僕は、ヘレンに追いつくと、その左手を右手で掴み、引き寄せるというよりは体側を押し付け、浮舟に並んで立つのを避けるために、やや下流寄りに向かった。

水面よりもいくらか上に離れてから現れる白い湯気は、水流に沿って右に進もうとするところで、湖から這い上ってきた風に煽られ、発生した乱流に翻弄されていた。岩棚に沿って分厚く滞留して紅色に染まった霧とは異なり、白色のまま舞いながら上昇し、既に中天近くに昇った太陽の熱で宙に掻き消されていく。

湯気の下には、真黄色の川床の上を縒れながら、エメラルドグリーンの温水が流れていた。夜にはほとんど意識しなかったこの強烈な二つの色彩によって、光あふれる視野の背景は、べた塗りとなり、前景の持つ現実感を放逐する勢いを持つ。だから、揺らめく湯気はすぐに姿を消す足のない白い幽霊で、蹲る男たちは既に死んだ者たちで、彼らと浮舟とのやり取りは、昔、青く塗られた天井を仰ぎ見ながら聴いたオペラの一節のようだった。

浮舟は、首だけ捻じって僕を見やると、とがった顎で弧を描き、川面を指した。僕はヘレンの手を引いて、川の中に右足を一歩を踏み出した。傷跡のぞくりとするかゆみに現実感のささやかな回復を味わった。へレンがつぶやいた。

いいのかしら/来ると伝えておいたんだろう? /ええ。かなちゃんのほうから、あなたを連れて来てくれと言ってきたの/じゃあ/ でも、川に入るとは思わなかったわ/岸辺にいるよりは何かがわかりやすくなるんだろうね/そうなんでしょうけど……

僕はなるべく水音を立てないように用心しながら、やや躊躇しているヘレンの手を引いて進んでいく。

男たちは、僕の左手側におり、ほぼ全員が浅瀬に蹲っていた。顎まで漬かっている者だけは例外だった。川底に穴を掘って腰を下ろしているのだとてっきり思っていたが、それは間違いで、腹に石を乗せて流されないようにして仰向けに横たわっているのだった。すべての男たちが僕らを目で追っていた。彼らと浮舟との対話を中断して申し訳なく思い、ふくらはぎの深さのところで立ち止まると、上流のほうを向いて男たちに一礼し、岸辺に向かって浮舟にも一礼した。男らの目に僕が見出したものは、やはり、怯えや絶望や自暴自棄やマゾヒズムではなく、末期の不可思議な朗らかさだった。さらに、同じ運命で括られた集団が醸し出す和やかな憩いの気分さえ感じ取れた。いずれも、今の僕には及びもつかない心境だ。

僕は、切れ長の目を細めて男たちを順に見ていくが決してこちらを見ない浮舟から目を離さずに、ゆっくりと湯の中に身体を沈めた。僕が引っ張るのでヘレンも坐った。

再び、質疑応答が始まり、その内容は聞きとれた。

「……シュピロは、だから、あなたの従兄弟に当たるの」

「シュピロはどうしてるんだ、おかなさん」

どの男のものかわからないが、その声は掠れ、震え、声量はかすかだ。長くは保つまい。

「前の前の戦争で死んだわ」

かすかにどよめきが起きた。

「ホジャリ、あなたとは、子供の頃、団地に囲まれたあそこ、リュクサンブール公園の砂場でよく遊んだものだわ。あの時、シュピロもホスニもいたのよ」

か細いうめき声が川音にかき消されそうだが聞こえた。

「ホスニはどうした。やっぱり戦争で死んだのか」

「ちがう。体育館の登り棒から落ちて脊椎を折ったの。しばらくは登り棒のたもとで横たわったまま生きていたけど、いつのまにか消えてしまったわ」

比較的元気なのか、手を挙げてから質問した者がいた。

「俺はどこで暮らしてたんだ?」

「第3住区、B号棟の、402号よ、サバサット」

僕は、断続的に続く問答を唖然として聞いていたが、どう? とへレンが肩をぶつけて訊いてきたので、ヘレンの方は向かずにつぶやく。

「驚いたな。浮舟ことおかなさんは、記憶をたもっていたんだね。君は知っていたのか?」

「私も昨晩知ったのよ。少なくともあなたと同じくらい驚いたわ」

だが、ヘレンの口調には驚きの痕跡はない。何らかの納得がいっているのだろう。昨晩一晩で新たに知った事柄はたくさんありそうだった。

「戦勝祝賀会では記憶が消えていく悲しみの歌を唄ったのに、ここでは過去の記憶を男たちに開陳するとは、大変な矛盾だ。どうしてそうするんだろう」

「ああ、あの歌のことかあ。祝賀会では、必ずかなちゃんが踊りながら唄うのよ。そのわけは直接かなちゃんにお訊きなさいな」

「そうしよう」

「ただし、一言。あなたがおっしゃるほどの大変な矛盾ではないと思うの。記憶が消えていく悲しみを唄うんだから、必ずしも記憶を否定的に捉えているわけではない。むしろ記憶の貴重さを暗示していない?」

