ヘレンは黙ったまま、三歩ぶん斜め先のところで、彫像のように立っていた。僕は、興奮のあまり言葉が出ない。たとえ興奮していなくても、この場にふさわしい言葉があるだろうか。そもそも、この場に言葉がふさわしいだろうか。
ヘレンの左肩を見、肩甲骨を、腰を腿をふくらはぎをそのまた下のアキレス腱を見、踵を見た。踵がその下に踏みしめている砂利は真黄色だった。ほぼ白色となって舞っている煙霧全体の下に、ぶち撒かれたペンキのような硫黄を浴びて、川原が広がっていた。僕たちは、いつの間にか、川辺までやってきていた。
しっ、と音を立てて踵が上がり、へレンが前へ進み始め、引っ張られたかのように僕はよろめく。
ヘレンは前を向いたままどんどん進む。いつ振り向くのだろう。肩の揺れにわずかに遅れて振れる腕が、いつまた元に戻らず胴体の周りを回って、身体全体を引き回すのだろう。岩棚のテラスの上で、そこから降り立った岩陰で、いざる男の手前で、後ろ向きに歩いた後にも、計四回身体が回った。朝会ってから今までの時間内で、四回が多いのか少ないのかわからない。なぜヘレンの回転が気にかかるのか。……ヘレンの部屋でワルツを一緒に踊ったからだ。頭の中で鳴り響くハチャトリアンの仮面舞踏会にあわせて。らっ、らーら、るんらーららーら、るんらっらっ、らーら、るんらーららーら。体を回すと、壁や天井のクマグス粘菌とスミレやひまわりの花々は逆回転した。それらはあまりに急速に視界を走るので、形態は崩れ、色は混合したのだった。メノトが胡桃油を含ませたスポンジで磨いた床面はきわめて滑らかで、まるで凍った湖の表面のようだった。回って回って回り過ぎて、僕は船酔いに似た酩酊感を味わい、その挙句に、吐息のようなヘレンのつぶやきを聞いたのだ。“そうだった、あなただったわ”。これからも、僕は脳内にあるどこかの部屋で、ヘレンと踊り続けていくことだろう。その部屋で僕は、死に向かって一方的に崩壊していく者たちにリアルな時間を感じさせるのは拡散過程だけであることをひとまず忘れ、周期運動の魔、繰り返しの錯覚に酔い痴れるだろう。さらに回転の周期を短くし、超高速回転するジャイロのように無時間的な絶対の安定に恍惚となるだろう。……帝国市民そっくりに。
ヘレンが立ち止まった。僕は様子を窺ったが、回転はしそうになかった。そのかわり、ゆっくりと左腕を上げて、前方を指差した。
霧を透かして見えたのは、循環コードに乗って波音をたてて流れる湯の川に座り込んでいる十名ほどの男たちだった。顎まで沈んでいる者もいれば、上半身を突き出している者もいる。頭の位置がまちまちだ。川の深浅のせいではなく、川底に穴を掘って屈んでいる者もいるからだろう。ざわめきの中から、時々誰かが声を張り上げ、短い質問を投げかける。男たちが話しかけるその相手は、水際にこちらに背を向けて立ち、ジェスチャーを交えながら、よく通る声で、どよめく男たちに対して噛んで含めるように答弁している。女だ。痩せて、長身で、その声に聞き覚えがある。浮舟だ。
男たちの声が、記憶の中の女たちの声にとって替わった。延々と同じフレーズ、Nevermore、Nevermore、を繰り返すコーラスが、僕の鼓膜を内側から振動させる。浮舟は、戦勝祝賀会で、固めた拳から右親指だけ突き出して天井を指し、つりあげられて開く腋の下を隠すように顎を横にしゃくり上げながら立ち上がると、そのコーラスをバックに、体を上下に屈伸し、肩と顔を左右に逆向きにねじりながらラップを唄った。乳房が肋骨に当たって音を立てた。
