彼方の現象が何を暗示するのかと詮索するのも、僕を取り囲む姿の見えないやつらの反感を避けようと話の内容に手加減を加えるのも、無言の者を相手に推量を重ねることにかわりはない。どちらも消耗するだけだ。注意力も分散する。目の前の、とにかくは反応を返してくる相手と対決し、この機会を幸いと受け取って、質問し、さらにまた質問することで現状を開いていけるだろう。質問する用意はもともとある。白っ子1が怒りすぎて質問を打ち切ることがない程度に穏当に、しかし、ふと熱くなって本音を洩らしてしまうことがある程度には挑発的に、とりおこなおう。
「市民の総数はどのくらいか?」
「不定だ。戦争を節に、平和を腹にして、減少と増大を繰り返す。その幅は一定だ。極小値も極大値もそれらの差も、君には、見当がついているだろう? それ位だ」
「僕のまだ知らない飛び地がこの谷以外にもあるかもしれないと思ったんだ」
「そんなものはないさ。ここは飛び地ではない。単なるリゾートだ。わずかに常駐している特殊な市民もいるがね。そもそも何故そんなことを訊くのかね?」
「数に見合った食糧を安定供給できるかどうかが気にかかるからだ」
「はっはっ。そんな問題はとうに解決済みだ。敵に贈与するほど充分な食糧を確保できているのは君も体験的に知っているはずだ。君が今関与すべき事柄ではない。大きなお世話だ。のぼせないように。豊饒を極める森林地帯といくつもの水源を確保している我々は、市民総数を一定の変動幅内に抑えているので、将来に亘っても食糧問題に悩むことはない。ひとつ冗談を言わせてもらうと、いざとなれば死んでいく分だけ食っていくことに、誰も反対はしないね。それどころか、死なんとする者たちは食われることを夢見つつ慫慂として死に、残された者は感謝の念に打ち震えながら嬉々として食うだろう。まあ、そんな段階になる前に、異民族らがとうに滅びてしまうので楽園は生き延びるがね」
「たとえ冗談にしろ食糧問題に関して同胞の死体を食うことを勘定に入れるとは呆れる。赤目との戦争で行われた地獄のカンニバルを帝国内に持ち込むことじゃないか。あれもひどかったがこれもひどい。たとえ死体だとしても共食いだ」
言っても無駄なことだが言ってしまった。
「それは、単なる感情的で生理的な反感に過ぎない。自然採取から共食いへは、環境変化に伴って滑らかに接続している行動形式だ。まだ同化していない者には納得できないだろうがね」
「たとえ同化しようが何しようが納得できない。それにね、すでに同化している者たちは本当に納得しているのか?」
「本源的に同化しているからすなわち納得する。当たり前だろうが」
「同化が完全に完了していると思っているのか。これからどうなるかも分からないぞ」
この発言には少々自信があったが……
「それは君の認識不足にすぎない。君は完了していない。完了していない身から類推して言ってもしょうがないぜ。いやいや、言い方を改めよう。同化は、君にたいしてのみ使うべき言葉だった。何せ君には同化しか手がないのだからね。市民には、同化などという言葉を使ってたとえ本源的同化などと言ってみても、この状況を表せないのう」
「では、何だ?」
「同化ではなく同一だ!」
白っ子の、わざとのような金切り声に載ったこの発言には、呆れて言葉を失ってしまった。なんと馬鹿げた発言だろう。帝国市民全員が同一者だというのか? 僕は、明らかな反例が少なくとも一例ある、とつぶやいた。ヘレン…… この点については、白っ子1だけではなく僕の興奮も醒めてから、また話し合おう。僕は、発言の効果に満足げに薄笑いを浮かべている白っ子1に、〝同一だ!〟から、正確に二十カウント経ってから、問いかけた。
「帝国の版図はどのくらいなのか」
「限りなく広い」
「それでは答えにならない。境界はどこにある?」
「他との境界はない。原理的にあり得ない。君は、近代的な領土の観念に毒されているね。例えば私が境界と思しきところに近づいていったとすると、他者はそこから退却するので、その境界もまた退く。そことそこの周辺が領土となる。さらに彼方へと境界を目ざして行くと、行った所とその周辺が 再び領土になる。これが繰り返される。果たして他者が存在したかと訝るほどだ。だから、いくら行っても 永久に境界にはたどり着けない。境界に意味はないのだ。常に、内、しかない。まあ、往復に疲れるほどには遠くに行かないだろうがねえ」
