谷川を隔てた向こう側の斜面は、湯気に見え隠れする白黄茶色の岩肌を最下層に、淡い緑の草原を中層に、ほとんど黒に近い照葉樹林帯を上層に配して、中層と上層の境目を水平に保ちながら立ちはだかっていた。こちら側の斜面の鏡像となっているはずだ。毛羽立ちのように樹影を連ねる山の端は、ゆっくりと傾斜しながら東へ伸びているので、草原との距離が縮まっていき、終には暗緑色の楔となって夜空を刺していた。その先端からしばらくは草原と岩肌が続くものの、やがて麓のジャングルに飲み込まれてしまう。
暗緑色の楔が指差すほうを見晴るかしても、湖面は見えない。そのかわりに大森林が、所々を月光によって映えさせたり翳らせたりして、波打つように展開していた。横一線をなすその果てからは、無数の星たちが精子のようにわらわらと湧き上がってくる。
再び前面の斜面に眼を戻し、ほぼ水平の境目を見ていると、或る妄想にとらわれた。
この渓谷は、元は火山湖で、あの水平線はその水際だった。ある時、湖の一部が決壊し、水位が下がった。今見える池だけが底に残った。当時の強烈な酸性土のせいで、草はなんとか生えても、樹木は生育できない。
僕はコバルトブルーの奔流がジャングルの向こうの湖へと流れ込むのを想像しながら、徐々に傾斜を急にしていく山腹を、時々草に滑りながらも、頭の中で水位を下げつつある水面に歩調をあわせて下っていく。いや、歩調に合わせて、頭の中で水位が下がっていく。水位が下がっても船の喫水線は一定であるように、僕は下がりつつある水際を常に深みに向かって歩いているように思ってしまう。
やがて草原が疎らになり、硫黄のかさぶたを被った軽石と砂礫からなる、わずかながら熱を帯びた斜面となった。足の裏で崩れる砂礫の音に、水音の類似が紛れていないかと聞き耳を立てた。
聞こえてきたのは、竹で編んだ胴乱の軋む音と、笑っているような寝息だった。くー、ふふ。くー、ふふ。歯軋りの音も聞こえた。どんな夢を見ているのだろう。重心がやや左に寄っている。竹の格子を通して、背骨の左側に、かすかな吐息を感じる。左頬に格子の跡がつくことだろう。
赤ん坊でなくとも眠ると重くなるものなのか。のけぞって尻餅をつかないように、よほどの前かがみを維持しなければならない。
眠りと重さは、ヘレンを、その個性から後退させ、生理と物理に還元したかのようだった。だが、還元は、むしろ強い凝集となり、僕に訴えかけてきた。あからさまな、捨て身の無防備として、僕の心を捉えた。これこそが言語以前の親和力だ。斥力ではなく、引力なので、のけぞりそうになるほど強く僕を引っ張る。
突然、頭蓋骨全体が鳴り響き、視野いっぱいにたくさんのフラッシュが焚かれ、右側頭部前部に激痛が走った。僕は唸り声を上げながらしゃがみ込んだ。右手でそこを触ると、刻々と膨れてくるのが分かった。ヘレンが僕の勝手な解釈に怒ってぶん殴ったのか。まさか。周囲は岩と礫がころがる斜面だ。僕は両手を地面に這わせて探してみる。隕石が当たったとしか考えられない。まるで宇宙の工事現場から降ってきたカナヅチだ。流星群と関係があるのだろうか。僕もヘレンも危ないところだった。隕石ならば熱いはずだが、地面もまた熱いのでみつからない。みつけたからといってどうなるものでもないが。ヘレンは軽くいびきをかきながら熟睡している。
右手で触ると大きくてぶよぶよのたんこぶが出来ていたが、出血はしていなかった。右目まで痛くなってきた。
立ち上がって恨みがましく見上げる夜空には、天体たちが、全方向に凝集していた。
