すでに真昼となっていた。
ぎらつく恒星は今や間際まで南中線に迫り、十三夜の谷が醸し出す地獄の様相もまた絶頂に達しようとしていた。
気温が急速に上昇した結果、高空に霧は消え、無数の、短い寿命の湯気が、川面から五尺ほど上がったところに、遥か下流まで垂直に立ち連なり、まさに、三途の川の川面の上を幽霊たちがひしめいている図だ。砂利と石とそれらの間から突き出る奇怪な岩たちは、陰を持つ余地なく陽に曝されて、構成粒子である微細な造岩鉱物までが白日の下に露わとなり、僕の移動に連れて、夜空の星々のようにきらきらきらめく。
天上に飛び交う天使たちの合唱かと聴きまがう蝉の声は、激烈なハイテンションを保ちつつ谷に降り注ぎ、左右から遠く近く聞こえてくる悪魔の長嘆息たる噴出ガスと混合し、山彦によって増幅されて、熱狂的にかしましい。
融けてとろけたエメラルドの湯の川は、あまりに光り輝いてめまいを誘い、循環コードに乗ってさんざめきながら、まっ黄色の川床に沿って、撚れてよじれて流れていく。
豊穣を極める、山腹を覆う黄緑色の草原とそれに続く尾根にまで至る深緑色の大密林を、草木一本ないこの地獄の谷底が、下から窺っているのだ。
亡骸は、天然の湯灌を施されつつ、この風景を、下端から切り裂いて流れ下る。
後をついて行く僕は、高まる緊張感が身体の動きをぎこちなくしないように、腕をぶらつかせ身体をねじってストレッチングをしながら大またで、一歩一歩水を掻き分ける。
時々亡骸が進みあぐねると、ヘレンがしたように坐りこみ、左手で盆の窪を、右手で喉の下を、そっと押しながら、遠慮しつつも、行くぞ、とささやき、前へと促す。
ついに閉じ切れなかった目蓋の下から半眼でこちらを窺っているフンジャリは、信用して許してくれるにしろ否応なくであるにしろ、おもむろに僕と一緒に再び進みはじめる。
僕は、想像する。かつてフンジャリがこの川を上流へと立って歩いて逆行していった姿を。彼だけではなく、さっき浮舟の指揮のもとに、賛美歌、じゃなかった、ご詠歌を唄っていた者たちもまた、かつては下流にいて死肉喰らいに明け暮れていたが、食欲だけではなく生存欲まで衰えて、しかしその場でへたり込むことはなかったので、上流までたどりついて、イタコ浮舟に、自らの過去を明かしていただき、ご詠歌も教えられて、悔恨と諦めのうちに死に、自らの肉体を下流に控えるかつての自らに、献体したと。下流と上流は、逃亡者たちの身体の毀損条件による棲み分けに対応するだけでなく、その反成長過程、衰亡過程の始点と終点だ。下から上へとたどる者たちは、一見、欲が抜けて悟りの境地に向かうかのように見える。距離にしてはわずかだが、意味ありげな差異だ。猜疑心旺盛な僕は、もっと観察してからでないと最終的な判断は下さないが。
やがて川幅が広くなったことが見て取られ、流れ込む細流のせいで水温が低くなり水量が増えたと識別できるようになったあたりで、最初の一名を見つけた。
川のほとりに浅い穴を掘って寝そべっていたその男は、のっそりと立ち上がった。少し遅れて殺気もまた立ち上がった。
僕と眼をあわさず亡骸を注視したまま膝を曲げ腰を落とし顎と肘を引きつけ右足に体重をかけ、獲物に飛びかかる寸前の獣の姿勢を恥ずかしげもなくとったものの、左手でわき腹をギターをかき鳴らすように掻きむしったので、自らの発していた緊迫感を一挙に霧散させた。感謝したくなるほどに笑える。
一度掻くと我慢ができなくなったようで、掻き続けている。手のひら大の潰瘍ができており、周囲の皮膚はリング状に黒く壊死し、そのまた周囲は赤く炎症を起こしていた。掻き毟ることで加速され、潰瘍も壊死も炎症も拡大の一途をたどっていくはずだ。この男に限らず、傷ついた兵士たちは温泉療法を求めて十三夜の谷にやってきたのだが、ただ湯に浸かるだけではいけない。傷に対して、壊死組織を切除すること、即ちデブリードマンを施さねばならない。腐敗部分を蛆に食わせるという手もあるが、この環境下で生きられる蛆がいるだろうか。岩を磨いでメスを作る必要がある。
男が絶望的な余所見をした方を見ると、左側、川の中央に、男が二名、杭のように不動の姿勢を保って立っていた。
向こう岸には坐り込んだ数名が想像したくない何かを中心に置いて頭を突きあって群れていたが、そのうちの一名が声を挙げて立ち上がると残りもそれに倣った。
応じるようにこちらの岸でも、平たく積もっていた砂利が寄り集まって来て姿を形作るように何名かが上半身を起こした。
