両耳を指で塞ぐのを止め、腕を大きく振って走り始めた。
右側の、僕がこけて倒れるのをあらかじめ防いでくれているような岩壁は、まっ平らではなく、所々で、小さな岬となって突き出ていて、それにつりあうように、その向こうが小さな谷間となって引っ込んでもいる。突き出た岩の陰から待ち伏せしていた刺客のようにゆらりと出てくる者がいて、ぶつかりそうになる。行く手を遮る障害者たちを、体育館でやらされた反復横跳びと蟹走りとを組み合わせて、右に左に避けていく。這う者を飛び越える。おっ、とか、あっ、とか、声を挙げる者もいるが、たいていは僕を無視し、あわてず騒がず、平静を保っている。あの歓声の挙がる場所に行きたい者は既に行ってしまった後なのだ。歓声の源は、僕が進むにつれて、前方、左、後方へと移っていった。白っ子1の血は川へ溶け込み、うっすらピンクに湯を染めているだろう。空中に飛散した血が、蒸気に溶け込んで、漂っているかのように思えてきた。湯気の朱色は実は血の色だったのか。この赤い光景は懐かしい。デジャヴュを感じる。何度か見た夢の中を再び漂うような気分がしてきた。走っているに過ぎないのに、宙を飛んでいるように、大袈裟に感じる。走りながら眠りそうだ。遠い過去に向かって走っていく気分だ。自分が妙なことをしでかさないように警戒する必要が出てきた。
やっと実際の過去の体験を捕まえた。どこで体験したことなのか、やっと思い当たった。時間がかかったのは、内容としての、体験の集積としての自己の先端の先端、スタート点にまで戻る必要があったからだ。思い出したのは子宮の内部での僕の体験だった。
胎内にいたときは、外から、音や話し声は聞こえるのだが、そして両者の区別はつくのだが、それ以上注意を集中する気が起こらなかった。慢性的にだるかった。生ぬるくて重い羊水に浸かったまま体を動かすので、抵抗が大きくて、そのたびに疲労感を覚え、なおさらだるくなった。猛烈に眠かった。眠りすぎて目が覚めてしまうしかないのだがやはり眠いのだ。目蓋も子宮壁もふやけて半透明になっているので、そこに錯綜する毛細血管網を、皮膚組織を通して差し込んでくる外の世界の光が後ろから照らし出して朱色に染めた。黒土壁に塗りこめられてぼんやりほの赤い程にしか察知できないが確実に存在している紅柄塗料のようだった。延々悩まされてきた閉所恐怖症の根本原因はここにあったのではないか。そうだとしても、だからといって症状が軽減されるわけではない。むしろ、完全無欠の閉所である子宮に全身を取り込まれていたという記憶が存続する限り、閉所恐怖症から逃れることはできないだろう。子宮願望とは正反対だ。だから会えずに終わった母親に対してだけでなく、ヘレンに対してさえも、愛情とともに、恐れとおののきを感じるのだ。
幾度も繰り返し、父に問いかけたものだった。
「なぜ僕にはお母さんがいないの?」
同じ回数だけ幾度もそっけなく父は答えた。
「死んだと言ったはずだ。産褥熱だ」
いつも思った。それが発生するほど、そこ、は、不衛生だったのか。それで死ぬほどに設備が不十分だったのか。そういう疑問に対しては、最善を尽くしたが仕方がなかった、という答えが返ってくるばかりだった。最善とはどんなふうであったのかは、僕には推定さえできない。いつもここで終わりだった。ではなぜ同じ質問を、僕は繰り返したのか。それは僕が、母の死について、ドギーの場合と同様、不審の念を抱いているのを、父に忘れてもらいたくなかったからだった。さらに余計なことを、つい、言ってみたことがあった。
「いたらいいなあ。会いたかったな。お母さんの声を覚えているよ。お腹の中で聞いたんだ。溌剌とした、少女のように若い女性だったと思うけど。一緒に暮らしてみたかった」
「科学の子に母親は不要だ。母親が持つ情念は、科学にはふさわしくない。エゴイズムがふさわしくないようにね」
父の口調に、珍しく、感情が、かすかに混じった。子供ながらに、否、子供であるからこそ僕は、不要という言葉に、えらいショックを受けた。父の母に対するつまらぬ嫉妬などではない、出生の謎が発する妖しい匂いを嗅いだように思えて、狼狽のあまり面白がってしまい、やや羽目をはずす。
「要不要の問題なのかなあ。父親はかまわないの?」
言ってから、さすがに怒らせたかと、しばし沈黙を保って、天井の向こう側の様子を窺う。頭のてっぺんがむずむずした。
「父親は、子を子とも思わないように思うことができる。母親には、それは無理なんだ」
またもや厳しい言葉を聴いた。たとえば父が僕を子とも思わないときとは、いったい何時なんだろう。ひょっとして本当の父親ではないからそう思えるんじゃないか、なんて、幼い僕を悩ませる疑惑さえ生まれちゃうじゃないか。僕は、まさに、子を子とも思わないそんな残酷な発言に対して、仕返しをした。
「そういうこと言われると、母を求めて三千里だって旅しちゃうよ、黄泉の国まで」
