両腕を水中から抜いて前へ突き出そうとして、その途中、戦場で時々やらされた小さく前へならえの状態になった時に、両手をむんずと掴まれた。よく磨かれた爪が食い込んで痛い。

ヘレンはふんだくるように抱え込んで自分の臍の少し上辺りに押しつけた。乱暴な女だ。

僕は、上半身を左側に捩じられてしまったが、顎を右肩に押し付けたまま男の死体から目を離せない。なぜなら、通り過ぎかけたところで、何かに引っかかったらしく、止まってしまったからだ。なにやら催促されている気がする。傍らに浮いていた小さな分身はさっさと行ってしまった。

痙攣を起こした最期の瞬間に川床の石を掴んでしまい、その石が川床の石の間に挟まったのか。こんな奇怪な思いつきに捕われたのは、戦場で兵士が死ぬ間際に、両手を握り締める光景をよく目にしたからだろう。

エメラルドグリーンの水はよれて捩れて流れていくので、透かして見据えようとしても対象がちらつき、死者が踊るスケルトンダンスを、ストップモーションで見ているかのようだ。しばし観察した結果、少なくともこちら側の手は何も掴んでいないとわかった。向こう側に体が傾いてもいない。恐らくは引きずっている踵がつかえたのだろう。左のつま先は左右に揺らめいているのに右のつま先が直角に曲がって天を指したままなのでその踵が怪しい。

外側に湾曲し肉の落ちた脹脛と腿を、水が溜まって瘤となった膝関節がつなぎ、ペニスは不思議と容姿衰えず、つま先と同調していやいやを繰り返し、カルデラのようにへこみきった下腹には、石か爪で切り裂かれたらしく、醜い縦の亀裂が走り、小さな黄色い蛇のように脂肪がはみ出したままこびりつき、亀裂の周囲は化膿から壊死へと移り変わっていて褐色に変色し、内部では腹膜炎を起こしていた可能性があり、腹の斜面を登る中途に皮膚から突き出た臍があり、蛇腹の胸骨から延びた首の先が尖った顎となって流れを切り裂き、頬や側頭の傍らにいくつもの小さな渦を作っている。

十三夜の谷は、眼前の亡骸を、己の縮小同型像として含み、その荒涼をもまた、全体の物凄い荒涼の真部分として呑み込んでいる。死体の下腹の黄色い脂肪の亀裂は、まさに谷を貫く黄色い川床に対応する。僕は自分が鳥になったと想像してみた。十三夜の谷全体を悠揚迫らず文字通り鳥瞰していたところ、硫化水素の罠にかかって墜落し始め、土壇場でこの死体を見て、同じ空間を二度通過したと、朦朧たる意識の中で錯覚し、Nevermoreと毒づこうとするが果たせず、地面に激突するのだ。

へレンがしゃべり始めたので、その後に食べられる場面を想像しないですんだ。柔らかい皮下脂肪を通して腹筋が細かく痙攣するのが手のひらに伝わってくる。浮舟の発言が、声と手話を手段として、聴覚と視覚に訴えるなら、ヘレンのそれは、声と腹筋を手段として、聴覚と触覚に訴えるかのように勘違いするほど、腹の振動は充分に分節化が進んでいて表情豊かだ。