僕はヘレンの横顔を窺った。正面を見ながら、唇の右端から舌の先を見せた。僕を指差すように。

「僕には、記憶が消えるのは誰もが共有する当然の仕方のないこととみなし、むしろ諦めるのを促しているように聞こえたよ。君は昨晩彼女が記憶をたもっていることを知って、こういう言葉はふさわしくないかもしれないが、裏切られた、などと思わなかったか?」

ヘレンは、額にしわを寄せ、僕を睨んでから言った。

「それはおかしい。じゃあ、私が記憶を回復して、それを今は隠していることが、市民の皆さんに対して裏切りになっているの?」

「確かに、裏切りではないな。では、あのラップを唄ったのは、記憶をたもつ者同士の間では裏切りにならないか?」

「ならないわ。かつて私は記憶を封印されていたから、記憶が消えていくという歌はすんなり受け入れられたわ。現時点の問題じゃないでしょ」

しわを寄せたまま、首を左右に振っている。

「なるほど」

「あのねえ、タダヨシ。裏切りという言葉が意味を持つのは、当事者同士が、ともに同じ期間に記憶をたもち続けているという条件の下でだけなの。例えばあなたと私の間柄はその条件を満たしているわねっ」

表情が急に変わった。大きな目で僕を見つめると、舌なめずりしてからにやりと笑った。なかなかの迫力だ。

「なるほど、なるほど」

不用意な言葉遣いを批判され、反省もし、例えば云々の一言に冷やりともした僕は、ヘレンの反応を探るのをひとまず措くことにした。なぜなら、僕はヘレンと浮舟との会談の結果をまだ知らないせいで、あるいは自らの無思慮のせいで、今のような間違いをさらにしでかしかねないからだ。浮舟との友情を再発見したばかりのヘレンに、その友情を揺るがしかねない言動を働くのは、酷であり、許しがたいと思ったからでもある。もっと僕の知識が増え、時間も経ってから、それでも意味があるなら、やればいい。

一方、今や、浮舟自身の意図は、知りたくてたまらなくなった。質疑応答は延々と続いていた。僕は浮舟を見た。

「僕も、手を挙げて、質問しようかな」

「ちょっと、やめてよね、妙なことするの。今は観察に徹して頂戴よ」と言って、また、肩をぶつけてきた。

「男たちは彼女がこういうことをしている理由を知っているのかな」

「たぶんね。皆さん、それを知ったので、益々お喜びのことでしょう。あなたがどう感じるかはわからないけれど」

再び窺うヘレンの横顔は、なにやら苦痛をこらえているかのように、美しくゆがんでいた。

浮舟のこの行動の根拠は、彼女が昔から持っていた神秘的な、宗教的な性向にあるのか、時と場所にふさわしく市民の状況に適応しようとする姿勢にあるのか、なんとも見当がつかない。その上、こういう現場を僕に見せた意図はさらに見当がつかない。岸辺にそそり立つ浮舟の姿は、日を浴びて光り輝き、声は、蝉の声にも波音に負けずに高く鋭く、身振り手振りは、表情豊かで、……いやそれどころではない、手話を用いていた。音声と手話が同時に同じことを言っていた。チュウリョチュウリョ 、アナタ ノ チチオヤ  キュウリョキュウリョ ト イイ、 アナタ ト ドウヨウ ショウノナイ ノンダクレ ダッタ。アルトキ……

ふいに、視野の右辺近く、集団の最も上流側に坐っていた男が、仰向けになった。声を立てずに笑い過ぎてのけぞったのかと思った。ちょうど白っ子1がしたように浮き身になって、川面に身体を伸ばした。男たちは、前かがみになったり後ろに反ったりして、その身体を通してやっている。やがて僕の目の前に流れてきた。僕もヘレンも両手で脚を抱え込んだ。下肢が水中に垂れて踵が川底を引きずっているので、頭が川下を向いていた。白っ子1が身体のそばに浮かべていた軽石製の両生類≒モーゼのミニチュアが、耳の横に並んで流されている、と思ったが間違いで、その男のものと思われる雲古だった。目は開いたままだ。時々波に洗われて強烈な酸性の湯をかぶっても反応せず、依然として開きっぱなしだ。早くも白目が黄変している。さわらないで! へレンが鋭い息声でささやいた。


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