一方向に凝集するのではない。全方向に拡散するのでもない。極めてありえない、語義矛盾が実現されている。全方向凝集の現実は、吐きたくなるほどの不安を催す。なんというこのありさま、この異様、宇宙の秘密のあからさまな夜々の開陳。空を見上げて、平気でいられるはずがあろうか。しかも、彼方も我も動いている。不安に駆られ、また地面にしゃがみたくなった。張り付きたくなった。天から降ってきた今の災難を思い出し、冷や汗が出そうだ。たとえ張り付いても、この惑星は回転しながら酔歩しているので、僕が酔わないでいられるはずがあろうか。複雑に酔うのは当然のことだ。酔いからは絶対に脱出できない。個体から別の個体へ仮想的に移動した場合と同じように、宇宙のどこであれ別の天体に移動しても状況は変わらない。どの天体から空を見ても空は同じだ。同じ経験しか経験できない。この、きりのないデジャヴュ、脱出不可能性は、もともと閉所恐怖症を患う僕を追い詰める。ましてやいつ飛び道具を使われるか分からないとなると、正気を保つために並大抵ではない努力を要する。
斜面が緩くなり、そろそろ谷の底に着くころとなった。
扇子を開いて垂直に立てたような岩が、谷川に平行に何枚も立っていた。ステゴザウルスが何頭も背中だけ出して埋まっているみたいだ。溶岩流を氷河か水が削り、成分の硬度差に従って山と谷が出来たのだろう。あるいは、誰かが壊したのかもしれない。折れ曲がる通路に沿って谷川から生ぬるい水蒸気が硫黄の息を吐く白い大蛇のように押し寄せてくる。柱状節理にしずくが伝い流れている。迷路のような隙間を縫って進んだ。右往左往が不安感を掻き立てるので、引き戸が引かれるように岩が左右に移動してまっすぐな道が開けるのだという無理な錯覚に自らを陥らせることを試み、ある程度は成功した。
川原に出た。だれもいない。川の水は、軽快に循環コードを奏でて流れつつあった。向こう岸は水蒸気に遮られて見えない。足跡をたどって川縁に来た。砂礫ではない不自然に平らな場所がある。そこが渡り口なのだろう。乗ってみると珍しい感触を覚えた。
そこから右足を出して川に入れた。思わず足を引っ込めた。熱い。湯の川だった。あのコバルトブルーの池は温泉で、そこから流れ出ているのだ。決壊の後に氷河が谷を覆ったとしたら、温泉は氷河を下から溶かして穿つ陰謀として働き続けたことになる。
傷口がむず痒くなった。足元を見た。温まった、茶色と薄汚れた白のまだら模様で覆われた面が、砂礫に覆われて川に向かってやや傾いた状態で露呈していた。増水か流路の変化によって、埋まっていた断層面が現われたのか。しかし、よく見ると、所々穴が開いている。縁は腐食している。ということは、板状の物体なのだ。茶色い部分を足で擦った。雲母のような欠片になった。簡単にこそげ落とせた。白い部分には、黒い斑がついている。すべての斑を調べた。二箇所に交差点がある。不思議な現象だ。もっとよく見てみたくなった。左右の足で、砂礫と茶色い欠片を、地を剥さないように注意しながらどかしていく。平面は時々気色の悪い音を立てた。ついに、ヘアピンカーヴしているところを見つけた。途中のはげているところを補って、二つの交差点とカーヴをつなげてみた。
あっと声を上げてしまった。僕は、ひらがなで〝ゆ〟と書いてある大看板の上にいたのだった。ここには、かつて、文字があったのだ。しかも茶色い欠片は鉄さびだ。看板はブリキ製だ。ブリキを作るだけの文明があったのだ。
いったい何が起きたのか。僕はどこにいるのか。ここは、本当は、どこなのか。
かつて僕は父に施設ニッポンの外はどうなっているのかと尋ねたことがある。
意味あるものは何もない。/けど何かあるんでしょう?/茫々たる虚無が広がっているだけだ。
茫々たる虚無とはこの状況をさすのだろうか。
どうやら文明が滅んだ跡に僕は立っているらしい。
