バルコニ―のように突き出た岩棚は、上方の草地へ続く岩壁との間に、流れの浸食作用か地殻変動かによって生じた窪みを抱いている。ヘレンはそこを降りるので、姿が一時見えなくなった。やがて、露払いである小石が一つ、二つと岩棚の向こうから川原へ転がり出た。そして、親指が上を向いた右の足先から、腿の右側の面、右横腹、右横顔の順に、へレンが姿を現し、踵を上げて左足で蹴って九十度回転してから正面を向いた。僕をまじまじと見た。つま先から足を下ろし、踵が着くかつかないかの忍び足で近づいてくる。踏みしめる小石や砂利は、それでもかすかに、しっしっ、音を立てた。

「お早う、タダヨシ!」

ヘレンの吐く息が喉の下に当たった。

「お早う、ヘレン!」 

声が割れてしまった。付け足す言葉を捜し始めたが、たとえ見つけても、口に出す暇はなかった。ヘレンは、ぶら下がるように両腕を僕の首に回すと、あらかじめ首を傾げて鼻がぶつからないように配慮してから、徐々にひじを折り曲げていく。上半身を前傾させられながら見下ろせば、その漆黒の瞳は眼窩からこぼれ落ちるほどに大きく見開かれ、大きな鼻と食いしばった濡れた唇の向こうに、首に巻いたスミレの首飾りが見えた。やがて近づきすぎて、ぼやけた右目だけしか見えなくなり、口が口に押し付けられた。五カウントの間そのままの状態を続けた。息ができないので、鼻が詰まっているのに気づいた。昨晩、湯冷めして風邪を引いたか。おまけに、勃然の気が兆し始めたので、無理をせず、両肩をつかんで身体からそっと引き離し、両中指の先端で突いておいて、手をひいた。深々とため息をついた。

「子供たちは?」

「ベータのぐらんま―、あなたの呼び方だとメノト、が、看てるわ」

ヘレンはバランスを保つ必要があるかのようにさっきとは反対側に首を傾げる。

「メノトは、どんなことをして子供たちの相手をしているのかな」

「乳母がする一切よ。小さい頃の私にしていたことを正確に繰り返しているわ。そうだと私がわかるのも記憶が戻ったおかげね。で、私が部屋を出るときには、子供たち、手をつないだまま向かい合って床に横たわり、こそこそ内緒話はしてるんだけど、もう眠りかけていてね、その傍らに、セイウチみたいに寝そべってたわ。子守唄を歌ってるんだけど、どうしても声が大きすぎてしまって、逆効果になりかねなかったわ。昔と変わらないの」

ヘレンは微笑み、ささやき声で歌う。

眠れ、眠れ、いとしい子らよ、夢の中で、お遊びなさい、雲雀といっしょに空に昇り、鯨といっしょに海に潜り、夢の中で、お遊びなさい

朝の光と母の乳房が、目覚めるあなたを迎えるまでは、と続くんだよね

「そうよ。施設ニッポンでは、定番だった子守唄。十番まであるのよ。あなた、覚えてる? 」

これは意外だった。

「そうだったのか。覚えてないなあ。多分、一番が終わる頃には、もう眠り始めていたんだろうね」

朝起きて間もないのに、かつて子宮の中で味わった、防ぎきれない睡魔に襲われそうな気がしてきた。ヘレンは、大きな目をぐりぐりと回転させた。思い出すという行為に興奮し、残りの九番を蘇えらせようと、一番ごとに一回ずつ、あと九回まわすつもりなのだろうか。

「アルファは朝まで躁状態だったわ。ベ―タとじゃれあって、取っ組み合って、ひっきりなしにおしゃべりして。今頃は爆睡してるでしょうよ。ベータだって、普段の就寝時刻を大幅に過ぎて起きていたんだもの。両方とも何番も保たなかったと思うわ」

ヘレンは頭を垂直に戻し、僕を見つめたが、たちまち焦点が僕の背中の向こうに遠のいた。僕のところで一旦留まってから、過去へ関心が移ったのが、その夢見るような表情から読み取れた。僕の姿が過去の何かを背景に、どんなふうに歪むのだろうか。少し心配だ。