「全員が自らをカミカゼやカイテンとすることになんら躊躇しない無敵の軍隊が後ろに控えているんだから、たとえひとりででだって君がやっていることは侵略なんだ。君はそうは感じないらしいな。鈍感だ。いやむしろもっと性質が悪い。自分の後ろ盾など知らぬ振りをしながらとても傲慢にふるまっている」
「君と同様にね、ふふ。だが、君の傲慢は、非難の対象というよりは哀れを誘う類のものさ。多数の者同士による合意には君は無縁なので、迷妄に気づくことが出来ない。私が言ってやろうか? 君の後ろ盾について、君が夢にも思わなかったようなことを。いいかい、もしかして、君の父君の愛情は、本当は、我々に向かっていたのであって、君は、実は、やっかい者であったとしたらどうだろう? 我々こそが真実を伝えられた者たちであって、君は検閲と隠蔽と錯覚の実験台であったにすぎなかったのではないか? おや、顔色が変わったな? もう一言。君は実は、父君にとって、殺すに殺せない大きな負担ではなかったのかな? 君はそういう可能性を思いつくだけの自己批評力を持っていない。そういう発想がそもそもない。原始的な父子関係の幻想から逃れられない自分を哀れと思ったことがないらしいな。今、私に言われて、思い当たるところもあるなあ、などとやっと反省しているんだろ? かわいそうに。さあ、さらに、まだ愚問を続ける気か?」
いかにもこの男の言いそうなことだった。僕は、ただ、生唾を飲み込んだだけだ。別に応えない。
「父のことは、余計なお世話だ。さて、あえて、君の言う限りでの愚問を発しなくても、もう、僕の訊きたいことは分かるだろう?」
「心配性の君のことだから、楽園の安定性や安全性についてだろうねえ。 確かに、危うい鞍部に全体が乗っている。それは自覚しているさ。少しでも均衡点からずれないように、注意を怠っていないよ。だから君についても神経を尖らしてきたんじゃないか。君がたとえ迷い込んできた一匹の蛾に過ぎないとしも、その余計な活動で、どんなに大それた結果が、MOTHEFFECTによってもたらされるか知れたものではない。今のうちに、その蛾を、殺しておいたほうがいいのかもしれないとさえ思わんでもない。まあまあ、興奮するな。恫喝しているんじゃあないさ。単なるひとつの選択肢を述べたに過ぎないんだ」
「……」
「無数の危険の兆候と失敗の残骸にとり囲まれているものの、この、無矛盾で、公平で、進化の弁証法に則った生存様式は、唯一、許されて、絶妙のバランスで鞍部に着地したんだ。こりゃあ、我らが種族の、生き残るための最後のチャンスなのさ。
君が付け入る隙はない。君のヒロイズム、君のロマンティシズム、君のイディアリズム、君の批判精神、どれもがナンセンスである。すでに実現されたこの実体たる楽園に対して無力である。君を笑うしかないよ」
白っ子1は、実際、力なくだが、笑った。
「ここでは、集団の共同意識と共同感情が露わに実現されている。不満の起こりようがない。こんな徹底的な民主主義を目にして、その下で生活してきて、君は、まだ分からないのかい? 君はそれだけ長く楽園生活を享受してきて、民主主義を突破した民主主義であるこの生存様式をいまだに理解していないのか? 畏れ入るね。
施設ニッポンで生まれ育った過去の共同性など既に何の意味もなくなっている。その後の体験が我々を今の我々にした。それを通して、我々の本性があからさまになった。存亡を賭けた戦いに明け暮れる激烈な体験に鍛えられて、至上の命令、生存の秘密を我々は手に入れたのだ。それが楽園を生んだのだ。その体験から得た秘密とはなんであったか。過去の体験と知識が現実に対して決定的に無効であるということだ。過去を真に過去化し、ついには記憶から追い出すべし、ということだ。我々自身の手で勝ち取ったこの真理に我々は徹底して従順だった。ついには、遠征の記憶さえも、その記憶を追い出したという体験そのものさえも、記憶から追い出したのだ。到達すべき高みに到達した我々は、上から梯子を取り払う勇気を持つまでに成長していたのだよ。断つべき退路とは、背後にあるのではなく足下にあったのだ。同じ体験を、君は、個としてだが、味わっただろう? だから、話は、も少し通じるはずなのだがねーえ」