ずっと恐れてきた悪夢がいよいよ現実のものとなった。
時々身震いしながら、熱い川を渡る。今までに渡った多くの川を思いだし、とうとうこんな川をも渡るに至ったのか、と感慨にひたった。
向こう岸には、ほぼ垂直の壁が迫り、甲殻類の巣穴のような横穴が並んであいていた。
川辺に着くと、湯煙を通して、いくつかの影が見えた。
砂遊びをしていたベータが、あっ、いた!、と叫んだ。腕組みをしたメノトが傍らで監視している。
揺すりながら、胴乱を、叩いた。ヘレン、着いたよ。腰を下ろし、両手をつき、前に屈む。裏声のあくびが聞こえた。僕のうなじをステップにして跳び下りた。そろえた踵が目の前の砂地にめり込んだ。その上に尻が降りた。這ってきたベータを抱き上げると、形相すさまじいメノトのそばに歩み寄っていった。
メノトがヘレンに耳打ちするが、僕には聞こえてしまう。「おひー様、あまり調子に乗らないように」 ヘレンは、さわやかに笑うと言い返した。「心配御無用。私は、乗り物以外には、どんなものにも、乗りません!」 メノトがこちらを睨みながらさらに声を潜めたので、さすがにもう話は聞こえなかった。
ヘレンは、抱いているベータに話しかけながら、斜め後ろにメノトを従えて、壁際に進む。メノトに五六歩遅れて僕はついて行く。
崖の窪地に坐り込み、空を見上げながら、わめいたり手を突き上げたりしている子供がいた。数歩離れたところに、長身の女が立っていた。浮舟だった。
ヘレンが振り向く。左頬に格子の跡がついた顔をかしげ、顎を下流のほうに向けた。
「明日の朝、左端の部屋に来て下さい。今日は来ないように。ここでしばらく待っていて下さい。迎えの者が来るでしょう」
ヘレンは後ろを向き、また、こちらを向いた。浮舟がゆっくり深々とお辞儀をした。僕は呆然としていて、挨拶する機会を危うく失いかけた。だが、失ったほうがよかった。なにせ、お久しぶりです、などと言ってしまったのだから。
「かなちゃんよ」
こちらをむいたまま、僕の驚きを無視し、間を置かずに、やや声を大きくして言った。
「アルファ、おいで」
アルファは、這ってやってくると、正座した。三つ指ついてお辞儀をした。しつけがよすぎるな。ゆっくりと上げた面に広がる好奇心に溢れた表情が、湖面に映った僕のそれを思い出させた。似ていないこともない。アルファは、何かに気づいたように急に目を見開いた。額に皺が寄った。僕はため息をついた。ふと、或る思いが心に湧いた。子供たちを一所懸命育てることだけが生き物としての役割であって、その他一切は単なる野心に過ぎない……
僕も腰を下ろして、話しかけた。
「お空に、向かって、なにを、してたの?」
しばらくは、していた何かを思い出しているのだろう、目を回転させながらにこにこするばかりで、答えなかった。やっと、僕の顔に目の焦点を合わせた。
そして、にこにこ顔の下側ついている口を突き出して、小鳥が囀るように言ったのだ。
「もちもち、ちてたの。もちもち、ちてたの」
衝撃を受けた。僕が願ってはいるもののどうしても出来ない対応を、あっさりやってのけている。
「もちもち、ちてたの。いっぱい、ちてたの」
母親によく似たつぶらな瞳は、僕を平然と見上げている。一応確認した。
「もしもし、してたの。いっぱい、してたの、かな?」
「うん!」
「ほーっ、きみは、お空と、お話、してたんだね?」
「うん! もちもち、ちてたの。もちもち、ちてたの。いっぱい、ちてたの」
このような子が僕の娘であるとは、極めて興味深い。
「お空は、いったい、なんて、言ってたのかなあ」
ドキドキしながら訊いてみた。こちらもたくさんの疑問を抱えているのだよ。アルファは、両肘を振るって勢いをつけ、坐ったまま僕に向かってジャンプすると、乳臭い上半身を前に倒してきて、上目遣いに、莞爾としてささやいた。