「タダヨシがこの亡骸をどうしたいのか、わかってるよ。誰にも見つからないところまで運んでいって埋葬するんでしょ」

僕は感心しながらヘレンを見上げる。

「そうだよ。白っ子1の二の舞にしたくないんだ。しかし、どうしてわかったんだい?」

「ジャングルの中にあなたが建てた墓を兵士たちが見てるじゃないの。中には、えさを隠す獣のようだって、くさす者もいたわ」

僕は、チャーリーの墓をありありと思い出した。たくさんの火山弾で覆った盛り土は、さながら、触手、触角、鰓突起をつきたてて海底に蟠るウミウシだった。

「誰にも見つからない場所なんてないわ。そんなの、どこにもない土地じゃない? そもそもここは国立公園内なのよ? 知ってた? あっちこっちでトネリやノモリが見張ってるわ。そんなところに墓穴を掘って、また歯茎を腫らすつもりなの? あら、そんなしかめっつらをして。じゃあ、もう聞きたくないのね? そうじゃない? じゃあ言うよ。タダヨシは、できることなら火葬したいとも思っていなかった? そりゃ、わかるわよ。だって、崖下の異変の犯人はあなただろうって、みんなうわさしてたもん。え? これもまた知らなかったの?」

「それくらいは知っていたさ」

震える声で答えた。虚勢を張っているわけではなかった。

白っこ1の声が、僕の脳のどこか、一晩のうちに早くも確保した居室から、聞こえてきた。

〝君はあそこを巨大な焼却炉にしてくれた。評価しないとは言ってないよ。なにせ、人生の大団円を迎える舞台としてよりふさわしくなったんだからね。その上、戦争の際に有効だ。投石だけの場合と較べて、処理のスピードが格段に増したんだもの。君は機械的劇的一掃を好むようだね。敵陣にも楽園内にも、Arbeit macht freiと、標識を掲げてはどうかね、ははは

僕は頭を二三度強く左右に振ってから、動揺が口調に出ないように気をつけながら、ヘレンに語りかける。

「あれは生涯最大のドジだった(何を言っているんだ。もっと大きなのがあったはずだ!)。早く戻って消さなくちゃ。三者面談後にここを出るつもりだよ。どうやって消すのかも見当をつけてある。宴の池は入り口より位置が低いから、水飲み場か小川の上流から、竹の樋で水を引くんだ。あるいは、バケツリレーだ。同僚だった奴隷たちの協力を願い出るしかない

「そしたら、ルモーが喜ぶでしょうね」

「なんだって?」

彼の意思に沿うことを僕がしようとしているとは驚いた。頭蓋骨の内から白っこ1のちゃかしが入り、回復のための一息をつくまもなく、外からヘレンの……、まさか、これもちゃかしか?

「あれには市民の間で賛否両論あったのよ。みんな、そんなことがあったなんてもう忘れているけどね。戦争の後では既成事実になってしまったわ。しかし、リルモーは今でもかんかんに怒ってるわ。深刻な外交問題を引き起こしたんだそうよ。モーは、それほどでもないの。打つ手はいくらでもあると言って、弟をなだめてるわ」

「どういうことだい?」

「だって、あそこは異民族たちのための食堂だったじゃないの。火が怖くて、もう誰も近寄れなくなっちゃった」

「ええっ? 食堂? おいおい、なんだって?」

こっそりと火をつけに行った時は、誰もいなかったようだが。偶々だったのか、突然現れた僕の姿に警戒して隠れたのか。最もありそうなのは、食事時間が我々と同じく夜であり、かれらは夜にやって来ていたということだ。みんなが知っていて僕だけ知らなかったことがまた一つ増えた。僕は、情報源を欠いているどころではない。とんでもない無知な野郎だ。常識とはなんと気づきにくいものだろうとは思うが、それもいい訳だ。動揺を隠しようもなく僕は恐るべき事実を確認するために問いかけた。

「戦争で一挙に供給するだけでなく、日常的にも少しずつ供給していたのか?」

供給していたのか? 食料を、死体を、死を! 僕は、民族毎の食事時間割なんぞを思い浮かべてしまった。

「そのとおりよ。それを今まで知らなかったにしろ、ここではそういう類のことは当たり前なのだとはあなたも納得するわよね」

ヘレンはこともなげに答える。僕はその美しい横顔を、別種の生物のもののように、戦慄を覚えながら見つめる。

宴の池にも底がないが、僕の無力感には底がない。

その上現実的にも実に実に困ったことになった。ひとたび火の効用に味を占めれば近代まで一瀉千里、帝国が帝国主義化し大戦争の時代に突入するという理由で火を消せば、崖下での日常的なカンニバルを復活させてしまうのだ。いったい、消すべきか、消さざるべきか、それが……