“ああ、無が忍び寄る、無が忍び寄る、なんというむごい仕打ち、なかったことにするなんて、水に流してしまうなんて……、あいつの声を忘れそう、あいつの臭いを忘れそう、あいつの似顔絵、描けそうにない、あいつの体温、あいつの好き嫌い、あいつの口癖、忘れそう、私をなんて呼んでたっけか? ……、ああ、消えていく消えていく、忘れる、忘れる、長い時間が消えていく、あれはいったいなんだったんだ? あれはいったいなんだったんだ? だあれも教えてくれないよ、遠く小さくなっていく、遠く小さくなっていく、情熱が、献身が、愛欲が、笑いが、涙が、喧嘩が、忍耐が、切磋琢磨が、あいつと私だけの秘密が、消える、消える、私が更地になってしまう、待って、待って……”
男たち全員が、ヘレンと僕に気づくまで、それほど時間はかからなかった。おもむろに振り向いた浮舟は、昔僕の部屋の真ん中でしたように、顎を突き上げ、背伸びするようにして、微笑んだ、だが、たぶんへレンだけに向かって。それから、微笑を消しながらゆっくり深々と頭を下げた、僕に向かって。歌い終えて舞台上で挨拶するかのように。そして再び男たちのほうを向いたものの、彼らは黙りこくってしまい、僕たちを、いや、胡乱気で猜疑心に満ちた目つきなので僕だけを、見つめているばかりだ。僕は遮光器をむしり取って投げ捨てたが、男たちの様子に変わりはなかった。
「かなちゃんの仕事振りを御覧なさいな」
ヘレンは、川辺に向かってさらに一歩二歩近づいていく。仕事振り? あのような絶望の詩を歌った女が立ち直り、男たちを相手になんらかの仕事をなし得るとは、たいしたものだ。僕は、男たちの視線には怯まないが、浮舟の、悠揚迫らざる落ち着きぶりに気圧されて、佇んだままだ。待てよ、忘れては“更地”になって立ち直り生きなおすことこそが、帝国の女市民たちの生き方だっただろうが。それは知っていたはずだ。目の前に露わな実例を見るからといって、どうして気圧されることがあろうか。まさか、浮舟との避けられない接触を、この期に及んでためらっているのではなかろうな? う―ん、なるほど確かに、実はためらっている。なぜ?
ささ、ささらさら。あの時の笹竹の音を思い出した。モーゼは僕を男たちの列の端にひっぱって行った。いてーなぁ。何するんだよ。女たちの列が動揺し、僕の向かい側に、口が半開きの、呆然とした表情の浮舟が現れた。モーゼに肩甲骨の間を強く押され、僕は一歩よろけ、二歩目で踏みとどまって、眼前の浮舟を見た。痩せてやつれて、目の下に隈が出来、乳房が細長く垂れていた。かつて僕の部屋の真ん中で、顎を突き上げ、悩ましげにそそり立った長身の美少女。その痕跡すらない。僕は言った。よく覚えていない、いや、よく知らない男の前に来るのは、おかしいよ。小さなかすれた声で、かなわんわあ、と返ってきた。
さらにもっと昔、施設ニッポンでのことを思い出す。性の狂宴の一ヶ月が過ぎたころ、急につまらなくなった。憑き物が落ちたような感じをおぼえた。欲望も快感も消え失せた。なぜなら、その時の僕は、性行為が、正確に元に戻り、わずかの進歩もない繰り返しの典型だと見限ったからだった。だから、僕は、体育館から僕の部屋へと通じる廊下で、振り返らずに、後ろからついてくる浮舟に、もう終わりにするよ、ごめん、帰ってくれ、と言ったのだった。かすかに、かなわんわあ、と聞こえた。
なぜ、ためらっている。なぜ? 三角関係に陥るのを恐れているのか? それはない。その気すらない。なぜ? なぜなら……、なぜなら、浮舟を好きでないからだ。
ヘレンがついに振り返り、後ろ向きに歩きながら、僕を促した。
「どうしたの? 早くいらっしゃいよ」
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