いかにも馬鹿にしたように、ねえ、を引き伸ばした。
「僕には、それに対応する部分が見当たらない。記憶の追放と楽園の獲得が、意識的かつ経験的に獲得されたという君の主張には同意できないな。むしろ進行する忘却が、君らの行動を桁外れに放恣にした揚げ句のことかもしれないじゃないか。もしかして、ウイルスに集団感染したせいってこともありうるぞ。しかし、やっぱり、施設ニッポンで、何らかのことがあったと考えるのが妥当だと思う。外科手術か、遺伝子操作か、生物模倣か。手術については、見たところ頭部に手術跡はないし、いちいち個体に手術するような余裕はあそこにはなかった。ほかの場合でも、たくさんの者が協同で作業する必要がある。
とにかく、集団が一斉に一世代で意識的に自らの過去を切り捨てて、そのこともまた覚えていないとは想像を絶する。欺瞞だ。たわごとだ。でなければ錯覚だ。記憶がない、あるいは、かすかであるのは確かに事実だが、それは、意識のなせるわざなどではなく、無意識があるとしての話だが、繰返し集団的に無意識レベルにまで達する、外部から注入された教育のせいだったにちがいない。記憶喪失度は、構成員の数に関して、君たち、ブラザーズ、狭義の市民の順で、大きくなる。肌による見かけ上の分類では、白、黒あるいは紫、黄あるいは枯れ草色の順となる。員数が多いほど、記憶の回復力が弱い。それは、同一の教育を施してもその効果が、教育されるグループの成員数に比例することを推察させる。物理的な作用、例えば外科手術にはこういうことはない。効果に差は無いのだ」
一息入れて、気づかぬうちに目を瞑っていた相手の顔を観察した。まさか本当に眠ってはいないだろうな。
「君らは、集団的な健忘症に罹っている。罹らされているといったほうがいいかな。催眠術にかけられているようにね。異様な健忘症によって楽園幻想は保たれている。健忘症の実態は恐らくこうだろう。短期記憶しか保持しない、ということは、普通、記憶の負担が少ないと誤解される。実際はその逆だ。常に最初からやり直さなければならない。同じ記憶を作り直さねばならない。記憶を持たないとは、正確に言うと、想起出来ないということだ。同じ記憶が上書きされずに延々と蓄積される。容量がいっぱいになるので、記憶そのものも破棄せざるをえなくなる。生体のある事実に基づいたこの過程を、君たちは、学習させられた疑いがある」
「いったいだれがそんな工作をしたのだ」
白っ子1は眠ってなどいなかった。こちらを横目でにらんでいる。僕は、天上から、いや、天井から下りてくる父の声を懐かしく思い出しながら答えた。
「神だろうな」
「ばっかな。どうして神はそんなめんどうくさいことをしたんだい?」
「なぜなら君らが生き延びられるようにさ。神からの恩寵だった」
「ははあ、あそこにおはしましける神か。どうして我々だけにそうしたんだい?」
「多分、それはね、(笑いをこらえた) 君がさっき言ったとおり、僕はやっかい者で、君たちこそが選ばれた民だったからなんだろう」
「茶化さないように。私は短気なんでね。調子を合わせてやるのにも限度があるんだよ。神に依拠する君の空想より我々の実体験のほうがはるかはるかに確実だ。もう、起源の話は打ち切りだ。非生産的だ。どうでもいいことだ。起源と歴史が判断と行動をどれだけ間違わせるか、こっちは、遠征の過程でつくづく思い知ったんだからな!」
吐き捨てるように言うとはこういうことかと思わせるほどだった。たとえ白っ子であっても、遠征の具体的ディテイルを、もはや相当忘却しているはずだ。ただ、日々増大しながら持ち越されてきた確信だけは、臭くて黒いガスの塊りのように未だに腹に溜まっていて、激すれば噴き出すのだ。そのガスが、白い湯気に洗浄されて無害となるまで、僕は待とう。
間欠泉はいつの間にか途絶えていた。