「あらっ、このおじさん、いや、お兄さんか、私、知ってる。フンジャリと呼ばれていたわ」

ヘレンは僕の手を押し戻して返してくれた。身体をいったん起こし、膝まづき、身体をかがめ、男の盆の窪を左手で支えると、右手の親指と人差し指で目蓋を閉じてやった。じんわりと開いてくるので、二度三度と繰り返した。

「私が子供の頃、よくうちに遊びに来ていたんだ。お土産に、あれ、なんて言ったっけ、口の中に入れるとねばねばしてそうでくっつかなくて弾力があって化学甘味料とキシリトールが入ってていつまで噛み続けるべきか飲み込んでいいのかどうかわからないやつ。なんだっけ、なんだっけ、ああ、何であれ、思い出そうとする時はきりきり舞いするわ。新しい眼が開く感じ。もうすぐ私は千の眼を持つでしょうよ。で、なんだっけ?」

「チューインガム」

「そう。それをくれたわ。やめてくださいってメノトに叱られてたけど、こっそりくれてたわね。このお兄さん、どこから手に入れてたんだろう。あなたのお父様のデスクの引き出しからかしら?」

ヘレンは、般若心経ではなかったが、鼻をすすりながら亡骸に向かって何やらつぶやいた。男の顎の下に右手を添えた。魔法が解けたように、死体はゆっくりと移動を始めた。

「仰向けに這っていたあの男は、行け行けって、あなたを拒否したでしょ。ありがためいわくだってことよ。フンジャリも生きていればそうしたでしょうよ。このまま行かせてあげてね」

「わかった。埋葬したり、火葬したりはしないよ。ただし、後はついていく」

僕はのろのろと立ち上がり、ひそひそ話をしている男たちや直立して流し目で僕らを鋭く見つめている浮舟に礼をすると、川下に向いた。ヘレンが、顔を濃いピンク色に染めて、僕の行く手をさえぎるように立ちはだかった。

「行っちゃだめよ。ほっぺた、ひっぱだいてやろうかしらっ。川下に住んでいるのは、まだ執着心旺盛な飢えてる者たちなの。上流から流れてくるものを待ち構えているのよ。あんな小さなあれだって食べるわよ」

ヘレンはすばやく顎を横に振って元に戻した。死体ではなく、死体の同伴者のことを言ったのだろう。

あなたが思っている以上にたくさんいるわ。行ったらあっという間に取り囲まれるよ。あなたが要望なりお願いなりを言ったら、代償としてめちゃくちゃな要求をしてくるわ。彼らの交換条件はゆすりのようなものよ。口での要求だけじゃない、実力行使も大ありだわ。なにされるかわかんない! 私とベータがこんな危険なところでなぜ無事でいられるか。それはね、ああもう、私がモーの女だってみんなが知ってるからよ! だけど、タダヨシには保障がない! タダヨシは、自分がどんなところにいるのか理解してない! 市民はね、あなたの言う帝国はね、あんな彼らを許容してるの。だって市民のひとつのありかただもの。もっと言うとね、彼らの味方なのよ。国立公園での二泊三日の市民のための定期ツアーが組まれていて、彼らの生活が洗いざらい紹介されるのよ。帝国には彼らが必要ですらあるの。だからね、今は、逆らわないで我慢してちょうだいよ。そうしないととんでもないことになるわ。私たち、子供を連れてジャングルをさ迷うはめになるのよ!、 もっともっとひどいことになるかもしれないのよ! わかってんの?」

僕は、残念ながら決心は変わらないので、黙って突っ立ったままだ。この女を悲しませないと決意したことは忘れていない。心配させ、怒らせ、あきれさせている。とても申し訳ない。だが、今、悲しませてはいないはずだ。

