ベータを顎の下に抱いたヘレンは、いち、いっぱい、と大声で繰り返す息子にささやき返しながら、ゆるりゆるりと歩いて行く。横に並ぶ、アルファを肩に担いだ浮舟と会話もする。頭が、右下から左上に行ったり来たりしているのでそれと分かる。浮舟はほぼ前を向いたままだ。アルファが頭に右腕だけでだがしがみついているので動かしにくいのだろう。メノトは、話が聞こえない程度に後に控えてついていく。

アルファが左手を天に突き上げながら仰向け気味に振り返って僕を見た。笑顔のまま大口をあけて何かを言ったが聞こえない。宇宙の秘密のひとつを教えてくれようとしたのか。その内容もさることながら、小鳥の囀りのような声をもう一度聞きたいがために、一歩踏み出しそうになる。

明日の朝までにヘレンと浮舟の間で交わしうる果てない話題の内で、何が了解され、何が今後の問題として残されるのか、想像もつかない。僕もとりあげられるはずだ。その内容は想像したくない。ヘレンがどこまで僕のことを浮舟に語るのかは分からないが、語った分に応じて、彼女たちの僕に対する共同の態度が定まり、朝会ったら言い渡されるだろう。彼女らの共同声明にはできる限り応じる覚悟だ。が、同時に、子供たちを育てるために僕ができることについて、提案をするつもりだ。その内容が声明の中に部分的にでも入っている可能性も期待でき、その場合、話し合いは比較的容易に進むだろう。えらい迷惑であると言われた場合は、説得に努めよう。いずれにせよ、子育てを任せきりにすることはできない。

確固たる自信があって、子育てに介入するのではない。そもそも、僕の子供だからと言ってどれほどのことをする権利があるのだろう。さらに、そう問う前に、ひっかかることがある。僕の子供とはいったいどういうことなのだろう。 〝の〟は、所有を意味するのか? 独立した生命体を、全面的に動かし利用し収奪し享受し処分する、つまり、所有することなどできない。では、子供にその遺伝子の半数を僕の遺伝子の半数のコピーとして供与したことから権利が生まれるのだろうか。僕の場合、供与した事実を後になって知ったので(供与することになる可能性を知らなかったとは言わせないぞ。ああ、あの夜の狂乱を思い返すと恥ずかしくてアルファとべータに向かい合えない。)、供与から義務は生じても権利は生じにくい。しかし、半数の遺伝子を共有するのだから、モノではなく血と肉を共有するのだから、所有という観念は依然として残る。だが、僕の遺伝子と言う場合の〝の〟はどうだろうか? 遺伝子のひとつのまとまりが所与としての僕を作り上げてはいるだろうが、僕がそれらを所有しているか? むしろ、それらに所有されているのではないか? 僕は、僕という、所有する主体の存在を怪しんでいるのだ。つまり、所有する主体の存在が曖昧なので、何者かを所有するとか、共有するとかいう観念も曖昧なのだ。だから、そこから確たる権利は生じない。

だが、所有だけではなくどんな権利にも基づかず、無謀にも、子供たちを育てたいと僕は願っている。育てることによって育てる動機が実感されてくるだろうという言い訳を自分にしてしまう。あくまで強行する所存だ。

読み書きソロバンから始めよう。

もっとも僕は、教えるという行為に関して参照できる例を、モーゼ相手のニンテンドーのレッスン以外には、唯一つしか持たない。しかもそれは特異な環境の下で特異な親によって与えられた特異な体験であり、内容と方法に相当な偏向が存在したと、辛いけれども今や疑わざるを得ないので、どれだけ役に立つかは分からない。むしろその偏向を明確化し、批判することによって、僕なりの教え方を編み出していくしかない。

だがこれは、心躍るチャレンジであるようにも思える。あの思いがまた蘇る。子供たちを一所懸命育てることだけが生き物としての役割であって、その他一切は単なる野心に過ぎない……

次第に興奮してきた僕は、早くもその気になり、注意しろ、女の子には甘くするなよ、などとつぶやく始末だ。

ふいに、わけの分からない寒気に襲われて身震いした。しばらくは、その原因が分からずに狼狽していたが、その正体が、僕の宿痾となった自らの存在に対する疑いと、そこから生じる自らの行状に対するさらに深い疑いであることに思い至って慨嘆し、恐怖に駆られた。―――― 生き物の唯一の役割を果たさんとするこの僕が、実は悪魔であり、子供たちの未来を歪め、可能性を奪い、取り返しのつかない地獄の沙汰に引きずり込んで、僕を親に持った不運を呪わせないとどうして言えるのだ? もしも悪魔が後悔するとしたら、唯一、自らの子供に対しても悪魔以外の何者でもありえなかったことを後悔するのではないか? 