「この谷に住む者は、日の入りの後に寝て、日の出の前に目覚めるの。地下にある楽園とは、生活時間が逆転しているわ。施設ニッポンでは、私達は暗くなると眠っていたわねえ。それで、思い出したんだけど、あなたは違っていたよね」

「あの時以来だ。それまでは、僕も夜は寝ていたんだ」

僕は、あの時以降、施設時間で測って一ヶ月間、夜になってもほとんど寝ずに、性の狂宴に惑溺していたので、一ヶ月を過ぎても元に戻らなくなってしまった。

「あの時? ああ、あのこと! まあ、私がきっかけで、あなたの生活のリズムを狂わしてしまったのね。ごめんなさいねえ」

ヘレンはにやりと笑った。

「狂ったのは生活のリズムだけじゃないよ」

一拍、間を空け、笑いを収め、

「私のこと、恨む?」

「まさか」

「よかった!」

ヘレンは本当にうれしそうな顔をした。僕はヘレンの言葉と表情を、震えるほどの責任感を感じながら享受した。

「子供たちのところへ行ったら、気配で目を覚ましちゃうわ。別のところに行きましょうよ。私についてきなさい」

「どこへ行くんだ?」 

「川辺まで」

「うーっ、行きたくないな」

「……はっは――。わかったわ。あなた、慣れてないからなあ」

「慣れの問題ではない。あれに慣れるつもりはないね」

「違うわ。慣れの問題だわ。あなたはまだうぶだからなぁ。死者を襲う死よりも残酷なのは、死者をとり囲む生者たちでしょ。絶対優位の生者達はやり放題だわ。どうせ自分らが死んだらそうされると覚悟の上で、生きてるうちに、される放題以上の、やり放題をするのよ。順送りよ。みんなそうするの。みんながそうしているうちに、残酷であることを忘れるのよ。当たり前になり、当然の権利になるの」

「僕はしない。いつか、やめさせてやる」

「期待してるわ。もっとも、みんなが、必要だし、合理的だと思っているから、そうしてるんだもの、それはもうシステムになってるんだもの、無理だとは思うけど」

「必要とか合理とかは、怠慢の言いかえさ。君はどうなの? 当然の権利だと主張する側につくのかい?」

「まあ、何をおっしゃるの。あなたについていくわよ、無理だろうと何だろうと、ダーリン、あたりまえでしょ」

「ありがとう。じゃ、僕も、君についていくことにしよう」

僕はヘレンの左肩に右手を置き、その左肩から左足までを軸にして後ずさりしながら身体を開き、肩甲骨にまで滑らせた右手で押して、ヘレンを川辺のほうに向かわせた。右手の抵抗をほとんど感じないほどすぐさま歩き始めたヘレンの、斜め後ろをついていく。相変わらずしっしっと音を立てる忍び足の、地に着くかつかない踵とそれにつながるアキレス腱、そのまた上の露に光るふくらはぎが興味深い。

ふいにヘレンが右足を横にやや持ち上げた。両腕も左右に水平に挙げると、右足と右腕は身体の前に、左腕は身体の後ろに、同時に振り下ろし、左足を軸に反時計回りに回転し、すぐさま後ろ向きに歩き始めた。薄まってピンク色となってきた湯気の中から、川辺に向かってゆっくりと這って進む生き物が現れた。ヘレンは、この生き物を避けたのだ。僕はそれを追い越しながら見下ろしてびっくりした。両脚の腿から下がない男が、仰向けになり、両肘をオールのように操りながら、いざっていた。僕は、跳び退くつもりだったのに、得体の知れない気分にむっと取り憑かれ、反射的に身体をかがめて手を伸ばし、その男を引っ担ごうとしてしまった。男は、舌打ちをし、眉をしかめて僕をにらみつけ、首を左右に振りながら、行け行け、としわがれ声で叱った。

僕が我に返って姿勢を正すと、立ち止まっていたヘレンは、何も言わずに回転をもう一度繰り返して前を向き、歩み始めた。僕は、開いていた間を詰め、気にかかっていたことを思い切って口に出した。

「メノトはどういう立場を取るんだろうか? 君にとっては、乳母であり、義母でもあるのだから、君は、彼女のことをよく知っているだろが、僕はそうではない」

ヘレンは振り向かずに、厳かなほど断定的に語った。

「私の味方よ。もし万一息子たちと私とどちらを取るかと言われたら私を取るでしょうね。そりゃ、あなたには手厳しいわよ、当然でしょ。けれど、私のやることを妨害するなんてことはしないわ」