ヘレンは黙ってしまった。にらみ合いが続いた。

ヘレンの発言を頭の中で繰り返していて、ある言葉にひっかかった。ヘレンは、子供、ではなくて、子供ら、と言った。それは、アルファとベータのことか。それとも、ベータとこれから産むつもりの子供のことか。ヘレンはどんな秘密裏の計画を立てているのだろう。過去を想起することが、未来へ想像をたくましくすることを誘発したのだろうか。

かすかな地鳴りがして右足の傷跡がその音と振動のためにうずき、シャンパンが壜からあふれるような音が聞こえた。間歇泉だ。それを指揮棒の第一閃として、ご詠歌を合唱する声が背後から聞こえてきた。実際、この地の者は、間歇泉を時計代わりにしているかもしれない。見た目の天体より正確だろう。男たちの息絶え絶えの陰気な声に混じって、浮舟の魅惑のハスキーヴォイスは際立つ。踊っているかどうか確かめたくなったが、ヘレンに悪いからやめた。

過去を悔やみ、過去を思い出したことを悔やみ、今の自分を蔑む歌詞の内容に、僕は責めたてられている感じがしてならない。

出だしの、ああ、火の神よ、の一句を聴いて気がついたことがある。実際の歌詞でも火の神だったなら、ヒ、と、カ、にアクセントを置き、陽の神や日の神だったなら、ノ、と、カ、にアクセントを置く。火が出ると日が出るの違いと同様だ。今は前者の場合が聞こえるので、ヒ、には火を当てているのがわかった。つまり、少なくとも河原の民となった市民は、この一件からも、どれだけ以前からかはわからないが、火を知っていたことが明らかになった。

長い沈黙を破ってヘレンはため息をついた。

「あーあ、やっぱりそういうことをするんだ。自ら墓穴を掘るようなことをするんだわねえ。あなたが市民たちに強い関心があるのはわかるのよ。しかし、自分がどうなるか、よく考えてくれないかな。自分に関心を持ってよ」

「僕は、僕自身に、関心がない。そんなものがあるかどうか、長年の疑問でもあるしね」

「そうね、それがあなたの持論よね。けど、たとえば、ないと主張する、そこにこそ、あなた自身があるでしょうに。ま、いいわ、じゃ、さっさと行きなさいよ。……私は今どうすればいいのかなあ?」 

「胴乱を探してくれないか。源泉の岸辺に置き忘れてしまったらしい」

ヘレンは両肩を引き上げ眉をひそめながら、「あら、そういうこと? 胴乱なら、かなちゃんのうちにあるわよ。トネリが届けにきてくれたわ。あの、そうじゃなくて……」

僕は、この、そうじゃなくてを、わざと無視する。

「じゃあ、後でとりに行く。かなちゃんとあの岩の上で待っててくれ。様子を見になんて来るなよな」

「はいはい、まったくもう。で、後っていつよ。ねえー、いつよ。はっきりそれを意識して行動してちょうだいよ」

周期の短い熱い息を僕の胸に吹き付けてくる。

「君がバルコニーに登って一息ついて振り返り、下を見たら、僕が川からもどってくるのが遠くに見えるぐらいの後だ」

へレンが、大袈裟に再びため息をつきながら横にどいたので、左の目じりにぎりぎりと食い込む視線を感じながらそっちは見ずに立ち上る蒸気の中に亡骸を探した。鼻をすすっている音が背後から聞こえてきた。まただ。振り返って大声で言った。「ヘレン!、副鼻腔炎じゃないのか?」

こういうことを僕はしてしまうのだ。ヘレンは、ゆらゆら揺れながら、手で顔を覆っていた。僕はあわてて前に向き直る。心臓がどきどきしてきた。なんだよ、あきらかに悲しませているじゃないか。

震える声が追い討ちをかけてきた。

「僕自身には関心がなくてもかまわないわよ。私には関心持ってるんでしょうねっ?」



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