これからどれだけ湯の中にいることになるのか分からないので、白っ子1の真似をして浮き身の姿勢をとろうかと思ったが、いかにも無防備で、急な事態に対応できないような気がした。さらに、ヘビの篭から広場に跳び出たあの時、たちまち仰向けに地面に押し付けられて強いられた屈辱の姿勢を、自分からとるのも躊躇われた。だから、手足の動きをなるだけ緩慢にして立ち泳ぎを続けた。呼吸の際の肺の残気も調整した。顎からうなじにかけてを喫水線とし、下目遣いの目線の先で白っ子1をとらえた。ところが、体に意識を向けたので、今まで気づかなかったその異変を見出した。右足の割れた傷が、小筆の穂先で繰返して試し書きをされるように熱流で撫で擽られ、むず痒くなってきていた。足の動きを止めれば、痒さも弱まっていくとは思うものの、そうは出来ず、必要以上にあっちにもこっちにも動かしてしまう。痒みの向こうにもっと嬉しいことを期待しそうで、えらい変態になっちまったなあ、と惨めさにまみれた。
僕が水面上に頭部を突き出してしまって狼狽している一方で、白っ子1はほとんど溺れかけのままながら安寧を保っていた。
自分の身長の三倍ぐらいの直径を持つ円をゆっくりと描きながら背泳ぎをしていた。腕はめったに掻かない。円の中心には、太鼓腹をあお向けた両生類≒モーゼのミニチュアが揺れている。白っ子1は、身体から失われつつある水分を補うために、時々横を向いて、空しくキスを求めるように唇を突き出しながら、湯を吸い込む。唇が湯面の下まで没しない場合には、吸気が湯面を震わせて、場違いな呼び子の音をたてた。呼び子はそのうち必要になるかもしれないけれど。
何かが視野の左隅にちらついている。視野と焦点を少しずらすと、こんな不毛の地には似つかわしくない木の葉が、中空で、複雑に、しかしアンダンテで、回転していた。表も裏も湯のつゆに濡れて月光に輝いている。硫黄を帯びた熱い毒気が昇り、尾根から吹き降りてくる山風に乗って上空を過ぎて行く木の葉達の、逃げ遅れたやつに絡みつき、冷えて重くなったのを利して引き摺り下ろし、臭い地べたや湯面に貼り付けようとしているのだ。一葉、また一葉と舞い降りてくる捕らわれた木の葉を見ながら呆然としていると、それらの動きが催眠術師の指先のような効果を生み、おやっと思った刹那、一陣の睡魔に襲われた。すぐさま我に返る。何をしているんだ。緊張を欠いているぞ。白っ子1に呼びかけて、我が身を叱咤する代わりとしよう。
「ここを楽園だと言い切って憚らない君の頑迷な態度には、あきれてしまった。短い命、略奪、奴隷制、戦争、洗脳。楽園などと称するのはもってのほかの事柄が、どっさりあるじゃないか。これらはどんな良きものとも帳消しにはできない!」
なるべく大きな声を出したつもりだ。池の周辺にも聞こえる位に。
「最初に言ったのは何? ああ、命、短い命ねえ。男の平均寿命は女と較べればいかにも短い。だがな、それは性差のひとつに過ぎない。君がどこの男と比較しているのかは知らないが、これくらいの短さがここでは当たり前だ。ここの男は平等にそうだ。当たり前なのに短いことを非難するのはおかしい。こびとの国の住人を短躯だからといって非難するか? 短くてどこが悪い?」
「短くしてしまっていることが悪いんだ」
口の中がべたついていた。やつの真似をして、鼻まで漬けて湯を含んだ。それでは済まず、ごくごく飲んでしまう。渇いていたのに今はじめて気がついた。飲んだシロモノは岩塩と硫黄を極めて薄い炭酸に溶かしこんだノンアルコールカクテルで、味は特に悪くはなかった。
「悪いと言っているのは君だけだ。男たちはね、みんなで、仲良くチャーを噛み、酒を酌み交わしながら、ソレを短くしあう。後、残っているのは戦争だけだもの。命がけで楽しんでるんだもの。いいじゃないか。その楽しさが楽園の繁栄にもつながるんだし」
「略奪と戦争と奴隷制を前提としているから、そういう退廃にしか行き着かないんだよ」
「まず何? 略奪だっけ? 略奪とは何のことだい? 生存の必要条件の確保を略奪と称するなら、生きとし生けるものはすべて略奪者だ。いったいどこに問題があるんだ?」
それがどうした、を連発しているかのように聞こえる、白っ子1の居直り口調には、いらいらするが、僕をそうさせて面白がっている様子がよく見て取れるので、さらに一層いらいらする。
「生物一般を逃げ口上にするなよ。特殊な君たちの特殊な犯罪性を問題にしているんだ」
「ほー、なぜ犯罪的なのかね。略奪されるほうは、何をされてもにこやかに無言でいらっしゃるんだから、略奪者に犯罪性なんてないはさ。そもそも犯罪かどうかを律する法や道徳がないじゃないか!」