彼女らが湯煙の中に消えた後、流れる湯の音をしばらく背後に聞いていると、右手の上流側から、落ち着き払った声が聞こえた。

「こっちだ」

姿勢も体格もいい男が現われた。湯煙の立ち込めた視野の下に、大きな廻り舞台があって、それに乗ってヘレンらが下手に消え、それに乗ってその男が上手から現われたような感じだ。駕籠の警備をしていたトネリかもしれないが、後姿しか見ていなかったので面と向かっても判別できない。直立したまましばし間をとった。

「心配しなくていい。足もとに気をつけて」

口調が、いやに優しい。

「ありがとう」

トネリは親愛の情のこもった半眼で僕を見ながら頷いた。

「見失わないように」

トネリは背を向けて、歩き始めた。ヘレンの乗っていた駕籠の右側で護衛し、ヘレンが降りた後、駕籠を担いで運んだ男であることが分かった。濃くなったり薄くなったりする後ろ姿を追った。

湯煙が撫で回す左右の岩達は、歩み進むにつれて、奥から重なりながら現われる。幅広い道は緩やかに起伏を繰り返しつつ全体として上っていく。

ふと、処刑場に連れて行かれるのかな、と思った。岩と湯煙だけのなす非情なモノクロ風景のせいではなく、トネリの、今さっき見せた心遣いがそう思わせたのだ。現段階での執行はありえないと自分に言い聞かせたが、いったん滲み出た疑惑はもう収まらない。

後ろから誰かがつけてくるような感じがした。振り向いたが姿は見えなかった。つけてくるのはきっと僕の疑惑なのだろう。

足の裏が接する濡れた岩は、小川の底のそれとは異なり、細かな凹凸が残っているので、滑る心配はない。ヘレンというかなりの重量体を背負っての時々ずり落ちながらの苦闘に較べると、この、規則的な、足の裏の、押し、押し返される感触は、疑惑を煽られつつある者にとっては安堵しかけるほどに確かなものだ。他方、湯煙の視覚効果は不確か極まる。濃くなると、僕は白い目つぶしに包み込まれて方向感覚を失う。薄くなると、水浸しの巨大な岩たちがやや離れた位置で僕を限界づけているのが見える。頻繁で不規則なストロボ効果は不安を掻き立てる。

硫黄の匂いがさらにきつくなってきて、さらに戦場で嗅いだ血の臭いに似たものが混じり、何が出るかと警戒していると、左手に体育館のプールほどの広さの熱泉が姿を現した。泥池の表面に、裏返した椀のような泡が、ここあそこと盛り上がり、恐竜の咳のような音を立てて割れる。池の周囲には、たくさんの噴気孔が開いている。そこから、しーーっ、しーーっ、静かにしろと言っているにしてはいやにうるさい音を立てて、強い圧のかかった火山ガスが噴出し、泥池の表面をのたうちながら這い回り、一部は回転しながら僕を取り囲んでいぶかしげに点検する。立ち止まらずに歩みを進めながらも、肺の中でもガスが這い回っていることだろうと想像し、身体になんらかの影響を及ぼしかねないと疑った。深呼吸をしても仕方がないぞ、と自分に言い聞かせた。精神への影響を心配したのは失敗だった。かえって、捕らえられてしまったという閉塞感が亢進してきた。そっと左手首の動脈を触ってみると、今のところ、パニックを起こしそうなほどには速くない。ところが、そんなことをしたのがまた失敗だった。頭のあそこの辺で久しぶりにカウントが始まった。32、33、34……、ああ ……。止め方を忘れてしまった。そもそも止め方があったっけ?