左に、水滴を垂らしながら顔を上げる潜水中だった者もあれば、右に、なんだなんだといったふうに岩棚の方から近づいて来る者がある。
川を隔てて発された個々の殺気が、川の中に立つ中継者を飛び石にして交錯し強め合う。
僕とフンジャリのスピードに合わせて男たちは移動する。
取り囲む輪が段々狭まってくるにつれて、硫化水素の臭いとは似て非なる、膿の発散する悪臭が漂ってきた。
背後の水音に破調が生じた。振り返ると、案の定、笑い顔と見まがうほどの悪鬼の形相ものすごい男が、急に水中で立ち止まった。羽交い絞めにしようとしていたのか。威嚇効果に大した自信はないものの、出来る限り凄みをきかして睨み返してやってから、一回転して前に向き直った。
灼けた砂利や小石を足先でほじくる音、足裏で蹴った石がころがる音、掻き立てる水の音が、間近に聞き取れるまで、そして、僕の声が全員に聞こえるまで、包囲網は狭まってきた。一斉に飛び掛かられるほどまでには近づかないように周囲にガンを飛ばしながら、ある瞬間を待った。次にフンジャリが引っかかって止まる時だ。
男たちは見渡した限りで十二名。背後に、もう二名いると思う。
いずれも肌は不健康に茶褐色と化し、顎が前に落ち、鎖骨と肋骨が浮き出て、脚の筋肉の落ち具合は、身体を支えていられるのが不思議なほどだ。
ただ、下腹については、日陰ができるほど陥没して皮膚が垂れ下がっている者と、妊産婦並に大きく膨れ上がっている者とに二分される。
その時が来た。が、言葉が出ない。留まったフンジャリが、どうするんだ、と訊いてきたような気がして、やっとしゃべることができた。
「照葉樹林帯には、どんぐり、くり、しいの実、くわの実、ブドウ、イチゴ、アケビがいくらでもあるじゃないか」
「あるからなに? あんな高いところまでは登れねえよ」
「じゃ、その下の草原はどうだ。こおろぎ、ばった、花むぐり、いやもう無数の昆虫がいる。蜂の巣が見つかるかもしれない、団子虫、ミミズも」
「そこまででさえ登るのはつらい。虫を追いかけたり土を掘ったりするのもつらい。わかってねーな」
「さっき、落ちてきた鳥に群がったときはどうだったんだよ。草原まで登ったのを見たぞ」
「あんな大物、珍しかったからだ」
「じゃ、ミミズを大物と思えよ。たくさんいるんだから結局は大物に匹敵するぞ。この湯の川に生き物は住めないが、流れ込む川には、川えび、とびけら、小型の甲殻類、魚までいる」
「もう動きが鈍くなっちまって捕まえられない」
「石を積んで罠を作れ。釣り針を作れ。そのそばで待つぐらいはできるだろ。下流に行けばジャングルが近くまで降りてくる」
「危険だ。どれだけ危険か知っている。俺たちは命からがらそこから逃げてきたんだ。獣に食われちまう」
「ジャングルの奥にまで入れとは言ってないよ。川下では、岸辺にだってヤシやカルカヤや棕櫚やへちまが生えてるだろう。帝国で使っているのと同じようなスポンジを作れるだろうが。それに川の水を浸して武器にしろ。襲われたら投げつけろ。そして川に逃げ込め。獣は酸性の湯の川なんぞに足は踏み入れない。少々の危険は当たり前だ。探せば、求めれば、食べ物はある。だから――」
「だから?」
「だから、仲間を、食うなよ」
一瞬、しんとなった。
「食料は運んでくる。待っていてくれ。この亡骸一体のエネルギーと栄養の量など、大したものではない」
ひょうきんな調子で「だってだってえ、おいしんだもん」と誰かが言った。男たちの間に、笑い寸前のどよめきが広がった。
亡骸に手が伸びてきた。
「触るな!」と一喝すると不服そうに引き下がった。
へレンが傍らにいて、触らないで、と僕の左肩に息をかけながら言った記憶をなぞるように、僕も、触らないように、と小声でやつらに追加した。
湖で水葬できればいいのだが。その場合でも魚や甲殻類に食われるし、埋葬しても地中の微生物に食われる。食われることには変わりない。だが、仲間には食わせない。
視野の右下で石が空中を通過して、右横腹に衝撃が走った。石が水に落ちた音を聞きとる余裕はなかったので、なにやら、その石がめり込んだままのような錯覚を覚えた。肝臓の辺りを手ではったと押さえ、ああ、石はないな、うめきながらも強がりを吐く。「うーむ、死にそこないのくせに、いやに力が強いじゃないか」言いながら、睨みかえすべき相手を探す。
「やけくそになると力が出るんでなあ」と言いながらちょうど岸辺に坐り込んだ男が見えた。その男が発言を続ける。
先行する記事を読む:http://terra1.paslog.jp/
他の作品も読む:http://blogs.dion.ne.jp/shg/