左前方で目下進行しているはずの出来事からできる限り距離をとるべく、右へ右へと寄っていって、川原の端にたどり着いた。人民広場と岩壁のなす角度とほぼ同じ位の角度をなして、巣穴の穿たれた斜面が立っている。壁やそこに刻まれた階段を右手でなぞると、見た目以上にヌルヌルしているのが確かめられた。斜面と平面との交線に沿って、だが一歩離れて平行に、歩んでいくことにした。

湯煙は僕に先んじて二つの面のなすくぼみに寄ってきており、やはり川へは戻らない。斜面をよじ登るようにかさを増し、分厚くふくれ、停滞していた。斜めに差し込む朝日を飲み込んでいるが、長い波長の光だけを吐き出すので、オレンジ色というよりは真紅に近い朱色に染まっている。朱にも濃い部分と薄い部分がある。濃い部分が層をなし、大小の球面のかけらの形を結ぶので、欠損部分を補って球面を作ってやった。たくさんの球面は、重なり合い隣接し合いながら緩やかに流動し、複数の方向を持つ深呼吸のように凹凸運動を繰り返す。隠れていた虚軸が現れて、波動の秘密を身をもって教示しているかのようだ。さらに、membraneの振動が、membraneを境界とする、より次元の高い素領域の弾性によってもたらされるという類比的な秘密、さらにさらに、結局世界は、弾性を持つ無数の球体とその境界である球面で形成されているという秘密をもバラしてしまう。

僕をかなり手前でたびたびためらわせ立ち止まらせるのは、朱色の霧に局所的な乱流を引き起こしながら行く手を右に左に横切って行く障害者たちだ。二足歩行している者もいるが、四つん這いになっている者の方が数は多い。中には、四本のうちの一本が使用不能となっているので、三つん這いせざるをえない者もいる。川原はわずか両腕の長さの距離をへだてて彼らの眼下に存在している。だから川原は視野の全面を占め、それぞれの小石は形状と色相の微細な差異を顕わにしている。現在が認識領域の全面を占め、個々の事象は修辞的言語によって差異化し、川原によって両腕が押し返されているように過去を拒否されているという点で、彼らのとっている姿勢は、まさに市民の似姿だった。

何度も歩みを止め、多くの障害者が往来するのを観察しているうちに、最初は勘違いかと思い、徐々に確信に変わってきたものがあった。それは、彼らから伝わってくる異様とも言える独特の雰囲気だった。今日一日の未来さえ確かではないという特異な条件がもたらすのだろうが、いかにもありそうな怯えや絶望や自暴自棄やマゾヒズムではなかった。それらとは裏腹の、地獄のイメージに変更を迫るほどの、朗らかさ、だった。彼らは、身体の不自由はどこへやらと思わせるような、解放感を表情に浮かべていた。中には微笑んでいる者さえみかけられた。とりわけ、ありつく餌のイメージを早くも噛み締めながら左前方の川岸目指して急ぐ悪鬼たちは、無道徳の溌剌たる化身だった。一方で、その動きに加わらない者たちは、欲望を退散させた実績から来る悠揚迫らざる孤高の物腰を誇っていた。思い返せば、その孤高は、壊疽に冒された男からも歯を抜いて投げた男からも、確かにうかがうことができた。

地獄に生きようと決めたなら、地獄に適応せねばならない。ある者は悪鬼と化し、ある者は孤高を誇る。その適応の様態は、個別には様々だ。だが、どんな適応の仕方であれ、朗らかさを共有しているとは、意外だった。傷ましさを予想していた僕が滑稽に見えてきた。地獄に対する朗らかな適応こそが滑稽だ、などと反論する資格は僕にはない。なぜなら僕もホガラカサを隠し持っているからだ。極楽に対する適応であって、滑稽この上ないのだが。もし彼らの朗らかさがあのホガラカサに通底するならば、それは彼らと僕との連帯の緒口にならないとも限らない。

さらに期待できることがある。壊疽男も歯投げ男も、過去を想起できる者のように思えるのだ。パントマイムで過去を再現してヘレンに仕掛けた強引なショック療法が、へレンに記憶を呼び覚まさせたとしたら、メカニズムを全く異にしてはいるものの、既に未来は失われているという圧迫が、同様の効果を彼らに及ぼしたのだろう。死が近まり今や現在をも侵食し始めたので、彼らは過去へと押しやられ、そのはずみで想起のドミノ倒しの最初の一枚を倒してしまったのではないか? ミンナワスレタとほざいた酔っ払いも、死ぬ直前に記憶を取り戻したではないか。ワタシノ トオイ アイゴコロ。ワタシノ サイゴノ コイゴコロ…… 

天上から降ってくる蝉の大合唱と湯の川の流れが奏でる循環コードが織りなす荘厳なレクイエムをぶち壊しにするおぞましい限りの音がついに聞こえてきた。両耳に人差し指を突っ込んでみても、生理的耳鳴りや血流音の向こうから、如何んせん、その音は、どうしても聞こえて来てしまう。

戦場で、餓えと渇きに喘いでいた僕は、森の奥から、川のせせらぎと魚のはねる音が聞こえてくるのだと、簡単に騙されたものだった。実は、赤目たちの立てる歓声、嬌声、どよめき、怒鳴り声、走り回る音、せわしないおしゃべり、そして、僕の全神経をごしごしシゴくようなポリフォニックな咀嚼音、くちゃぺちゃぐちゃぶちゃ、破裂音、げっ―ぷがっ―ぷげっ―ぷ、だった。白っ子1もまた、解体され喰われる真っ最中にあり、その身体を楽器にもさせられて、遠慮も容赦もなくあの時と全く同じ音を立てられつつあった。それらの音にかぶって、驚いたことには、白っ子1の声が、昨夜のとおりに聞こえてきた。声帯が既に誰かの胃の中にあるかもしれないのに。

もしもだよ、万が一にでも、剰余に陰りが見えたら、こちらは調整もし、神と相談もするさ。そうなった時には、神はカンニバリズムの話に乗ってくれるだろうよ。”

尾根の向こうにある地下帝国とは異なり、この地には、剰余はもともとないので、調整の余地もない。しかも、相談相手となるべき神は見当たるはずがない。白っ子1の冗談だったのだから。

当の白っ子1はまさかわが身がとは思いもよらなかっただろうことは、その第三者風の物言いからも推察される。ところが彼はたちまちカンニバルたちの餌食に供されてしまった。甘かったと断じるのは酷だ。不可抗力の仕業だった。 まったく、神の代わりになるような、事態を進行させる見えない強い力を仮定したくなリそうだ。

白っ子1よ、生者への仕返しとして、ちぎられた腕の先についた蝶番のような手首のナックルを効かせて、掴んでいる見えない石を投げつけてやったらどうだ? あるいは実際に、齧歯類の放屁並みの、鼻が曲がるほど強烈な悪臭でもくらわせてやればいい! それとも僕が、現場に走って行って、何をするんだ悪鬼ども、散れ散れ散れ、と怒鳴りながら、いくらでもある石を、とっては投げとっては投げ、君のいくらかでも残っている肉体の断片を拾い集めてほしいかい?

脳のどこかで激しいイオンの移動と伝達物質の分泌が行われた。しばしの後、今や脳内に居着いてしまっている白っ子1が、僕の無思慮を諌める思いがけない内容を返してきた。

“喰われるのは知っていたさ。自分のことでも第三者風に語るのは、君と同様だろうに? 余計なまねをしてくれるな。君は前に進め。”



先行する記事を読む:http://terra1.paslog.jp/

他の作品も読む:http://blogs.dion.ne.jp/shg/