もしパニックを起こしたら、一目散に谷を駆け上がるつもりだ。追いかけてくるトネリに対して、逃げてるんじゃないんだ、そこでしばらく待っててくれ、新鮮な空気を吸わせてくれ、カウントをゼロに戻させてくれ、などと懇願するのだろうか。情けない。

トネリがふいにいなくなり、岩が左右に退き奥へも尽き、眼前に池の表が現われた。胴乱を下ろして地面に伏せて置き、数歩前に進んで岩頭に登って立つ。昼間の青空の形見のようなコバルトブルーの面を、湯煙に邪魔されながらなぞっていくと、斜めに突き刺さった、漂白された棒くいのようなものが目に留まった。白っ子が仰向けになって水面に浮いているのだった。傍には軽石を刻んで作ったこぶし大の両生類も浮かんでいた。芸術家モーゼの作品なのだろう。白っ子の細長い両手が水面に出てくると、顔を下から上へとぬぐい、左右にゆっくりと広がっていく。左肘に突かれて軽石が簡単にひっくり返った。腹が膨れているので、仰向けであるほうが安定するのだろう。酔っぱらって大の字になり鼾を立てて眠っているモーゼになんとよく似ていることか。両生類とモーゼは、体形に関しては、種の隔壁を越えた双子のようだ。

「随分時間がかかったなあ。こっちはすっかり茹だってしまって、水炊き状態。わずかばかりの肉も、今や骨からほろりと剥がれ落ちるところだ」

天を向いたまま、前もって用意していたらしい非難めいた言葉を洩らした。実際に非難はしていないとは思ったが、つい返答してしまった。

「待たせて、済まなかった」 

顎を引いてお辞儀をした。遅ればせながら不審に思った。なぜ待たせたことになるのか。いつ来ることに想定されていたのか。まさか、スミレの原でかかった時間を仄めかしているのではないだろうな。

白っ子は、白骨のように痩せ細っていて、浮力がどこで発生しているか分からないほどだ。声量はなく、口調は露骨なほどシニックだ。普段はつけている目のまわりの墨がない。湯に溶けてしまったのかもしれない。

かつて、チャーリーもまた仰向けになって水飲み場に浮いていたものだった(坊ちゃん、逃げてください!)。大々の腹を、褐色のバリハイ浮島さながら突き出し、、ぶーい、ぶいぶい(最期の時だけは、ぶ、ではなく、ば、だった。バイバイ、バイバイ)、野太い声で陽気にスウィングしながら、飽きずに旋回していた。

白っ子と話をするのは二回目となる。言葉の問題はないと思う。ひとこと聞いただけだが、よく分かる。

幼かったとき、世界に同化するために、言語の習得を要請されたように、ここに来ても、同様な過程を経る必要を感じ、意識的に学ぶことによって、彼ら彼女らに接近していった。言葉が通じるようになるにつれて、彼らを個別認識出来るようになった。だが、白っ子たちについては、近づく機会が少ないので、まだ難しい。多分、この男は、大内裏で話をした五名の中にいたと思う。白っ子1だろう.白っ子1らしき男は、いかにも眠そうな様子で言う。

「星空に見とれながら眠りかけることがよくあるんだよ。今もそうなりそうだから、君、時々声をかけて目を覚まさせてくれ。こうしていると、あそこ、あの上に居るのか、ここ、この下に居るのか、分からなくなってしまうんだ。今晩は格別に素晴らしいねえ。欠けていく月、湧いてくる星、沈んでいく星、それらを、飛び散る流星群が仕切っている。うっ~とりするぞ。こちらからは手が出せない確かさが強ければ強いほど、高見の、いや底辺からの見物をする快楽もまたそのぶんいよいよ増すもんだろうが? ほら、こっちにきて、こんなふうに、大の字になって、(大の字? 字と言ったな!) 見上げて、ごらん、夜の星を。名もない星が、ぼくらを笑っている。一緒に笑おうじゃないか。そうすれば、君の心の動揺が、いくらかなりとも鎮まりはしないかな」