「アルファとべ―タの父親は僕だと知っているのか?」

「私は教えてないし、彼女も訊いてこない。けれど、感づいていることでしょう。そして、だれにもいわないでしょうよ。モ―にもね」

「君のそういう自信はどこから来るんだい?」

「メノトはねえ、私を溺愛してきたのよ。赤ん坊のときも、今の身長の三分の二だったときも、今の体重の二分の一だったときも、今の今でも。生理が来るうんと前から性教育をしてくれて、ひーちゃん、明日よって、最初の日を当てたわ。母親のいない私を母親代わりになって育てたの。死んだ父さんの彼女だったしね」

確かにヘレンから彼女の母親の話を聞いたことはなかった。あの高層アパートの一室にいたのは、やはりメノトだったのだ。

「母親がいないのは僕と同じだ。なぜいない?」

かすかに不安を感じながら尋ねた。

「私が生まれたときに死んだって、父さんが言ってたわ」

高まる動悸を抑えながらさらに尋ねた。

「まさか産褥熱?」

「なにそれ? なんだったっけ?」

ヘレンは頭を傾げた。蘇えってまだ程ない記憶の中で産褥熱という言葉を捜して駆け回っていそうだ。

「分娩のときについた傷から細菌が入って起きる感染症だ」

「ふーん、性教育でも教わらなかったなあ。私も気をつけようっと。気をつけたからって防げるものでもないか。とにかく、母親の死因は聞いていないわ。けど、それ、さんじょくねつっていうの? 大いにありえたわよねえ」

僕は極小の可能性に引っ掛かって危うく足がもつれそうになった。ヘレンはメノトの話題に戻って語り始めたが、僕は、ヘレンの話し声がはるか遠くから聞こえるほどに、奇怪な妄想にはまっていった。

おいおい、冗談じゃないぜ。まさか、双子の片割れではあるまいな。子宮に入っていたとき、隣にも向かいにも誰もいなかったよな。そんな気配の記憶はないが、念のために、アルファとベ―タに訊いてみようか。ま―まのお腹の中でも、お互いに相手に気づいていたかい? じゃれあっていたかい? えい、もう、あたま、おかしいんじゃないのか。子供たちは、こっちが言ったことはいつまでも覚えているぞ。頭を冷やせ。産褥熱だったかどうかわからないし、たとえ産褥熱だったとしても、それがどうしたのだ、証拠になんぞちっともならないぞ。

「……息子たちがヤンキ―になっちゃって、ガキの頃から桃色遊戯に耽って相手の女の子や親たちを悲しませたり怒らせたりしてたのに比べて、私は少なくとも見かけはまともだったし。私がモーとくっついたときは、涙を流して感謝していたわ、ありがとう、ありがとう、ひーちゃん、って」

動揺のあまり、話のかなりの部分を聞き逃した。

「私にはほかに選択肢がなかったからなのにね」

「どうして?」

ヘレンは、見えない壁にぶつかったように、突然立ち止まった。前を向いたままだ。

「あなたって、まったく、何にもわかってないのね! 私たちは、ちょうど教育課程を終えたところで、共通試験を受けて、生殖活動に取り掛かるところだったのよ。もう、時間がなかった」

現在帝国が執り行っている統一センター試験の前身が、施設ニッポンにもあったということか。生殖活動? プルターク交歓会の前身までもがあったのか? いや、そんなことはどうでもいい。僕にはわかっていないことがため息の出るほどに多いが、とりわけ今この瞬間何をわかっていないのか。

「ところがあなたは、先生の息子さんじゃないの。修業を続けるらしかったじゃない」

僕はヘレンの肩の辺りを注視している。僕はこの女を悲しませないと決意していたはずではなかったか?

「着床は確実だったわ。だから、大急ぎでモーとおこなったのよ。あいつ、延々私を口説いてきてたから、うれしがって、感激のあまり、泣きやがんの」

ヘレンは、洟をすすり上げながら笑い声を立てた。



先行する記事を読む:http://terra1.paslog.jp/

他の作品も読む:http://blogs.dion.ne.jp/shg/