「得意の脅しだな」
父は、乾いた風が吹くように笑った。
今思うに、精子を提供した後の帝国男子が不要と見做され、兵士として消費されるように、母が不要とみなされ消費(!)された可能性は、もしも、父が黒幕だったなら、父の思惑が施設ニッポンにも帝国にも貫徹していたならば、ゼロではない。……この疑惑は、きわめて重大だが解決に急を要しないので、しばらくは封印しておこう。我慢しよう。
僕は、母を求めてではなく、別の或るものを求めて(本当だろうな!)、施設ニッポンから、黄泉の国もかくやはと思うほどの驚異の地にはるばるやってきて、母の代わりに自分の子供たちにめぐりあった。
出会って思い知ったことは多々あるが、父と異なる姿勢を持っていることは、はっきりしている。
僕は父親であるのに、しかも、今までは父と同様に情念を邪魔者であると思ってきたのに、自分が、アルファとベータに対して、子を子とも思わないような態度はとれないと、すでに知っている。
厳しい父親になれそうにない僕は、早々と前もって敗北しているのかもしれない。仕方がない。
それどころか、なんとも奇怪なことには、母親を知らないにもかかわらず、自分は父親ではなく、母親であるという感じを持っているのだ。ヘレンと浮舟に負けず劣らず、とひそかに思っているほどだ。
こんなことを彼女らに言えようか! 彼女らの権利を侵害するだけでなく、僕の変態ぶりを暴露して、呆れさせることになるだろう。
子供を持つ市民の男がなんと感じているのかは知らないが、親の子に対する愛情とは本来母性的なものであったならば、僕の持つこの感じはある程度の妥当性を持つ。しかし、まがりなりにも男であるものの、性遺伝子がXXYである僕の特異性からこの感じが来ている可能性もある。だとすれば、僕の潜在的だったマイナス因子が、いよいよ顕在化してきたこととなる。
ただでさえ、視界不良の中を走り続けてきた結果心拍数が高まっているのに、さらに手探りで薄暗い精神の陰の部分に分け入ったので、胸の動悸をいっそう駆り立ててしまった。
あの現場からは充分遠のいたはずでもあるので、僕は歩くことにした。
ところが、どうしたことか、あのおぞましい音が消えない。左手後方に音源は去ったはずなのに。ぞっとした。自動的に脳内でカウントしてしまう時のように、頭の中で鳴っているのだった。これじゃあ、この音響から逃げられない。勿論、血の霧からも逃げられない。内と外と両方から束縛されている。母と母性についての精神の弱り目に、内と外からの感覚神経の祟り目。さあ、閉所恐怖症のお出ましだ。パニックに陥るぞ。
ところがまた、聞こえ始めた別の音声がその音を駆逐し、消してくれた。それは隕石のように血の色の霧を貫いて僕の頭を直撃し、鳴り止まないおぞましい音響を弾き飛ばした。蝉の合唱をバックコーラスに、救いの女神は、甘露の歌声を投げてくれた。地獄に仏、十三の谷に吉祥天だ。普段より一オクターブ半高いソプラノで歌っているのは、ああ、ヘレンだ。
“通り過ぎるのをわざと見下ろしたままもいいかなあと思う私もいるのよ。どこまで行ってしまったらお気づきかしら。霧は晴れるけれど、川は冷たくなり、深い森が迫ってくるわ。獣たちが隠れているわ。タイガー、タイガー。私は見つからない。そしたら、ダーリン、困る? 悲しい? 私の名を呼ぶ? 冗談よ、ダーリン。いとしのあなた。私を見過ごさないで。ここよ、ここ、ここ、あ―な―た―”
「分かってるよ!」急にやたら照れくさくなって、巌頭のセイレーンに向かって呼びかけた。姿は見えないが歌が止む。普段の、やや低めの声が聞こえた。
「これだけ高いと、湯煙が邪魔ではあったけど、ずいぶん前からあなたの姿を見ることができたわ。霧が結んで雫になって、こんな姿勢だもの、下腹の辺りが濡れてしまったわ」
「その雫になりたかったなあ」
ヘレンは崖の縁に身を乗り出してスフィンクスのように僕を見下ろした。
霧が表情を隠し、上半身のシルエットしか見えない。しかし、その縁取りの頬の辺りが、ピンク色の羞恥反応を示したのを僕は見逃さなかった。
「走って来たにしてはいやに時間がかかったのね。寝坊したの? 途中で何かあったの?」
「さすがにバテてたのかな、寝過ごしたよ。それに……。後で話す」
ヘレンも僕の表情を読み取れないだろう。安堵のあまりに口を半開きにした馬鹿面を気取られないでよかった。急いで口を閉めて、あらためて開け、「危ないよ」、登っていこうとすると、右手が上がって、押しとどめられた。「私が行くわ」
立ち上がったヘレンは、頭部が隠れるほど胸をそらせ、両腕を腰の後ろに指がそるほど伸ばしてから尻を、パチッ、たたくと、周囲の霧を巻き込んで、緩やかに半回転し、俯き、僕を見ずに足場を探した。
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