僕は、閉塞と揺れという二つの特定の状況においてパニくる以外には動揺しない、少なくともそのはずだ。しかし、一般には動揺してもおかしくないような事態が現在続いているので、湯に入る気分にはなれない。

「随分高い位置にいるが、このままで、失礼する」

言ったとたんに誰かに押された。振り返ろうとしたが足が離れたので、ムーンサルトを演技するはめとなり、演技中に後頭部から水没した。耳と鼻に湯が入った。白っ子の密やかな笑い声が、さらに、岸辺のあちらこちらからも押し殺した笑い声が、湯を通して聞こえた。僕を除いてみんな一緒に笑っていた。腕で掻いて頭を出し、押された辺りを見上げる。逞しい両腕が、上腕から肘、そして手首と、湯煙の壁の中にゆるゆる消えていくところだった。このようなことは何度もされてきたのに未だに慣れない。今回はさらにどういう目に遭うのだろう。

深いし熱すぎるので、抜き手で泳ぎ、岩と岩の間の入り江に避難した。右手を空に延ばして岩角を掴み、左足を湯の中で引き上げて探り当てた岩の根に乗せ、体を引き上げたところで、たんこぶを岩の角にぶつけた。あまりの痛さに奥歯を噛み締めた。体全体が、上半身から背骨を軸にして時計回りに捻れた。池に向かって振り返ることとなった。そのままの向きでドヂを反省しつつ腰を下ろす途中でケツをひっかいた。痛さよりも情けなさに体が震えた。臍のところまで上がってきた水面も、体との接触部分で、微かに震えていた。

「君は、我々の言葉を、随分上手に使えるようになったようだね」

鼻の奥がまだ痛いが、しゃべるのには支障ないだろう。声が震えてこれ以上馬鹿にされないようにと気を引き締めた。

「初めて君たちとしゃべった時は、君たちの言葉が、所々に空白があるカタカナ 文 字 の列として、僕の頭に浮かんだものだ」

文字、を、ことさら強く長く発音したつもりだが、白っ子は天を仰いだままで、その表情に何の変化もない。

「ここの言語は、君から見て、よほど変わっているかい?」

「基本的には同じだ。どちらが方言であるかは、その他の参照例がないから、判断できない。言語そのものよりも、その使われ方が奇妙だね。市民は、意思伝達のためには使っていないんじゃないか? 意志伝達には、想像を絶する阿吽のテレパシーで済ませているような気が前からずっとしているんだ。あるいは、意志伝達の必要がもはや無いのかもしれないね。ここの言語は、そんな拘束から解放され、洗練され、冗談やユーモアやパロディに溢れた詩歌や歌謡となり、際限なく消費される文化財となっている。日常生活を丸ごとオペラ化せんとする勢いだ。(日常を永遠化しようとする市民の願いがそこにあらわれている?) 僕は驚いている。学ぶにつれて、抵抗空しく僕の言葉遣いが影響されていくのを自覚できるんだ。ついには感化され、元のしゃべり方を忘れ、飲み込まれる惧れさえある」

その続きは言わないでおいた。(そうなるまえに、想起のための記録手段としての機能を君らの言語に付加しようと企んでいる。いや、既に、歌謡がその機能を持っているので、拡張と言ったほうがいいか。企みが広く成功するかどうかには自信がない。少数のサークル内ででも、僕の子供たちとその母親たちとヒトミとの間ででもかまわないから、と思っている。)

「飲み込まれるとは、穏やかではない言い方だな。さらに君が研鑽を積めば、それだけ楽園への君の同化が早まるということだろう? こちらとしては、通俗オペラ化した君の喋りを楽しめるんだもの、励まさざるをえないじゃないか。早速だが、私と今話すときにも私のように話してごらん。ためになるだろうよ。ところで、その派手な瘤はどうした。久々に見る、この世の歪みの実例だ。山賊にでも襲われたか。異民族はまず近寄れないはずだが。君に反撥する内向的な同胞や君の活動に反対する勢力のメンバーならばやりかねないがね」

聞き捨てならない。だれのことだ?

