ! どうしてあなたはタダヨシなの?/しかたないだろうに。モーゼみたいにはなれないしなりたくもないよ。(などと、ふざけあってから、ふいに、まじめな話。)妊娠は?/うーん、どれどれ?(ヘレンは再び夜空を見上げ、月を探す。)あれじゃあ、時期はずれだなあ。残念。/本気で残念?/(僕を見つめた。)私はとても健康です。いっくらでも子供を産んで、育ててみせるわ。/心強いお言葉、承った。/だからといって(首をねじって、谷間に向かって、はっ、ため息をついた。)/だからといって?(応答を待つ。ヘレンは首を元に戻すと額に皺を寄せ、)/無造作に、しないで。(どっちがだよ! だが、そんなことは言わない。正反対を言う。)/とんでもない。 さっきは確かにうっかりしてた。すまない。(頭を下げさえした。)/約束してね。(気分を直したかのように微笑む。)/うん。(僕はいったい何を約束させられたのだろう。えい、余計なことは考えるな。) 今は、ほら、専念してる。/(下を向いて、) い立たせてるわね、厳樫の元まで ふふ。/行き行きて行き止まったよ。どうしてくれる?/ひとまず引けば?。/はい、引いたよ。/いいんじゃない? えーと。野行き 山行き。 そいで、水辺行き、にしたんだっけ?/うん。そして、紫野行き 標野行き、と本歌につながる。/ああ、そういうのもあったなあ。そこ、あの、そこは、もちょっと後で。ふっふ。/紫の匂へる妹を(すでに濃厚な青紫カビチーズの匂いが立ち昇っている。)/匂へる? どこが!/憎くあらば…/ほんとは 憎いんじゃないの?/人妻ゆゑに…/人妻じゃなかったらどうしてたのよ。 あ、いい。/ 我恋ひめやも……。/じゃ、証拠を出してよ。/そろそろなんだ、証拠が出るのが。/あらそう?、どうぞどうぞ。/お言葉に甘えて。失礼します。/私も 潮 かなひぬ あああ 今は 漕ぎ出でな!
ヘレンの尻を両手で押さえつけた。大殿筋に力が漲った。ヘレンは僕の両脇の下を通して巻きつけた両腕に渾身かと思われるほどの力を入れて抱きついてきて、腰を、前後に、すばやく、ひと漕ぎした。
なんといふほがらかさ! 脊椎下部と前立腺と外性器は波打ち震え、一億三千万の同志が天まで届けとばかりに次から次へと飛び立った。
………………
平静状態に戻るためには、しばらく時が経つ必要があった。傍らに聳え立つ、舞台のような岩の上にノモリかハットリが居坐って、僕たちを見下ろしているような気がしてならない。肉体行為としてあらためてまた一線を越えたので、罪悪感がノモリやハットリの幻想を石舞台の上に作り上げたのだ。僕は、行為を罪悪であるとはちっとも思っていないが、結果のもたらす罪悪感を義務として引き受ける。罪悪感は他者からの(ああ、性行為が、他者を作る!)、具体的には、まずは、モーゼからの、恫喝だ。恫喝を、たとえ幻想であれ、怖れるから、というよりは尊重するから、恫喝が鎮座するような岩の天辺を、見上げられない。勝手に神棚を作っているに過ぎないのだが。
僕たちは岩陰から逃げた。
「早くここに入りな」
鼻歌を歌っているヘレンを胴乱に入れて担いで降りる。さっきも一応担いだことになるが、その記憶と較べてみると、意外にも相当重い。ヘレンめは、天真爛漫、歌うだけでなく、僕の頭をボンゴにしてサンバのリズムでひっぱたく。坐ったまま余韻のベリーダンスを踊る。落ち着きのない女だ。僕は右に左によろめく。よろめくが脚をつっぱって踏みとどまり、そのたびに奮い立つ。こうであれ、ああであれ、どうであれ、一生担いでいくぞ、などと、若者らしく、激しく独白する。
ねえ、連れてって。ヘレンの言葉が、背中の胴乱からではなく、僕の頭の中で繰り返された。さらに、ヘレンではない別の誰かがささやいた。
このまま逃亡しろ。こうなりたいがために、彼女に記憶を取り戻させたんだろう?。
すぐさま、ふざけるな、と言い返してやった。
硫黄の匂いが漂ってきた。眼下には、闇を透かして横たわる十三夜の谷。白い湯気の下にコバルトブルーの池が見える。