「ないと思っているのは文字がないからだ。文字がなくてもあるものはあるんだ。略奪されるものを顧慮しないでかまわないと思うのはなぜだ? だれやらがにこやかで無言であることは理由にならない。そうしていた奴隷だっていたんだからな。君の言う無言の略奪される者とはだれのことだ?」 
「ああ、さっきの仕返しをしてやろう。神だよ。神だと言い返してやろうじゃないか。あっちこっちに神がいるなあ。我々が、木の実、果実、肥大植物、魚、獣、何であれ、いくら奪っても与えてくれる、だれかさんの父君のような、甘やかしの権化がねっ! へっ、そりゃあ、まあ、神は本当はいないさね。しかし、比喩として神を使うくらい、こっちの勝手だ。我々にとって必要な物の、汲めども尽きぬ供給源として存在するのだから、そう呼ぶのは妥当だ。我々は思う存分甘えさせてもらってるよ。もう分かったよね。そうだよ。ほかにないさ。神とは自然のことさ。この途方もなく巨大な生けるメカニズムを神と呼んでも今のところはかまわないだろうに。常に剰余を溢れ出し続ける存在。剰余を塞き止めると破裂しかねない存在。おびただしい剰余こそがその存在条件であるような存在だ」
「いくら奪っても与えてくれるとか、汲めども尽きぬとか、おびただしい剰余だとか、皆たわごとだ。君、目を覚ませ。勘違いしちゃいけないぞ。自然には剰余なんて一切ない。収支の帳尻は厳密にゼロだ!」
声がやや震えてしまった。まだ、まだだ。冷静に、冷静に。
「馬鹿な。剰余はあるさ。おおありさ。現に我々自体だって剰余の一部じゃないか。君だって私だってずっと悩まされてきた、自らが余計者であるという意識は正しかったのだ。正鵠を射ていたのだ。なにせそのことを神即ち自然が根拠づけてくれるからねえ。いいかい、君。よく聞け。剰余から生まれた意識だからこそ自らを余計者だと意識するのだよ。自らが余計者であると病んだり悩んだりする必要はないんだ。それが極めて自然当然の意識であることを、これほど明快に説明した論理が他にあるだろうか! 耳を澄ませば、そのままでいいんだよーと神=自然が言ってくれてるのが聞こえるじゃないか。ほーら、ほっとするだろうが。楽になるだろうが。
さて、もしもだよ、万が一にでも、剰余に陰りが見えたら、こちらは調整もし、神と相談もするさ。そうなった時には、カンニバルの話にも乗ってくれるだろうよ。神は千変万化、いかようにも対応してくれるありがたい幻想でもまたあるんだからねえ。神は、たとえ自らが落ちぶれたとしても、ふふ、もしかして我々以下となる可能性もあるぜ、なけなしの手持ちを贈与してくれるほどの徹底した寛容さを持っているんだよ。神など信じない不心得者達をも広大無辺の慈悲心に基づいて、救済してくれるはずだ。おお、ありがたいことだ。
楽園はいつでも戦時体制に移る用意がある。君は戦争を非難するが、戦争なしで生をやっていけるか? 戦争なしの平和があるか? 戦争は、余分な者を食料として与え、無力な者を排し、労働に耐える者を選抜する。戦争は、こちらも敵対者も納得づくの作業だ。絶対的窮乏下にある集団では、種族を保存するのに必要な数だけ子供を作った後は、すぐにもう男子は要らなくなる。共食いしようとしても男どもの自覚が足りないので抵抗される。だから、やつらを騙して戦争に出すのさ。私は実は女のことを言っているんだ。分かるね。女の本性とはそういうもんだ。黒幕は女なんだ。君、酒と女には気をつけろよ。どちらにも無縁な私が言うのもおかしな話だが、真理は伝達経路に依らずに真理だぜ。おっと脱線。話の経路はなんだったっけ? あ、そうだった。でだなあ。戦争した結果、たがいに厄介払いが出来てかつ向こうは食糧を獲得しこっちは奴隷を獲得する。つまり、戦争とは名ばかりで、その本質は交換だ。我々と異民族が共存共栄していくための共同行為だ。奴隷制がどうかしたのか? 異民族に食糧を与え、種の更新作業を代行してやって得た正当な代価に対して、君のその、非難がましい言い方は無いだろうに? ついでに、その目つきもなあ。あー、そーかあ、君は、モラルを語りたいんだね? はるか昔の世代が築いた壮大なナンセンスを!」
止めどもなく話しそうな勢いだった白っ子1は、唖然として聞いていた僕に、急に話を振ってきた。僕は、わざと話の腰を折る。白っ子1の期待に反して、今すぐにはモラルを語りたくなかったからだ。一息おいてから、別の事柄を口にした。


先行する記事を読む:http://terra1.paslog.jp/

他の作品も読む:http://blogs.dion.ne.jp/shg/