「それはね、それはね、ふふふっ、ひ み ちゅ」
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暗緑色の楔が指差すほうを見晴るかしても、湖面は見えない。そのかわりに大森林が、所々を月光によって映えさせたり翳らせたりして、波打つように展開していた。横一線をなすその果てからは、無数の星たちが精子のようにわらわらと湧き上がってくる。
再び前面の斜面に眼を戻し、ほぼ水平の境目を見ていると、或る妄想にとらわれた。
この渓谷は、元は火山湖で、あの水平線はその水際だった。ある時、湖の一部が決壊し、水位が下がった。今見える池だけが底に残った。当時の強烈な酸性土のせいで、草はなんとか生えても、樹木は生育できない。
僕はコバルトブルーの奔流がジャングルの向こうの湖へと流れ込むのを想像しながら、徐々に傾斜を急にしていく山腹を、時々草に滑りながらも、頭の中で水位を下げつつある水面に歩調をあわせて下っていく。いや、歩調に合わせて、頭の中で水位が下がっていく。水位が下がっても船の喫水線は一定であるように、僕は下がりつつある水際を常に深みに向かって歩いているように思ってしまう。
やがて草原が疎らになり、硫黄のかさぶたを被った軽石と砂礫からなる、わずかながら熱を帯びた斜面となった。足の裏で崩れる砂礫の音に、水音の類似が紛れていないかと聞き耳を立てた。
聞こえてきたのは、竹で編んだ胴乱の軋む音と、笑っているような寝息だった。くー、ふふ。くー、ふふ。歯軋りの音も聞こえた。どんな夢を見ているのだろう。重心がやや左に寄っている。竹の格子を通して、背骨の左側に、かすかな吐息を感じる。左頬に格子の跡がつくことだろう。
赤ん坊でなくとも眠ると重くなるものなのか。のけぞって尻餅をつかないように、よほどの前かがみを維持しなければならない。
眠りと重さは、ヘレンを、その個性から後退させ、生理と物理に還元したかのようだった。だが、還元は、むしろ強い凝集となり、僕に訴えかけてきた。あからさまな、捨て身の無防備として、僕の心を捉えた。これこそが言語以前の親和力だ。斥力ではなく、引力なので、のけぞりそうになるほど強く僕を引っ張る。
突然、頭蓋骨全体が鳴り響き、視野いっぱいにたくさんのフラッシュが焚かれ、右側頭部前部に激痛が走った。僕は唸り声を上げながらしゃがみ込んだ。右手でそこを触ると、刻々と膨れてくるのが分かった。ヘレンが僕の勝手な解釈に怒ってぶん殴ったのか。まさか。周囲は岩と礫がころがる斜面だ。僕は両手を地面に這わせて探してみる。隕石が当たったとしか考えられない。まるで宇宙の工事現場から降ってきたカナヅチだ。流星群と関係があるのだろうか。僕もヘレンも危ないところだった。隕石ならば熱いはずだが、地面もまた熱いのでみつからない。みつけたからといってどうなるものでもないが。ヘレンは軽くいびきをかきながら熟睡している。
右手で触ると大きくてぶよぶよのたんこぶが出来ていたが、出血はしていなかった。右目まで痛くなってきた。
立ち上がって恨みがましく見上げる夜空には、天体たちが、全方向に凝集していた。