「落石に当たっただけだ。右足の怪我に較べればたいしたことはない。高いところからは僕を狙っているものがいるかもしれないが、帝国内でそんな動きがあるのか?」

「そろそろあってもいい頃だと君も思うだろうに? 私は、ないことを願う」

端から警戒はしていたものの、真剣に話をしていい相手かどうか、しばらく考え、どんな相手だったのか、思い出そうとした。

「君は、あの時僕に、ソンナ センニュウカンカラ ハヤク ダッキャクスルコトガ デキル ヨウニ と言ったよね」

そんな、から、ように、まで、また、強く長く発音した。

「ふーん、よく憶えているな」

白っ子1はヘンな咳をしながら答えた。以前も小さくて痩せていたが、これほど不健康そうではなかった。

「なにかの病気に罹っているのか?」

「そうだ。だから、ここバーデンバーデンで療養中なのだよ。私だけでなく、我々は、先天性の疑いがある障害と病気を抱えている。身体上の理由から兵役はないし、アルコールは受け付けないし、家庭を持たず男だけで生きているので、余計なことをする余裕が比較的あるだけであって、あくまで市民の一部であり、特定の職能を持っているわけではない。市民であり、かつ、消滅しかけのエスニックに過ぎない。君の抱いている、市民の外にいる官僚であるなどという先入観は大間違いだ」

「先入観ではない。実際に特定の職能を持っていると思う。モーゼに対しての助言者としての役割を含めて、すべてのまつりごとの立案計画監督は特定の職能ではないのか?」

白っ子はため息をついた。そのせいで少し沈んだ。見えない下半身をばたつかせたらしく、ゆっくりと動き始めた。

「そんなのが、君の言う官僚か。口舌の徒たる我々の出まかせが、行動力旺盛なコーテーモーゼと市民によってとりおこなわれているに過ぎない。出まかせを言っても矩を超えないからなあ。誰が言っても同じことだ。誰も言わなくても同じだろうね。実は、事態は自動的に進行しているのだよ。気息奄奄の我々は、本格官僚の激務に耐えやしないよ。我々はいてもいなくてもいいのだ。ここに行政などない。官僚なんぞという、君にとっては近代的な教育の結果でしかない用語を、よくもまあ投げつけてくれたことだなあ」

「少しずつだがここの現実を分かりかけてきたつもりだけれど」

「分かる? はっはっは、はやまっちゃあいけないよ。例えば、国家の体をなしていない、そんなものを拒否しているこの共同体を、帝国と呼ぶとはね」

「僕なりの根拠があってのことだ。君らが、楽園と称するのも、欺瞞的だ」

「きみー、言葉遣いには気をつけんとなあ。理解不足は、侮辱までをも、もたらすものなのかね」

たまには侮辱を味わってみたらどうだ、と言いそうになるのをなんとか飲み込んだ。というのも、ひとつには、白っ子に対して、ある種の憐れみの情が湧いてきたからであり、また、僕の、反省すべき点を、いくつか指摘されたとも思ったからだ。

突如、鼓膜だけではなく、岩から両肘と尻を伝って腹や背骨まで振動させる地響きを感じた。一瞬世界が本当に振動した。身を躍らせて湯の中に隠れた。あるいはずり落ちたのかもしれない。

頭を水面に出した。池の周縁に起った小波が、一定の間隔で何本もの弧をなして闇の奥の中心めがけて走っていた。その波状攻撃は、両生類のモデルをせわしげに、目をつぶって平気でいる白っ子をかすかに揺らめかせながら、通り過ぎて行く。

湯煙の彼方、渓谷を山頂の方へかなり上ったあたりに、白い水柱が、水煙を身にまとわりつかせて、山腹を覆う黒い照葉樹林帯とその上方の満天の星を背景に、聳え立っていた。かつて大河の畔で出くわした大蛇を思い出した。枝のない垂直な大木の上端、膨れ上がった樹冠に当たるその顔は、僕を見つけた嬉しさのあまり、両眼を大きく見開いてにっこり笑っていた。一方、水柱の天辺は、小刻みに高さを変えながら全方向に花開き、落ちてきた湯は地面に当たってたくさんの太鼓を連打するかのような音を立てている。草原からは見たことがなかった。かなり周期の長い、そのぶん大規模な間歇泉だ。

地の底からのこの狼煙は、いったい何の合図なのだろうか?



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