一方向に凝集するのではない。全方向に拡散するのでもない。極めてありえない、語義矛盾が実現されている。全方向凝集の現実は、吐きたくなるほどの不安を催す。なんというこのありさま、この異様、宇宙の秘密のあからさまな夜々の開陳。空を見上げて、平気でいられるはずがあろうか。しかも、彼方も我も動いている。不安に駆られ、また地面にしゃがみたくなった。張り付きたくなった。天から降ってきた今の災難を思い出し、冷や汗が出そうだ。たとえ張り付いても、この惑星は回転しながら酔歩しているので、僕が酔わないでいられるはずがあろうか。複雑に酔うのは当然のことだ。酔いからは絶対に脱出できない。個体から別の個体へ仮想的に移動した場合と同じように、宇宙のどこであれ別の天体に移動しても状況は変わらない。どの天体から空を見ても空は同じだ。同じ経験しか経験できない。この、きりのないデジャヴュ、脱出不可能性は、もともと閉所恐怖症を患う僕を追い詰める。ましてやいつ飛び道具を使われるか分からないとなると、正気を保つために並大抵ではない努力を要する。
斜面が緩くなり、そろそろ谷の底に着くころとなった。
扇子を開いて垂直に立てたような岩が、谷川に平行に何枚も立っていた。ステゴザウルスが何頭も背中だけ出して埋まっているみたいだ。溶岩流を氷河か水が削り、成分の硬度差に従って山と谷が出来たのだろう。あるいは、誰かが壊したのかもしれない。折れ曲がる通路に沿って谷川から生ぬるい水蒸気が硫黄の息を吐く白い大蛇のように押し寄せてくる。柱状節理にしずくが伝い流れている。迷路のような隙間を縫って進んだ。右往左往が不安感を掻き立てるので、引き戸が引かれるように岩が左右に移動してまっすぐな道が開けるのだという無理な錯覚に自らを陥らせることを試み、ある程度は成功した。
川原に出た。だれもいない。川の水は、軽快に循環コードを奏でて流れつつあった。向こう岸は水蒸気に遮られて見えない。足跡をたどって川縁に来た。砂礫ではない不自然に平らな場所がある。そこが渡り口なのだろう。乗ってみると珍しい感触を覚えた。
そこから右足を出して川に入れた。思わず足を引っ込めた。熱い。湯の川だった。あのコバルトブルーの池は温泉で、そこから流れ出ているのだ。決壊の後に氷河が谷を覆ったとしたら、温泉は氷河を下から溶かして穿つ陰謀として働き続けたことになる。
傷口がむず痒くなった。足元を見た。温まった、茶色と薄汚れた白のまだら模様で覆われた面が、砂礫に覆われて川に向かってやや傾いた状態で露呈していた。増水か流路の変化によって、埋まっていた断層面が現われたのか。しかし、よく見ると、所々穴が開いている。縁は腐食している。ということは、板状の物体なのだ。茶色い部分を足で擦った。雲母のような欠片になった。簡単にこそげ落とせた。白い部分には、黒い斑がついている。すべての斑を調べた。二箇所に交差点がある。不思議な現象だ。もっとよく見てみたくなった。左右の足で、砂礫と茶色い欠片を、地を剥さないように注意しながらどかしていく。平面は時々気色の悪い音を立てた。ついに、ヘアピンカーヴしているところを見つけた。途中のはげているところを補って、二つの交差点とカーヴをつなげてみた。
あっと声を上げてしまった。僕は、ひらがなで〝ゆ〟と書いてある大看板の上にいたのだった。ここには、かつて、文字があったのだ。しかも茶色い欠片は鉄さびだ。看板はブリキ製だ。ブリキを作るだけの文明があったのだ。
いったい何が起きたのか。僕はどこにいるのか。ここは、本当は、どこなのか。
かつて僕は父に施設ニッポンの外はどうなっているのかと尋ねたことがある。
意味あるものは何もない。/けど何かあるんでしょう?/茫々たる虚無が広がっているだけだ。
茫々たる虚無とはこの状況をさすのだろうか。
どうやら文明が滅んだ跡に僕は立っているらしい。
ずっと恐れてきた悪夢がいよいよ現実のものとなった。
時々身震いしながら、熱い川を渡る。今までに渡った多くの川を思いだし、とうとうこんな川をも渡るに至ったのか、と感慨にひたった。
向こう岸には、ほぼ垂直の壁が迫り、甲殻類の巣穴のような横穴が並んであいていた。
川辺に着くと、湯煙を通して、いくつかの影が見えた。
砂遊びをしていたベータが、あっ、いた!、と叫んだ。腕組みをしたメノトが傍らで監視している。
揺すりながら、胴乱を、叩いた。ヘレン、着いたよ。腰を下ろし、両手をつき、前に屈む。裏声のあくびが聞こえた。僕のうなじをステップにして跳び下りた。そろえた踵が目の前の砂地にめり込んだ。その上に尻が降りた。這ってきたベータを抱き上げると、形相すさまじいメノトのそばに歩み寄っていった。
メノトがヘレンに耳打ちするが、僕には聞こえてしまう。「おひー様、あまり調子に乗らないように」 ヘレンは、さわやかに笑うと言い返した。「心配御無用。私は、乗り物以外には、どんなものにも、乗りません!」 メノトがこちらを睨みながらさらに声を潜めたので、さすがにもう話は聞こえなかった。
ヘレンは、抱いているベータに話しかけながら、斜め後ろにメノトを従えて、壁際に進む。メノトに五六歩遅れて僕はついて行く。
崖の窪地に坐り込み、空を見上げながら、わめいたり手を突き上げたりしている子供がいた。数歩離れたところに、長身の女が立っていた。浮舟だった。
ヘレンが振り向く。左頬に格子の跡がついた顔をかしげ、顎を下流のほうに向けた。
「明日の朝、左端の部屋に来て下さい。今日は来ないように。ここでしばらく待っていて下さい。迎えの者が来るでしょう」
ヘレンは後ろを向き、また、こちらを向いた。浮舟がゆっくり深々とお辞儀をした。僕は呆然としていて、挨拶する機会を危うく失いかけた。だが、失ったほうがよかった。なにせ、お久しぶりです、などと言ってしまったのだから。
「かなちゃんよ」
こちらをむいたまま、僕の驚きを無視し、間を置かずに、やや声を大きくして言った。
「アルファ、おいで」
アルファは、這ってやってくると、正座した。三つ指ついてお辞儀をした。しつけがよすぎるな。ゆっくりと上げた面に広がる好奇心に溢れた表情が、湖面に映った僕のそれを思い出させた。似ていないこともない。アルファは、何かに気づいたように急に目を見開いた。額に皺が寄った。僕はため息をついた。ふと、或る思いが心に湧いた。子供たちを一所懸命育てることだけが生き物としての役割であって、その他一切は単なる野心に過ぎない……
僕も腰を下ろして、話しかけた。
「お空に、向かって、なにを、してたの?」
しばらくは、していた何かを思い出しているのだろう、目を回転させながらにこにこするばかりで、答えなかった。やっと、僕の顔に目の焦点を合わせた。
そして、にこにこ顔の下側ついている口を突き出して、小鳥が囀るように言ったのだ。
「もちもち、ちてたの。もちもち、ちてたの」
衝撃を受けた。僕が願ってはいるもののどうしても出来ない対応を、あっさりやってのけている。
「もちもち、ちてたの。いっぱい、ちてたの」
母親によく似たつぶらな瞳は、僕を平然と見上げている。一応確認した。
「もしもし、してたの。いっぱい、してたの、かな?」
「うん!」
「ほーっ、きみは、お空と、お話、してたんだね?」
「うん! もちもち、ちてたの。もちもち、ちてたの。いっぱい、ちてたの」
このような子が僕の娘であるとは、極めて興味深い。
「お空は、いったい、なんて、言ってたのかなあ」
ドキドキしながら訊いてみた。こちらもたくさんの疑問を抱えているのだよ。アルファは、両肘を振るって勢いをつけ、坐ったまま僕に向かってジャンプすると、乳臭い上半身を前に倒してきて、上目遣いに、莞爾としてささやいた。
「それはね、それはね、ふふふっ、ひ み ちゅ」
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